5話 “休息”
瓦礫に覆われた四階フロアを後にし、イツキと穂澄は非常階段へ向かった。
スチール製の扉には、こじ開けられた痕跡はない。五階での悪戦苦闘が嘘のように、今回はあっさりと開いた。
「さっきもここ通ったけどさ。やっぱりここには魔物の気配がないな」
知性を持たない魔物にとって、この扉は越えられない境界だったのだろう。
下階からの気配を慎重に探り、問題がないことを確認してから、二人は非常階段を下り始めた。
数段降りたところで、背後から衣服を強く引かれる。
「大丈夫か?」
「うぅ、ぜ、全然大丈夫ですよぉ……」
「大丈夫そうには見えないけど」
「だって魔物が出たらどうするんですかぁ!」
「別の意味で俺も怖いけど……」
魔物が現れた瞬間、最初に巻き込まれるのは間違いなく自分だ。
踏めば即座に爆発する地雷を連れて歩いているような感覚に、イツキは内心で頭を抱えた。
唯一の対抗手段である《再構築》も、彼女の前では起爆剤に等しい。
「魔物は下の階から来てる。……多分、下のフロアにワープゲートがあるはずだ。行こう」
「ま、魔物がいるところに行くんですかぁ……」
「下のフロアで安全そうな場所があれば、君を隠すつもりだ」
隣にいる限り、まともな戦闘はできない。
それはもう、疑いようのない事実だった。
「あの、佐沼さん」
「ん?」
「先程、佐沼さんは私を助けようと、って言ってましたよね」
「まぁ、少しかっこつけたところもあるけど」
「いえ、すごく安心しました。でも、気になったのが……佐沼さんって強いんでしょうか? その、なんというか、パッと見は弱そう、と言いますか!」
非常灯に照らされた階段を降りる途中、イツキの足が一瞬止まる。
「全然強くはないけど……」
「なら一緒にいきましょう! 穂澄もすごく怖いですけど、佐沼さんだけにこのダンジョンを任せるのはよくないと思います!」
「それはそうだけど」
穂澄の力は、制御できれば間違いなく強力だ。
だが現状では、剣よりも危険な存在だった。
「仲間がいるのは心強いけど、魔物が出てきても少し我慢できる?」
「分からないです。今も怖くて震えてます……でもでも、佐沼さんを怪我させるわけにはいきませんから! あの場から助けてくれただけでも、すごく感謝してるんです!」
「助けたって大袈裟だけどね」
穂澄は大袈裟なほど深く頭を下げた。
イツキは気恥ずかしそうに顎を掻く。
実際にしたことといえば、五階から降りて彼女を見つけ、放っておけずに連れてきただけだ。
英雄的な行動とは程遠い。
それでも、感謝されるのは悪くなかった。
緩みそうになる口元を隠し、再び歩き出す。
無限に続くかのような錯覚を覚えながら、ようやく二階に辿り着いた頃。
「はぁ……はぁ……」
穂澄は完全に息を切らしていた。
華奢な体格に反して、胸元は呼吸のたびに大きく上下している。スーツの上着はどこかで脱ぎ捨てたらしく、白いブラウス一枚の上半身は身体の線を隠しきれていない。
無防備で、現実感がなく、そして——この場にはあまりにも不釣り合いだった。
「大丈夫か? 無理そうなら少し休むか。ここならまだ魔物は来ないはずだ」
「い、いえ! だ、大丈夫です! 穂澄、体力だけはあるってよく言われるので!」
「さすがにそうは見えないけどな」
笑顔は作っているが、声は空回りしている。
強がりだと、一目で分かった。
「まぁ、まだ歩くし。一旦休もう。俺も疲れた」
「うへ、気を遣わせたみたいですみません……」
生き延びるためだけの移動のはずなのに、同行者がいるだけで神経の張り方が変わる。
——いつ起爆するか分からないからか。
それとも、守るべき存在が増えたからか。
どちらにせよ、一人でいた時よりも肩の荷は確実に重くなっている。
「あ、そういえば佐沼さんって、さっき言ってましたよね。編集部の人だって」
「ああ。企画と原稿整理。冒険者が命懸けで持ち帰ってきた情報を記事にしてるだけだよ」
「えー、すごいじゃないですか! 十分、人のためになってると思います!」
「そうかな。デスクの前でコーヒー片手にキーボード叩いてるだけだよ。一番すごいのは冒険者だ」
「へへ、穂澄からしたらどちらもすごいです! 羨ましいです」
「羨ましい?」
「はい。穂澄、昔から才能はあるみたいなんですけど……でも、使い道が分からなくて」
穂澄は段差に腰を下ろし、ぽつぽつと語り始めた。
幼い頃から、魔力量だけは異常だったこと。
詠唱も理論も分からないまま、魔物が現れた瞬間に周囲が壊れてしまったこと。
そして兄に言われた言葉——戦う場所へは行くな、と。
「それで、人を直接助けるのは無理でも、間接的にならって……この会社に入ったんです。それでも見ての通り、残業ばっかりで……」
イツキは黙って聞いていた。
理由は違えど、「それでも誰かの役に立ちたい」という動機だけは、自分と同じだったからだ。
「……まぁ、仕事できるできない関係なく、この会社はブラックだけどな」
「ですよねぇ……!」
穂澄の表情がぱっと明るくなる。
「残業前提なのに仮眠室一つないってやばいと思います! 資料は多いのに人は減る一方で!」
「……奇遇だな。俺は今日で四日目だ」
「えっ、穂澄負けました? 唯一の自慢だったんですよ?」
「そこで張り合うな」
思わず、小さく笑ってしまった。
この状況で笑えるとは思っていなかった。
それだけで、彼女の存在が精神の緩衝材になっていると、否応なく理解させられる。
数分の休息を終え、穂澄は満足そうに立ち上がる。
「ありがとうございました、佐沼さん!」
「いや、俺は聞いただけだよ」
「では、先へ進みましょー!」
その瞬間、イツキの背筋を冷たい感覚が走った。
「木咲、開けんなっ!」
「え?」
扉の隙間から、小さな緑色の影が覗く。
「……ゴブリン」
野生の低位魔物。
その存在を視認した瞬間だった。
「——いやぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
耳を裂く悲鳴。
穂澄の身体が硬直し、次の瞬間——魔力が暴発した。
魔術ではない。
恐怖に押し出された、純粋で膨大な魔力の奔流。
炎、熱波、衝撃。
「……っ!」
視界が白に染まり、次の瞬間、イツキの身体は壁に叩きつけられた。
「ぐぁっ……」
空気が肺から叩き出され、意識が遠のく。
最後に見えたのは、炎に包まれて消し飛ぶゴブリンと、泣き叫ぶ穂澄の姿だった。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃっ!!」
声が遠ざかり、
世界は静かに暗転した。




