最後の各停
夕立を思わせる湿気が、朝の空気にまとわりついていた。夜のあいだに冷めきれなかった熱が、町全体をまだじっと包み込んでいる。コンビニのガラスの曇り越しに差し込む鈍い陽射し。レジに並ぶ女の背中には、汗がじわりと滲み、店内に響く咳払いも電子音も、どこかくぐもって疲れていた。
陽介はアイスコーヒー片手に駅へと駆けていた。午後には、大事な商談がある。一本前の電車に乗れば、まだ余裕はあったはずだった。だが、歯を磨きながらスマホで眺めたニュース動画が妙に長く、終わりそうで終わらない映像が、時間を盗んでいった。
駅の階段を三段飛ばしで駆けのぼる。その時、耳をつんざく警告音。電車が発車する、あの余裕のないベルの音だった。
間に合わなかった——。
最後の一足が、あと半段届かない。鋼鉄の扉が、音もなく彼の眼前で閉じられる。中の乗客たちは無表情のまま、誰ひとり目も合わせず、ただ黙々と運ばれていく。滑るように電車がレールの向こうへ消えていった。
小さく息を整えながら、陽介は力の抜けた笑いをこぼす。スーツは湿気と汗で早くも飽和状態だ。どう転んでも、今日一日の始まりが綺麗に決まったとは言えない。
次の電車まで、わずか五分。ホームのベンチに腰かけようとしたその時、小さな背中が視界に入った。
ベンチの端に、ちんまりと寝そべる男の子。野球帽で顔を半分隠し、身体もまだあどけない。くたっとした靴のサイズからして、幼稚園にもまだ行っていない年齢だろう。
「おーい、坊や、それは人の席だぞ」
咎めるでもなく、軽く問いかけると、男の子は帽子をずらし、陽介を見上げた。眠たげなまぶたが、こちらを確かめるようにまばたきをする。だが、怯える気配はなく、胸の前にちょんと揃えた小さな手のまま、ぽつりと呟いた。
「おかあさん、くる」
「お母さん、どこに行ったの?」
「きっぷ……」
その声に導かれるように男の子が指をさす。ベンチの向こう、券売機の前に、黒いワンピースの長身が立っていた。日焼け防止のためか、つばの広い帽子を深くかぶり、顔の輪郭はほとんど見えない。けれど、幼い輪郭とあの佇まいに、確かに通う血の気配があった。
陽介は、自然な流れで男の子の隣に腰を下ろした。ベンチ越しにスーツが湿気を吸い込み、じんわりと衣擦れの重さを伝えてくる。だが、悪くない。ほんの数分、走らずに息をつく許しが与えられた。
「どこへ行くの? これから」
「ばあばのとこ」
「そっか。楽しみだな」
男の子は頷き、小さく息を吸うと、そのまま目を閉じた。言葉がふっと風に流れ、肩先が陽介の腕にそっと寄りかかる。まるで、眠りに落ちるその前に、しおりのように添えられた仕草だった。
汽笛が鳴る。
遠くの線路の向こうから、次の電車がゆっくりと顔を出す。静かに、それでいて確かに、朝がまた運ばれてくる足音のように。
そのとき、背後から軽やかなパンプスの音が走り、少し息を切らした声が飛んだ。
「すみません!」
帽子の女性が、陽介の目の前で止まり、申し訳なさそうに会釈する。すぐにしゃがみこんで男の子を抱き上げた。子どもはほんの少し目を開け、からだを預ける。
「電車、お昼になっちゃうよ」
「ううん、まだ朝だよ」
柔らかな彼らの笑い声とともに、親子はホームの階段をぱたぱたと駆け下りていく。その後に香ったのは、洗いたての柔軟剤の匂いと、少し湿った焦燥の、母の匂いだった。
陽介はゆっくりと立ち上がった。スーツのペン先には汗の色が滲んでいたが、もはや気にもならなかった。スマホをポケットから抜き取り、階段へと足を向ける。取引先に、一報を入れるためだ。
資料はすべて整っている。時計はまだ早い。深く息を吸いこまなくても、朝の静けさは、まだ胸の奥に残っていた。
扉が開く。吸い込まれるように車内へ踏み出すと、冷房の冷気がスーツの繊維をすばやくなぞっていった。陽介はゆるりと背筋を伸ばした。
電車が静かに動き出す。窓の外、灰色の空の裂け目から、ほんのすこしだけ光がこぼれていた。




