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観測者

作者: 秋野京

 

 白。見事なまでに白く染められた空間に一人の少年が座り、佇んでいた。まだ、どこか幼さが残るその瞳は、目の前にある姿見程度の大きさを持つ鏡を映している。

 少年が観ている鏡には、どこまでも続く草原に生えた大きな樹の下で、穏やかな笑みを浮かべた裸の男女が映っていた。

 手に持ったリンゴを一口齧り、少年は考える。なぜ、自分が観ている世界はこうも退屈なのかと。

 来る日も来る日も、この男女はそこらに生えた木の実や果物を食べたり、どこまでも続く草原で、追いかけっこのようなものをしたり、今のように言葉になってすらない低俗な声のようなもので、意志の疎通を図っている。観ていて、これ以上無いぐらいにつまらない世界だった。

「ふふ、あなたは相変わらず真面目なのですね」

 白い空間に一人の女性が現れる。白いローブのようなものを身に纏った金髪の女性は、我が子を見守る母のように、たおやかな笑みを浮かべていた。

「メフィスト、なんで僕が観ている……いや、僕の世界はこんなにもつまらないのかな」

 少年が苦虫を潰したような顔で、鏡に映る世界を観ながら言った。

「あなたが鏡を観ている時に、私が来ると、いつもそう言いますね」

 相変わらず、笑みを浮かべたまま、メフィストと呼ばれた女性は答える。

「仕方ないじゃないか、つまらないものはつまらない。先代さまの世界はあんなにも観ていて楽しかったのに。なぜ、僕の世界はこんなに駄目なのさ?」

「駄目なのですか? 彼らはあんなにも幸せそうなのに」

「それが駄目なのさ、他人の幸せなんて面白くもなんともない。いや、幸せ自体は良いんだ。問題はこれが起伏もなく、ずっとずっと続いていることだよ。観る側からすれば、これほど出来損ないの世界はないよ」

 少年は右手をふわりと横に翳す。すると、白の空間に一つの本棚が、瞬く間に現れる。少年はびっしりと詰め込まれた本の一つを手に取ると、おもむろにページを開いた。

「例えば、先々代のアレス様の世界。時代名は三国時代。作品名は三国志。これなんか、観ている間、退屈なんて言葉が頭を過ぎったことはないよ。面白くて、悲しくて、熱くなって、切なくなって……とにかく面白かった」

 言って手にした本を鏡に向かって放り投げる。投げられた本は石が池に沈むように波紋を起こし、鏡の中へと消えた。

 すると、鏡にそれまで映っていた男女の映像が消え、辺り一面が火に包まれた映像に切り替わる。華美な軍装の兵士たちが逃げ惑い、それとは対照的に簡素な軍装の兵士たちが辺りの兵糧に火を放っていた。

 時代名は三国時代。場面はこの時、中国最大の実力者、袁紹(えんしょう)と後に(この世界では)超世の傑と評される英雄、曹操(そうそう)による、天下分け目の大戦、官渡の戦い(かんとのたたかい)における曹操軍の烏巣奇襲の場面である。

 少年は三国志の中でも特にこの場面が好きで、幾度と無く繰り返し観ていた。

「私にはこのような物の良さがよく分かりませんが、確かにアレス様の作品、とくに三国志は歴代の神々にも高い人気を得ていましたね」

「面白いからね。女にはこの良さが分からないだろうけど」

 自分の好きな物の良さが、分かってもらえなかったのが不満なのか、少年は言葉に少しの刺を含ませ言った。

「では、女の私は男であるあなたの邪魔をしないように、この場から消えましょう」

 相変わらず、微笑を湛えたままメフィストの姿が消える。

 少年は不貞腐れたような表情で三国志を観た後、また先程までの自分の世界に映像を切り替えた。

 大きな樹が作る木陰の下で、楽しそうに笑う男女。だが、それだけだ。観る側である少年にとっては楽しくもなんともない。

 しかし『神』である少年は、あの世界に直接干渉することが出来無い。少し前、それを疑問に思った少年が、メフィストに問いかけたことがある。



「ねぇ、メフィスト。僕が僕の観ている世界に干渉することは出来ないの?」

 とある日、いつものようにリンゴを齧りながら世界を観ていた少年は、彼の守り役であり、歴代の神々の守り役も務めた、メフィストに問いかける。

「出来ません。神であるあなたが、世界に干渉することは不可能です」

 たおやかな笑みを浮かべたメフィストが答える。

 メフィストはいつも笑顔を浮かべている。少年は最初、それが無性に気に入らなかったが、ある程度の時間を彼女と過ごすと、やがてそれも気にならなくなった。

「それは何故?」

「彼らは私たちの前に存在しないからです」

「言っている意味が良く分からないよ、彼らはそこに居るじゃないか」

 怪訝な表情で少年は言った。

「言い方が悪かったですね。彼らは世界に存在しているのであって、私たちの前には存在していないからです」

「もう少し詳しく」

「良いですか、私たちは世界に存在しているのではありません。世界の外側から、あの世界を観ているのです。世界とは起こっていること全て、つまり確定した事実の総体です。事実とはそれを起こすモノと観る側の者が観測することによって初めて成立します」

「それが何故、僕が世界に干渉出来ないことに繋がるの?」

「成り立たないからですよ。私たちが外側(この場所)から内側(世界)を観ることで初めて世界は成り立つのです。だから、あなたという観る側、観測者がこの場で世界に興味を失くし、観るのを止めた時、世界はその存在を保つことが出来無くなってしまうのです」

「でも、僕は世界を観ていない時もあるよ。それでも、あの鏡に映った世界は続いている。これは何故?」

「あなたが興味を失くしてないからです。神は人間と違い目だけでモノを観ているわけではありません。あなたの身体全体が、いわば目のようなものです。あなたが観ているつもりはなくても、無意識下であなたは様々なものを観ている。覚えがありませんか? 例えばあなたが目を閉じたとき、少し意識を集中してみてください、あなたがほんの少しでも気に掛けているモノの映像が観えるはずです」

 メフィストに言われ、目を閉じ、意識を集中してみる。


 浮かんだ。いや、観ていると言った方が正しいだろう。

 笑いあう男女。いつもの退屈な世界が観えていた。それだけではなく、馴れ親しんだ白い空間、笑みを浮かべたメフィスト、先代さまの世界や記録が収められた書庫、先代さまの世界。

 様々なものが観えた。いや、観えている。

「どうでした?」

 目を開くと、メフィストが尋ねてきた。

「よく分かったよ、メフィスト。僕が色々なものを観続けているってことが」

「それは何よりです」

 そう言うと、メフィストが珍しく、張り付いた笑顔を外し、真剣な表情で言った。

「忘れないでください、あなたは世界に必要ないものであると同時に、なくてはならないものでもあるということを」



 そこまで思い返して、少年は一つのことに気付く。メフィストは世界には直接干渉できないと言っていた。ならば、間接的に干渉することは出来るのではないだろうか? 例えば、メフィストがあの世界に行き、何かしら細工をしてくれば、あの世界は新たな展開を迎えるのではないだろうか。

 胸が高鳴った。そして思った。なぜ、こんな簡単なことに気がつかなかったのかと。

 自分も先代さまや歴代の神々のような世界を創ることが、観ることができるかもしれない。そう思うと、居ても立っても居られなかった。



「メフィスト!」

 メフィストが普段使っている空間に行くと、真っ先に少年は呼びかけた。

「どうしたのですか、そんなに慌てて」

 突然現れた少年を見て、目を丸くしたメフィストが言った。

「僕は世界に直接干渉できない、でも、それは間接的には干渉できるってこと?」

 興奮気味に話す少年に、落ち着きなさい、と窘めるとメフィストは言った。

「確かにあなたが直接手を下さなければ……つまり、あなたが間接的に世界に干渉することは可能です」

 その言葉を聴くと少年は、その見た目に相応しい輝きを瞳に宿した。

「じゃあ、メフィスト、今すぐ、あの世界に行って何か細工をしてきてよ、あの退屈な世界を壊せる細工を!」

 ノイズが響く。

「それは無理です」

 少年の提案を剣で切り裂くように断ると、メフィストは今まで見せたことのない、悲しげな表情で呟く。

「無理……なのです」

 メフィストは消え入るような声で言った。

 ノイズが頭に、空間に、響く。


「私は存在しないから」


 その言葉を遺し、消えた。

 メフィストが、消えた。

「え……?」

 訳が分からなかった。ただ、消えてしまった。

 そして、なんとなく気づいてしまった。メフィストが二度と現れることがないと。それは不気味なまでにはっきりと、少年の中で形を持っていた。それは確信。

 ノイズが響く。


「存在しないってなんだよ」

 呟いた。

「なんだよ」

 呟いた。

「なん……だよ」

 呟き続けた。

「なん……」

 そして少年は生まれて初めて泣いた。泣き続けた。彼の守り役が使っていた空間で。

 だが、ひとしきり泣いたところで気づいてしまった。自分がメフィストを消したのだと。彼女を守人ではなく、世界を変える道具として、その存在を観てしまったが故の結果なのだと。

 メフィストが先程まで立っていた場所には、少年の好物であるリンゴがただ一つ、置かれていた。




見つめていた。いや、睨んでいる、と言った方が正しいだろう。鏡を、大きな樹の下で笑いあう男女を、退屈な世界を。

 その目には憎悪。自分には無いものを持つ者に対する、嫉妬と憎悪が向けられていた。

 彼の手には彼の守り役が遺した、手付かずのリンゴ……いや、世界を変える悪魔(メフィストフェレス)の果実が一つ。

 憎くて仕方がなかった。目の前の幸せそうな男女が、変わらない世界が、自分にはない何かが。憎かった。

「っ」

 少年の中でなにかが爆発した。

 投げつけていた、その手に持ったリンゴを。

 投げたリンゴは水に沈み込むようにして、鏡に吸い込まれた。

「なんなんだよ」

 言い残し、少年は自分の空間へと消えた。今は、何も観たくなかったからだ。




 鏡に映る世界では、一つの変化があった。

 リンゴである。

 裸の男女の目の前に、突如、空から一つの赤い果実が降ってきたのである。それは彼らの世界にはない果実だった。

 二人はしばらく、その果実を見つめると、半分づつそれを口にした。




 鏡に映る世界では、大きな変化があった。

 人が知恵を身に付けたのである。

 かつては裸で過ごしていた男女は、お互いの身体を隠すものを身に付け、言葉を覚えた。

 やがて彼らは、愛を交わしあい、子孫を増やしていく。

 少年が観続けていた退屈な世界は、大きく変わろうとしていた。


 それが、少年の言う『面白い世界』になるのかはまだ、分からない。

 少年は今日も世界を観る。

 なぜなら彼は、 世界に必要ないものであると同時に、なくてはならないもの――神であるから。

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