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(3)

「か、帰ろうか?」

 幾分顔をしかめて幹夫が小声で言った。

「そうねえ……」

 早苗は少し迷った。その時仲居は膝を付いて正座し、両手を腿の上に置いて、じっと待つ姿勢を見せた。


 それから両手を畳の上に着いて目線を二人に合わせ、

「あの、先払いとなっておりますので、どうか、お願い致します」

 柔らかい物腰で少し頭を下げながらそう言った。

「わ、分かりました。それじゃあ、これ」

 幹夫は慌ててポケットから財布を取り出して一万円を手渡した。


「はい、有難う御座います。申し遅れましたが、私ここの女将をしております、吉沢京香と申します。宜しくお願い致します」

「仲居さんじゃなかったんですか?」

「仲居も兼ねておりますので、間違いでは御座いません」

「ああそうですか、どうも」

 幹夫はペコリと頭を下げてから畳の上に座って胡坐をかいた。


「あのう、レシートは無いんですか?」

 早苗も膝を折りながら強気に言った。

「はい、その前にここにどちら様かのサインをお願い致します」

「レシートが先よ」

 早苗は尚も食い下がった。

「ああ、申し訳御座いません。この用紙が誓約書兼領収書にもなっていますので」

「ああそう、細かくコチャコチャと書いてあるわね。相川早苗、書いたわよこれで良いのね」

「はい、有難う御座います。こちらがレシートとなっております」

 女将は用紙のミシン目の入った所から切り離して、領収書になっている部分を早苗に手渡した。


「あのう、それからお食事の件なんですが……」

「食事付でしょう? それもお金を取るんですか!」

 早苗はムッとした様子で言った。

「いいえ、その、コースが二つ御座いまして、フランスコースと日本コースの二つなのですが、どちらが宜しいでしょうか? お二人様別々のコースでも宜しいのですが」

「ええっ! フランスコース?」

 フランスと聞いて早苗の態度はがらりと変わった。


「そ、そうねえ、私はフランスコースで行くわね。貴方は日本コースにしたら?」

「俺だってフランスコースの方が……」

「じゃあ、私は日本コースにするわ。その方が色々食べられて良いじゃない」

「まあ、それもそうだな。じゃあ、フランスコースと日本コースと一人前ずつでお願いします」

「はい、かしこまりました。それであのう……」

「ま、まだ何かあるんですか?」

 幹夫は早く寛ぎたかった。


「当旅館の仕来たりで、なるべく早く露天風呂にお入り頂きたいのですが」

「いちいちそんな事まで指図する訳!」

 一度は収まった早苗の感情がまたぶり返した。

「はい! ダイエットの為で御座います! 必ず、必ず、痩せさせてみせます。その為に命を懸けております!」

 女将の気迫は凄かった。それにはさすがの早苗もたじたじだった。


「わ、わ、分かりました。じゃあ、直ぐお風呂に入ります」

「有難う御座います。浴衣はそこの乱れ箱に入っております。大きい方は男性用、小さい方は女性用で御座いますので宜しくお願い致します。お食事の方はお二人が入浴中に支度させて頂きますので、それでは失礼致します」

 女将は丁寧に頭を下げてその場を去って行った。


「ふーっ! 凄い女将だったね」

「ええ、負けたわ。二度と来る気はしないけど、これだったら本当に痩せそうよ」

「そうだな。それじゃあ、浴衣に着替えて早速風呂に入るか」

「大きい方が貴方ので小さい方が私のね」

「うん。ありゃ、大きい方でもちょっと小さいぞ」

「そうね、私の方も小さ過ぎるわね。つんつるてんよ」

「電話してもっと大きいのに変えて貰おうか?」

「何だか無駄な気がするわね。『ダイエットの為で御座います。我慢して下さい!』何て言われそうだわ」

「それもそうだ、我慢出来ないほど小さい訳じゃないから、まあいっか」

 二人ともつんつるてんの浴衣を着て、まるで年のいったガキ大将のような感じで風呂場へ向かった。


「風呂場はここを出て左だったよな」

「ええ。突き当たって左へ曲がって直ぐ右に並んでいるって聞いたわよ」

「何だ、突き当たって左ったって、右へ行けやしないじゃないか」

「本当、廊下一本しかないものね。ああ、あったわ、電話で聞いた通りに、男湯が最初ね。じゃあ、上がったらどうする?」

「お前は長風呂だろう? 待っていて風邪を引いてもあれだし、先に部屋に戻っているよ」

「それは良いけど、勝手に食事をしないでよ。美味しい物を先に食べて、知らん振りなんて無しよね」

「そこまで意地汚くないよ。横になって待っているから、なるべく早く上がって来れば良い」

「分かったわ。じゃあ、後でね」

「ああ」

 幹夫は男湯の方に入って行った。

「次が混浴用で、その次が女性用ね。確かにあったわ」

 早苗も露天風呂に入って行った。


 ゆっくりと中秋の名月を眺めながら露天風呂に入って、つんつるてんの浴衣でも一応は満足して幹夫は風呂から上がった。

「それにしても狭かったな。家の風呂よりはそりゃ広いけど、ああ、やっぱりそうだ」

 幹夫は廊下に出て、男性用、女性用は間口が狭く、混浴用が広い事に気が付いて納得した。

「本当に一つの風呂を三つに仕切ったんだな。しかも混浴用が一番広いんだ。でもまあ客が一人しか居なくて貸切状態だから、ゆったり出来たんだけど、変だな、確か一部屋だけ空いているって言ったよな。他の客は何処にいるんだ?」

 静かな廊下を一人首を傾げながら幹夫は部屋に戻って行った。

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