人知れぬ山奥で仰向けに倒れて、私は今、冷たい雨に打たれている。
私の両親は北部山林を開拓していた。開拓入植民の暮らしは裕福とは言えなかったが、私は両親の愛情を受けて幸せに過ごしていた。あの夜までは。
あの夜、そう、あの夜も雨が降っていた。夏にしては冷たい雨が、素朴な木造りの私の家を濡らしていた。
雨音だけが聞こえる静かな夜だったが、その静寂は突如として破られた。
奴が来たのだ。
両親の仇、宿敵、狗頭の巨人ワンタン。北部開拓入植民の天敵だ。若い個体とはいえ体長五メートルを超える巨軀から繰り出される一撃が、私の家の壁を粉砕した。
五歳の幼い私は両親に引きずられるようにして半壊した家から逃れた。父と母の持つ小さな行灯が私たちの進む道を微かに照らしていた。
冬に向けて貯め始めていた食料を奴が漁っているうちに逃げ出す。その目論見は成功したかに思われた。
しかし、隣村まで逃げる道中、両親は惨殺された。
両親の死の瞬間を、私はよく覚えていない。両親が私を逃がしてくれて、辛うじて生き延びたことを朧げに覚えているだけだ。
雨降る暗闇の中、私がどうやって朝まで過ごしたのかは覚えていない。たまたま隣村の人が山道を通りかかって意識のない私を保護してくれたということは、あとになって聞いた。
たった一人だけ生き残った私は、ハンターとなって宿敵を追う人生を選んだ。
女だから別の道を選んで静かに生きてはどうかという意見に耳を貸す気にはなれなかった。奴が存在するこの世界で、私が心穏やかに生きていけるはずもない。
奴は、必ず私の手で屠る。誰の力も借りない。私の手で八つ裂きにしてやる。
宿敵との戦闘で、私の顔には二目と見れないほどの大きな古傷ができた。女の顔がこんなに傷つくなんてと憐れむ声もあったが、私は構わない。私の顔の引攣れが、奴を斃せと囁く。
奴さえ斃せれば、私の人生などどうでもいい。
だけど、私は敗れた。
今回こそ討伐を成功させるために万全を期したつもりだった。武器も防具も、手に入れられる最高のものを手に入れた。長期に渡る服用が将来に重大な問題を引き起こすような強化薬も使った。
しかし結果、私は宿敵に大傷を負わされて瀕死だ。腹に手をやると柔らかくてヌルヌルするものに触れる。討伐した魔物の内臓に触れたことはあるが、自分のものに触れるのは初めてだな。雨に打たれて流れる血液の量が、私の死が近いことを示している。
奴にも相応の深手を負わせたからか、すぐに戻ってくることはないようだ。しかし、いずれは戻ってきて、自分が仕留めた獲物がここに転がっていることに気づき、新たな食料に舌鼓を打つだろう。私の肉は筋張っていて美味くないかも知れないが。
思い返せば、奴との幾度にも及ぶ戦いを私が今まで生き延びてこられたこと自体が僥倖だったのかも知れない。両親はたった一度の襲撃で命を奪われたのだから。
悔しい。悔しい。悔しい。
どうしても自分の手で宿敵を斃したかったから、私には相棒はいない。癒し手のいない状況で、私に残されているのは死までのわずかな時間だけだ。
これが私の結末か。
走馬灯が見える。
私の人生なんて、両親の死と、訓練と、戦いと、そして憎しみしかないというのに。
それにしても、なんてリアルな走馬灯だろうか。目の前に実際にあるように見える。手を伸ばせば触れられそうだ。
ローム層に生息する粘性生命体スラロームをこつこつと駆除して貯めたお金で初めて狩猟用の防具を手に入れた私。緊張と期待と復讐心の入り混じった顔をしている。
この防具の手触りは、今でも思い出せる。この防具を足がかりに、より強い魔物を倒し、より強固な防具を手に入れ、そして私は今に至ったのだ。
最初の防具は思い出深い。狗頭の亜人種イヌリンとの戦闘で付けられた傷もまだないんだな。
私は思わず手を伸ばし、走馬灯に映し出された防具の表面をそっと撫でる。懐かしい革の手触り。当時は頼もしく思えたが、今になって思えばこんな装備でイヌリンと戦うのは無茶だったな。
走馬灯の場面が変わった。激しい雨が降っている。
場所は切り立った山の峰だ。右も左も急勾配で、どちらに滑落してもただでは済まない場所だ。足元は砂礫によって滑りやすく危うい。
そんな場所で、私は奴と対峙していた。ハンターになってから初めての遭遇だ。
私は奴を尾行していたつもりだったが、今思えば尾行させられていたのかも知れない。
この初戦の結果は、私の完敗だ。奴の初撃で私の顔には二度と消えない傷が残されることになる。結果を知っている私としては、あまり見たくない場面だ。
滑落する私に奴が追撃してこなかったのは、止めを刺すまでもないということだったのだろうか。それが奴の慢心によるものだとしたら、私は九死に一生を得たわけではあるが。
走馬灯の私は、足元の不安定さに気を取られながら、奴に一歩近づく。すでに奴の攻撃の間合いに入ってしまっていることに、経験の浅い私は気づいていない。
奴が右腕の薙ぎ払いを繰り出す予備動作をしていることが今の私には分かるのだが、当時の私はそれが見えていない。
「避けろ!!」
私は思わず叫ぶ。
走馬灯の私はその瞬間、足を滑らせて仰け反った。その私の鼻先を、奴の鋭い爪が掠める。
そうか、このとき足を滑らせていなければ、私はこの時点で命を落としていたんだな。
姿勢を崩して滑落する私に対し、奴は追撃の構えを取る。
いや待て、ここで奴の追撃を受けたなら、私は生きていないはずだ。しかし奴は、私が滑落した傾斜に向かって跳躍する姿勢を取っているではないか。
やめろ。やめろ。私は思わず走馬灯に向かって手を伸ばした。
私の手が辛うじて奴の足首に届く。足首と言っても丸太ほどの太さがある。私は奴の足首を力任せに引っ張った。しかし体長七メートルの巨体がそれでどうにかなるわけもなかった。
滑落した私に向かって跳躍しようとした奴だったが、奴は跳躍できなかった。奴の跳躍を支えるには足元の砂礫は脆弱すぎた。
跳躍すべく全身の力を解き放った奴は、足を滑らせ、空中で全身を伸ばした姿勢を見せたあと、その場に墜落した。
私が滑落したのとは逆の斜面を滑落していく奴を見て、私は笑いをこらえることができない。
いや、奴が間抜けでなかったなら、私はこの時点で命を落としていたわけだが。
私の手に残った奴の足首の感触を思い返す。
今までの戦いで、奴の体に素手で触れたことはない。
私の手に残る、ザラザラとした奴の皮膚の感触は、私の想像が生み出したものなのだろうか。
いや、それよりも、もっと気になることがある。
私は自分の顔に手をやる。古傷による引攣れはない。
そうだ、私は奴の初撃と追撃を、幸運によって免れることができたのだ。
いや、あれっ、そうだっけ?
今、なにかが変わったような気がする。
それなら、宿敵が両親を殺した時にも干渉させろ。おい走馬灯。
両親が幼子を連れて山道を急ぎ足で歩いているのが見える。両親は惨殺され、辛うじて生き残った幼子が私だ。
宿敵が音もなく背後から両親に襲いかかる。気づいて!!
私は走馬灯の両親の背中を突き飛ばす。ギリギリのところで両親は宿敵の初撃を免れた。
そこで気づく。父が乳児を抱えていることに。私は一人っ子だと聞いていた。あれは誰だ?
父は乳児を母に託し、逃げろと叫ぶ。わずかな時間を稼ぐために、父は奴に向き合った。
父の決死の覚悟は、奴の一撃で粉砕された。奴は初撃の空振りを考慮して、一歩踏み込んで右腕の薙ぎ払い攻撃を繰り出した。
父の体が吹き飛ばされ、大木に激突する。父はうめき声のひとつも上げずに絶命した。
ああ、なんてこと。私は何もできなかった。
宿敵の狙いが母に移る。逃げて!!
母は幼子と乳児を木の洞に隠すと、微笑みを見せて小声で言った。
「妹を守ってあげて。お願いね」
そして母は、わずかな迷いも見せずに走り去った。母の持つ提灯が離れると、そこには暗闇が残るだけだった。
そうだ、思い出した。雨降る暗闇の中、私は木の洞の中で怯えていることしかできなかったのだ。
敢えて大声で「獲物はこっちだ」と、奴の注意を引こうとする母の声が遠ざかっていく。そしてその声は、短い苦鳴とともに途絶えてしまった。
父も母も殺されてしまった。私は何もできなかった。
「姉さん」
不意に誰かに声をかけられた。
走馬灯ではなく、誰かが私の近くに立っている。
そうだ、母から幼い妹を託された私は、たった二人だけ生き延びたんだ。
妹は癒し手になる道を選んだが、妹を危険な目に遭わせたくなかった私は妹と相棒を組むことは避けていた。しかしどうやら、奴を単身追う私のあとを、妹も追ってきていたようだ。
妹が唱えた回復魔法の光が私の全身を包む。温かい。
私は身を起こし、立ち上がった。
そうだ、私は一人じゃない。
さあ、二人で宿敵を斃しに行きましょうか。
二人ならできる。