(1)
「今日会社で面白い噂を聞いて来たんだ」
ある会社をリタイヤし、関連会社にアルバイトとして雇用されてから数年になる相川幹夫は、妻の早苗に勢い込んで言った。
「面白い噂? この間みたいな事じゃないでしょうね。最高に美味しいケーキ屋さんだって言うからわざわざ電車に乗って行ってみたら、とっくに潰れていたなんて、くたびれ損の骨折り儲けだったわよ」
「いや、今日聞いて来たのは、食べ物屋さんじゃないんだよ」
「じゃあ何のお話?」
「絶対に痩せられるっていう噂のある旅館の事だよ」
「痩せられる旅館? 怪しいわね。断食道場の間違いじゃないの?」
「いや、名前も聞いて来た。楽珍旅館って言うんだよ。電話番号も聞いて来た」
「へえーっ、手回しが良いのね。ふーん、……」
早苗はまだ半信半疑である。
「もう随分旅行に行ってないよな」
「そうねえ、長男も次男もそろって県外で所帯を持つなんて、昔は考えられなかったけど、そんな事ってあるのね。一年にいっぺん位しか帰って来ないんだからねえ。
まあ、元気でやっているみたいだから良いんだけど、二人きりの旅行なんて何十年振りになるかしらね。でも、駄目よ! お金が無いでしょう!」
早苗はつまらなそうに言った。しかし幹夫は今度は違うぞと、またもや勢い込んで話を続ける。
「車で小一時間位の所なんだよ。一泊二食付き税込みで五千円ポッキリ。二人で一万円ジャスト。露天風呂付き!」
「一万円は大きいわね。ガソリン代も掛るし。貴方の収入を知っているわよね」
「ま、まあそうだけど、ちょっと良い話があるんだよ」
「良い話?」
「ああ、そこはね、ダイエットが売りでね、もし一週間たっても全然痩せなければ、こっちで連絡すれば、もう一度無料で同じ曜日に宿泊出来るんだそうだ」
「ええっ! それを早く言ってよ。それでもし、次の回にも痩せなかったら?」
「何度でも無料で宿泊出来るんだそうだよ。それも勿論一泊二食付でね」
「だけどどうして一週間待つのかしら? 待てば待つほど旅館側が不利になるでしょう?」
「それは多分一日で痩せなければ、毎日宿泊されて向こうが困るからじゃないのか?」
「ああ、成る程。全然痩せない体質の人だと、ずっと泊まりっぱなしになるものね。採算が取れなくて直ぐ潰れちゃうわね。
でも一週間というのはよっぽど自信があるのね。……その話乗った! こうなったらただ飯を食いに行ってやる! ガソリン代はどの位掛るかしら?」
早苗はすっかりその気になった。意気込みは夫以上である。
「軽乗用車だし、道も良いから、往復千円も掛らないと思うよ」
「ふふふふ、私達を痩せさせられるものなら、痩せさせてみろってね。露天風呂に入り放題で、二食付きなら十分採算が取れるわ。早速電話して」
「日にちはいつが良いかな?」
「今度の土曜日の晩でどう? ああ、混んでるかしらね。丁度中秋の名月の日だし、駄目だったら次の週の土曜日。それも駄目だったらその次の週の土曜日。兎に角、土晩にして」
「ドバン?」
「そう、土曜日の晩の事よ。毎週土曜日にそこに行く様にすれば、これから寒くなるから、ストーブの燃料代も浮くし、私は家事をしなくても良いし、一石二鳥か三鳥位になるでしょう?」
「成る程、俺も休みだからね。グッドアイデアだ!」
二人の息子が片付いた今となっては、相川夫婦の楽しみと言えば、何と言っても美味しい物を食べる事だった。そしてもう一つ、競い合っているダイエットがあった。
例えば五個ワンセットのチョコレート菓子等が県外にいる息子達から送られて来たとすると、二つずつ食べて最後の一個が問題になる。
「愛する旦那様の為に、最後の一個は譲ってあげるわ」
「ふん、その手は食わないぞ。そうやって俺を太らせる積りなんだろうが、そうは行かない。俺は遠慮しておく。お前が食べれば良いだろう」
そんな風にして、互いに譲り合うのである。
しかし結局、
「ああ、しょうがないな。折角の贈り物を腐らせる訳にも行かないだろう。どれ、犠牲になって俺が食ってやる。うーん、美味い!」
等と言って幹夫が、しかし美味そうに食べる事になるのである。
「ふふふ、勝った! これで少し痩せるわ!」
そうは言っても少しも痩せない。それもその筈である。旦那の知らない所で、こっそり買い食いしているのだから。
幹夫は早速楽珍旅館に電話した。
「はい、こちらは楽珍旅館で御座います」
「ええと、予約したいんだけど」
「有難う御座います。早速ですが日時は……」
「今度の土曜日の晩なんだけど……、空いてますか?」
「はい、一部屋だけですが空いております。何名様で御座いましょうか?」
「空いてる! ああ良かった! 私と家内の二人なんだけどね」
「承知致しました。あのう、お名前の方は?」
「私は相川幹夫、それと家内は早苗です」
「はい。それで電話番号の方は?」
「ええと、電話番号は……」
「はい、かしこまりました。それではお待ち致しておりますので」
「ああ、ちょっと待ってくれ」
「はい?」
早苗が幹夫の前で口をパクパクさせて、指を自分の方に向けて、電話を代ってくれとしきりに合図している。
「家内が話したい事がある様なので、今代ります」
「はい、分かりました」
早苗は幹夫の言ったダイエットに関する事が本当かどうか確かめたかった。その他にもう一つ聞いておきたい事があったのである。