悪役令嬢、猫人生を謳歌する※
自分で言うのもなんだけど、私はまるでお手本のような悪役令嬢だった。
婚約者が思慕する、平民出の素朴な女に嫉妬して、徒党を組んでは悪口や影口。歩きざまに突き飛ばしたり、コップの水をわざとこぼして服を汚したりもしたわ。
そんな悪事を重ねていたせいか、最後は不運に見舞われて。王公貴族のパーティーで、階段から落ち、転落死。
齢十七歳の短い人生だった。
そして次に目を覚ましたときには――なんと私の身体は、ふかふかの毛玉に包まれていた。
転生の話は聞いたことがあったけれど、まさか人間じゃないものになるなんて……。
ちょっとショックだったけれど、元気はすぐに取り戻した。
だって――窓ガラスに映った私は、ものすごく可愛い。
まあるい顔に、エメラルド色の大きな瞳。上品なグレーの艶々とした長い毛並み。ふさふさ揺れるシッポに、可愛らしい肉球。極めつけは、ピンと立った二つのお耳よ。
そう――私は神が生み出した世界の宝、猫へと転生したのだった!
◇◇◇
ご飯や寝床の心配がない飼い猫にとっては、時間なんて存在しないようなものだ。
(それだけで、もう幸せよ~)
猫生活も、半年もすれば慣れたもの。そろそろ昼間かという強い日差しが部屋に差し込むのを感じながら、うっとりと惰眠をむさぼる。
その幸せなひとときは、年若い少女の声に遮られてしまった。
「おはようございます、エミリーさま」
腰を屈めて、ベッドに寝転ぶ私に声をかけてきたのは、メイドのニーナだ。
今世の私が住む家は、前世の物置小屋ほどの小さな家で、塀の外を覗けば、広がるのは緑と土ばかりの田舎にある。
愛猫とゆったり過ごすには最適な場所なのに、私のたった一人のご主人様は、いつも忙しくて、ほとんど家にいない。通いで来られるニーナを雇って、家事や炊事、私の世話を任せていた。
(むぅ~、まだ眠いわ。おはようなんて言わないで。起こさないでよ~)
ニーナはまだ十代半ばの、純朴さがにじむ女の子だ。顔に散ったそばかすや、チリチリした赤毛は、世間ではあまり評価されない。けれど、優しげな眼差しをした彼女が、とっても親切で可愛いことを、私は知っている。
でも、猫の眠気の前にはそんなの関係ないからねっ!
(まだ眠たいよ~)
肉球を丸めて、まだ開かない目をふわふわの前足でこする。にゃーにゃーと非難しながらチラッと覗き見たニーナは、いつものようにニコニコ微笑んでいた。
……まぁね~、猫は何をしても、可愛いからねっ?
(ふふ~ん)
わがままを言っても笑顔でいてくれるニーナに満足して、そろそろ起きてあげようと伸びをする。
私は専用の部屋が与えられるほど、ご主人様に愛されている猫で、ニーナは家のことをするとき以外、つきっきりで私の世話をしていた。
寝起きの日課は、美猫に欠かせないブラッシング。だからニーナがやりやすいように、私はベッドから軽やかにジャンプして鏡台へ飛び移った。
「わぁ、今日もジャンプがお上手ですね」
目を細めたニーナが、パチパチと手を叩いて私を褒める。彼女はそうやって、毎日私を気分良くさせてくれた。
(ああ~、幸せ。やっぱり飼い猫ほど良い人生はないわね)
ニーナにブラシを当てられながら、自分の考えは間違っていなかったと、ふわふわの襟毛を誇るように顎を上げる。
前世で私は、生まれ変わったら猫になると決めていたのだ。
うちの家では動物を飼うことが許されなかったから、猫を愛でられるのは、『ご友人』に分類された知人の家のみだった。それでも、その愛らしさと、すっと滑らかに動き回る自由さに魅了されて、私は猫という存在を心から愛していた。
そんな大好きな存在になれたのだから、今は毎日が喜びでいっぱいなの!
(にゃん、にゃ~ん、にゃお~)
どんな鳴き声が一番可愛く聞こえるか、まだ研究中~。
でも、どんな鳴き声でも可愛いでしょう。鏡に映った私の姿の、なんと愛らしいこと。まあるいフォルムの長毛種だよ!?
(私って、なんて可愛い猫なのかしら~)
鼻歌気分で、にゃあ~と鳴く。
その間にも、ニーナは放っておけばくすみがちなグレーの毛並みをすいて、艶やかに整えてくれた。
「できましたよ、お嬢さま。今日もとっても、お綺麗ですね」
私は舌が短くて、毛繕いが苦手。だから、ニーナがいないと綺麗になれないの。
褒めてくれたうえに、頑張ってくれた彼女に、お礼として頬へキスをする。
(ありがとう、ニーナ)
「わぁ……、ありがとうございます」
毎日のことなのに、赤くなって、可愛いの。
でも、猫相手にこれだから、心配にもなっちゃう。
(ちょっと~、簡単に可愛くなっちゃだめよ。ニーナが変なやつに騙されて、悲しむのは嫌だわ。もし好きな人ができたら、必ずここへ連れてきてね。私がこの大きな瞳で見定めてあげる)
動物に優しくなくてもいいの、好みもあるから。けれど、酷いことをする人はいけないわ。
どうせ伝わらないとわかっていても、そんな気持ちをこめて、彼女に向かって、にゃ~っと宣言する。
すると、私の言葉を理解しているかのように、ニーナは恥じらい顔で返事をした。
「はい、エミリーさま」
前世を含めても、私の唯一の友だちは、素直で可愛い。
人間は嫌いだから、人の友だちはニーナだけで十分。
でも、それとは別に、猫の友だちはたくさん欲しいよ~。
(良いお庭なのにな~)
自由気ままな猫らしく、ニーナと話を終えると、すっと窓辺へ移動して、お庭を覗いた。
たまに庭師さんが手入れする庭には、可憐な草花が咲き乱れ、低木が茂っていて隠れる場所もある。けれど、よその猫が遊びに来たことは、まだ一度もなかった。
(今日こそ、どこかの猫が遊びに来てくれないかな?)
私は猫が好きだから、自分以外の猫も見たい。それに、せっかく綺麗な猫に生まれたのだから、猫同士でおしゃべりしてみたかった。
前世でも綺麗なほうで、鼻にかけてはいたけれど、特に自慢はしなかった。愛人の家に入り浸り、ほとんど家にいない母に似ているなんて、嬉しいことじゃなかったし。
でも今は、大喜びで自慢できる。親も兄弟もわからない猫だけど、それもまた猫らしいからねっ!
「お食事がすんだら、お庭に出ましょうか?」
じっと庭を見ている私の気持ちを汲んで、ニーナが穏やかな声をかけてくれる。
その気遣いは嬉しかったけれど、私は彼女に振り向いて、自分の主張を、ニャニャッと鳴いて示した。
(ううん、今日はその前に、やることがあるからね!)
◇◇◇
ニーナの提案を断り、私が食事を終えて向かったのは、隣室のご主人様の部屋だ。
(ご主人様の匂いがする~)
わずかに空いた扉をすり抜け、何か変化がないか、キョロキョロと室内を見渡す。そしてそのまま直行したのは、ご主人様のベッドだった。
今はお仕事で留守のご主人様は、私をとても可愛がってくれている。
だから、ゴロゴロ寝っ転がって、猫の匂いをすり付けてもいいのだ!
昨日はご主人様が帰ってこなくて、寂しい思いをしたから、今日は夢の中でも私を思い出してもらうの。毎日、帰ってきてほしいからねっ!
(ニーナもおいでよ~)
私を見ているだけのニーナを、にゃ~んと鳴いてベッドへ誘う。
「いいえ。私には、その遊びはできません」
一緒に寝たかったのに、生真面目に首を横に振った彼女は、きっぱりと誘いを断った。
ご主人様は、ニーナと五歳ほどしか違わない独り身の男なのに、照れもないニーナは、彼に憧れを抱いてはいなさそうだ。
(この辺りではお金持ちっぽいのに……。ぼさぼさの髪や、ニーナと話すときの淡白な話し方がだめなのかしら?)
飼い猫としては、ご主人様をみんなに愛してほしいような、自分だけのご主人様でいてほしいような、複雑な気持ち。
けれど、そんな気持ちはニーナの一言で、すっと片方に傾いた。
「ご主人さまには、エミリーさまだけですよ」
……そうね。苦しい人生を歩んできたご主人様は、猫に癒されてもらおう。私が愛らしさを振り撒けばいいんだにゃん!
(ふふ~ん。ご主人様~。はやく帰ってこないかしら?)
気分が良くなって、ベッドの上でお腹を見せる。
ご主人様に喉をくすぐられて、ゴロゴロ音を鳴らして応えたい。そうしたら、とっても喜んでくれるんだ。
猫の可愛らしさに人は癒されて、自分の胸に潜む愛を感じるの。そんな素晴らしい生き物になれて幸せ~!と、ふにゃふにゃ笑っていたのに――
うつ伏せになって窓辺を見た瞬間、私の身体は固まった。
家の中を覗いている目と、視線がかち合う。
(――フニャーッ!泥棒だっ!!)
びっくりして身体が跳ね上がり、その勢いでニーナに抱きつく。
「エミリーさまっ!大丈夫、ジョーさんですよ!」
私を抱き締めたニーナが口にしたのは、いつも家にくる郵便屋さんの名前だった。
◇◇◇
「こんにちは。驚かせてすみません」
猫になってからの習性で、見えない紐に引かれるように、ニーナと一緒に玄関を出る。
そしたら、三十歳手前くらいの、人の良さそうな顔をした郵便屋さんが、腰を屈めて謝ってきた。
「呼び鈴が壊れているみたいで……。今日は荷物がたくさんあるから、家の中を覗いてしまいました」
(びっくりした~。泥棒かなって思ったよ)
お仕事なのはわかるけど、驚かされたモヤモヤから、ニャーと鳴いて抗議する。
すると、私から目を離さないほど猫好きの郵便屋さんは、顔を赤らめて笑った。
「こんな穏やかな町には、泥棒なんていませんよ。それに、町長と掛け合って、老朽化した道路や水飲み場を直してくれたノックスさんには、町民全体が感謝しています。この屋敷にはみんなが目を光らせて、気にかけているんです。だから何の心配もいりません」
郵便屋さんが口にした『ノックスさん』というのは、ご主人様のことだ。
頭の良いご主人様は弁護士をしていて、町の人には格安で仕事を引き受けている。
まだ若いのに、分厚い法律の本を何十冊も頭に詰め込んでいて、あちこち呼ばれてすごいんだ~。
(ふふ~ん。さすが私のご主人様ね!)
馬鹿な私には、ご主人様のお仕事なんて全然わからない。でも褒められれば、飼い猫ながらに誇らしくて、えへんと胸を張る。
郵便屋さんは、そんな私を見て、気まずそうにコホンと咳払いをした。
顔が赤いから、ちょっと風邪気味なのかもね。
それでも頑張って働いている彼は、きちんとお仕事を進めた。
「こちらが本日のお届け物になります。ノックスさんへの手紙が五通と、自警団のボリス、役場のミック、詩人のオリバーさんからのプレゼントです」
「またプレゼントですか!?そういったものは受け取れませんって言ってるのに、みんなノックスさまのこと、何もわかってないんだから……っ!手紙以外は返品してきてください!」
私の前に出たニーナが、リスみたいにプンッと頬を膨らませて、郵便屋さんに苦情をぶつけた。
うちには色んな人から贈り物が届くけれど、ご主人様はそういうゴマすりが嫌いなのだ。
だいいち可愛い包装紙ばかりなのが変。それはご主人様のイメージとは違うよ!
(プレゼントなら、ご主人様が喜ぶものにしてよっ!)
私もムムッとしたから、ニーナと声を合わせて郵便屋さんに抗議する。
「えぇ……そう伝えておきます。はぁ……、また町を一周しないといけないな……」
肩を落としながら、とぼとぼ帰っていく郵便屋さんは、ちょっと可哀想だった。
この屋敷の前は舗装もされていないから、徒歩で来てるしね。
ちょっと悪いことをしたな~と思いつつ、ニーナと一緒に家の中へ戻ろうとしたそのとき――
遠くから、前世で聞きなれていたガタゴトという音がした。
(にゃ?馬車だわ。こんなところに馬車で来るなんて、どんな変わり者かしら?)
「あ……っ、エミリーさまっ」
好奇心に突き動かされて、ニーナの声を背に、土をならしただけの小路を覗きにいく。
そうしたら、なんだか見覚えのある馬車が、屋敷から一軒分ほど離れた、少し広い場所に止まっていた。
「なんてところだ……!」
そう吐き捨てながら馬車から現れたのは、フロックコートを着た金髪の色男だ。
彼は、素晴らしく可愛い猫である私を見て、目を見張った。
(げっ……、ブランだ。何でこいつが、ここにいるのよ)
人間の美醜なんてどうでもいいけど、見目の良い男を見て気分が下がったのは、ブランが前世の私の婚約者だからだ。家同士の取引で結ばれた私がいながら、平民出の女に現を抜かした間抜けなやつ。
まぁね、あの子はおっとりして、私とは真逆の可愛い子だったけどね。
でも猫ならば、ツンとしてても可愛いもん!
(今の私は可愛いでしょ?美しいでしょう?)
ボケッとした顔で足を止め、私を見つめるブランに、猫の私を自慢してやる。
けれど――彼の後ろに人影を認めた瞬間、私の視界にブランの姿はもう映らなくなった。
「エミリー……!」
遠くにいても、私の名を呼ぶ彼の声なら、はっきりと聞こえる。
息を切らして走ってくるのは、まだ少年の面影を残した、グレーのチェスターコートをまとった黒髪の青年だった。
(ニャ~、ご主人様だ!ご主人様!一昨日ぶり~っ)
昨日は顔を見られなかったから、寂しくて泣いた。
だからこそ、嬉しさのあまり、ブランの隣をすり抜けた彼の胸めがけて、正面から跳びつく。
「あぁ、慌てなくていいよ。ただいま、エミリー。今日も楽しかった?」
愛猫の突然の跳びつきに慣れているご主人様は、きゅっと私を抱き止めて、背中をやさしく撫でてくれた。
(うん、楽しかったわ。でも寂しかった。ローマンがいないんだもの)
ローマン・ノックスは、今の私のご主人様。
前世では、私の弟だった。
私が女で家を継げないからと、よく憤慨していたお父様。私は頭が悪かったから、お母様との子どもはもういらないみたいで、家督を継げない知人の三男を引き取った。
ローマンは賢かったけど、暗くて真面目で。つまんないから、前世ではよくいじめた。
でも今は、ご主人様だもんね~。
綺麗なお部屋に、美味しい食事。優しいメイドまで用意して、可愛がってくれる相手には、愛らしく振る舞う以外にあるまい!
(大好きだよ~)
愛情をたっぷり込めて、ぷっくり膨らんだお口を彼の頬にすり寄せる。
可愛いと思ってくれたらいいな~とワクワクしていたのに、耳に飛び込んできたのは、荒れた誰かの声だった。
「ローマン、君は……っ」
ご主人様の背中に隠れて見えないけれど、ブランはまだ小路にいるみたい。
猫と飼い主の温かな再会を邪魔するなんて無粋なやつ~。
でもそういえば……私の婚約者だったブランは、ローマンとも知り合いだった。
ローマンが家に呼んだのかな?それなら良い飼い猫の私は、大人しく黙っていなくちゃね。
――なんて考えていたら、首だけ後ろに向けたローマンが、ブランへ辛辣な言葉を返した。
「帰ってください。あなたを好いて付きまとっていた姉は、もういません。あなたはあなたで、幸せになるといい」
不機嫌さを隠そうともせず、ローマンがブランを睨みつける。
彼は誰にでも礼儀正しい子だったから、ちょっと違和感。
けれど、彼の言葉は、何の間違いもなかった。
私は前世で、ブランのことが好きだった。なにせ、お父様が選んでくれた婚約者だったし、見目麗しい男性といれば、箔がつくから。
でも、それは昔のこと。私は、お父様やお母様とは血縁のない猫になった。私を一瞬たりとも愛さなかった両親は、もう親じゃない。猫には権威なんていらないし。だからブランは、もう記憶の彼方よ!
(お幸せに~)
どうでもいいから、ローマンの胸から顔を出して、祝福してあげた。
猫は可愛い生き物だからねっ!私以外の猫も愛してほしいから、にゃーんと甘えた声で鳴いて、ぷにっとした自慢の肉球を見せてやる。
(庶民の少女と幸せになるがいい。でも猫も愛すのよ、ブラン!)
猫好きを増やそう。私なら、それができるはず。
だってこんなに美猫なんだもの~。
「……っ、エミリーッ!」
げっ……!
愛嬌を振り撒きすぎたせいで、感極まったブランが足を踏み込んで近づいてくる。
――あれ?でも、どうして私の名前をこんなふうに呼ぶの?エミリーって……誰のことだったかしら?
そんな疑問がふと胸に浮かんだ瞬間、ローマンが私の身体を背後に庇い、正面からブランと向き合った。
「それ以上近づかないで。帰ってください。ここは私の家で、あなたには何の関係もない場所です」
おぉ……、すごんでる……。
こんな顔をするんだ、と横目でローマンを見ながら思った。
前世では、いじわるをする私を、彼は無言で非難してきた。
でも、あれは穏やかな態度だったんだなと、今になって気づかされる。
昔の私のことだけど、ちょっと、嬉しいよ。
そんなふうにしんみりしていたら、ブランがまた私の感動を邪魔してきた。
「確かに私と君には、もう何の関係もない。君はメザード家から籍を抜いたのだから」
意地悪そうな顔をしたブランが告げた言葉に、目が冴える。
えっ、そうなんだ……。じゃあもう、ローマンは前世の私の弟じゃないのね。
お墓が違うのだと思うと、微妙に寂しくなる。
でも、私の家に子どもがいなくなったのは、良いことだと思った。私を勝手に産み落としておいて、一度も愛さなかった両親なんて、今となれば嫌いだ。
(ざまーみろよ、ほほほっ!あ……っ、今のは悪役令嬢みたいだったかも。私は今でも、可愛い猫かしら?)
急に不安が胸をよぎり、ローマンを振り向かせたくて、にゃ~んと鳴く。
「ああ。大丈夫。いつも可愛いよ」
さすが飼い主。私の不安を感じ取ったらしいローマンは、肩口に寄せていた私の顔に、そっとキスを落とした。
(ええっ!?)
私は可愛い猫だもん、チューくらいするよねっ。でも口にされたのは初めてで、その深い愛情の証に、私は力いっぱいときめいた。
(キャーッ!嬉しい~!いや、ニャーよねっ?嬉しいニャ~!)
「ローマン……っ!!」
えッ!
喜びから地面の上で跳びはねていたら、ブランがローマンの襟につかみかかった。
いくら温厚な猫でも、ご主人様にそんなことをされたら、堪忍袋の緒が切れる!
シャーッと威嚇し、むき出しのブランの顔めがけて、思いきり爪を立ててやった。
「――、エミリーッ!!」
顔に傷を負ったブランが、ローマンから手を離し、怒りに満ちた目で私を睨みつける。
そんなふうに見られるのは前世ではいつものことで、怖くもなんともないから、私ははげしく彼に対抗した。
(ローマンをいじめないでっ! それとも、私みたいに葬るつもりなの!?この極悪人! とっとと消えてよ!)
「――、エミリー…………」
毛を逆立てた猫の威嚇が効いたのか、ブランが顔を真っ青にする。
それでもローマンに乱暴を働いた彼への私の怒りは、まったくおさまらなかった。
(悪いことを重ねてきたから、私は階段から突き落とされたことを大人しく受け入れたわ。死んで忘れてやった!でも、ローマンを傷つけたら、許さないわよ!)
ニャニャーッと、喉が痛くなるほど鳴き続ける。
そんな私に、ローマンとニーナが同時に声をあげた。
「エミリー!!」
「エミリーさま……っ!手が……!」
え?手……?
わけが分からず、ブランを引っ掻いた前足を見下ろす。
すると、私の可愛らしい肉球が真っ赤に染まっていた。
それはどう見ても、ブランではなく、私の血で。
(えっ、手が……、私の可愛い小さなお手々が~っ!!)
突如やってきた痛みと、怪我をしたショックで、私はそのまま気を失った。
◇◇◇
(うわ~ん!)
今日は猫人生初!嫌な思いをした。
ニーナが毛についた汚れを洗い、獣医が治療に来てくれた後も、私はベッドの上で丸くなり、泣き続けていた。
(びっくりした……痛すぎるよ~)
結局怪我をしたのは手ではなく、爪だった。
治るとはいえ、思いきり剥がれてしまったのだから、あまりにも痛すぎて。気に入らないやつをひっかくときは、自分のためにも手加減しようと、私は心に誓った。
「エミリー。痛かったろう」
ローマンはベッドに腰かけ、私の背中をずっと撫でてくれている。
「僕を守ってくれてありがとう。でももう、こんなことはしなくていいからね」
(そんなの我慢できるかわかんないよ!ローマンが乱暴されるのは嫌だっ。私の目につかないところに行かないで、そばにいてよ~)
優しくしてくれるから、ここぞとばかりに甘えて、彼にぎゅっと抱きついた。
ローマンは、私の言うことがほとんどわかるの。猫好きにはすごく羨ましい能力持ち~。
けれど、愛猫家とはいえ何でも頷いてはくれなくて、私を抱き止めたローマンは、困ったように眉を下げた。
「仕事をしないと。君にもっと、良い暮らしをさせてあげたいんだ」
……今でも十分なのに~。
けれど私は人間だったころの記憶があるから、人が生きるためには、お金が必要だということを知っていた。
働くのを辞めてと言えない代わりに、私が譲歩する。
(私を仕事場に連れていってよ。いつも一緒にいたいの。ゲージに入れてもいいわよ、大人しくできるわ。寂しくなったら鳴くから。撫でてくれればいいから~)
ひたすらニャーニャーと鳴き続ける。寂しくて。
ニーナは通いのメイドだから、別の家族がいる。だから今日も、もう帰ってしまっていた。
(一緒にいて。一日でも会えないのは嫌だわ。私の家族は、ローマンだけだもん)
それは人間だったころからそうで、私を気にかけて声をかけてくれるのは、血の繋がらない弟だけだった。意地悪しすぎで、嫌われちゃったけど。
「これからは、毎日必ず家に帰るよ。だから泣かないで。愛してるよ、エミリー」
ローマンは、すがりつく私を抱き締めて、また口にキスをした。
(ニャ~嬉しい~!)
生まれ変わって一番よかったのは、ローマンとの関係がまっさらになったことだ。
猫に生まれ変わったから。まだ何も悪いことはしていないから、彼に愛してもらえた。
(今日は一緒に寝てね。私の毛玉がついても、怒らないでね)
愛猫の調子が戻ってきて、私からもチュ、チュとキスをして、甘えてかかる。
「うん。大丈夫だよ。僕は君に、怒ったことはないだろう?」
……そうかも。たしか人間だったときも、そうだったかも。
ローマンが良い子で、本当によかったよ。
(私を嫌わないでね、いい猫になるから。可愛い猫でいるからね)
今度こそ、くっついてやる。猫の寿命は長くないんだから、それまでは、ローマンの時間を貰うの。彼に恋人ができても、家族ができても、猫の中で一番にしてくれたらそれでいいから。
少し我慢を含んだその鳴き声に、ローマンは、穏やかな微笑みを返してくれた。
「何も気にしなくていいよ。どんな君でも愛してる。これからも、何よりも大事にするからね」
……優しいな~。
人間で、ローマンの姉だったときには、彼は私に笑いかけてくれたことなんてなかった。けれど、今はいつも優しい笑みを向けてくれる。
(私も愛してるよ!やっぱり猫はすごいね、最高だよ~)
素晴らしい人生だと、家中を駆け回りたい気分だ。
ローマンは、そんなふうに気持ちが高ぶった私の身体をゆるりと押して、ふわふわのベッドへ沈めた。
「今日は安静にしないと。もう寝よう、エミリー。朝までずっと、そばにいるよ」
むぅ~。せっかくローマンが長く一緒にいてくれるのに、眠っちゃうのは、ちょっと勿体ない気がする。
でも、猫にもね、睡眠は大事だから。
私は彼の言葉に従い、そっと寝る体勢を取った。
ローマンが隣にいて、目を閉じても彼の匂いがする。
(幸せだなぁ……)
前世の私は、そこそこ美人なお金持ちで――でも、幸せじゃなかった。それはきっと、幸せが今生に振り分けられたからだと、今なら思える。
ローマンに愛してもらえる猫になれるなんて、これ以上の幸せは存在しないから。
私は彼の隣で喉を鳴らしながら、神様がくれたこの新しい人生を噛み締めていた。
◆◆◆
――ローマン・ノックス。ローマン・メザード……。
それが、僕がこれまでの人生で授かった二つの名前だ。
メザードの姓で暮らしていたころ、僕には同じ歳の姉がいた。
僕の人生の途中でできた、わがままで意地悪で、最悪のきょうだい。
十五になったとき、進学校に通うという口実で家を出てからも、彼女の悪名は、ずっと僕の耳に届き続けていた。
(一生こうして、悪名を広めながら生きていくんだろうな……)
そんな諦めの境地にいたある日、毛色の違う噂が流れてきた。
エミリーが階段から落ち、大勢の前でスカートの中をさらしたという。突き飛ばしたのは、婚約者のブランだとも、いじめられていた平民の少女だとも囁かれていた。
それは悲惨な話ではあったが、無傷だったこともあり、世間は冷たく、『メザード嬢の自業自得だ』と切り捨てた。
(……悔しいだろうな。はやく立ち直って、やり返してやればいい)
負けん気の強い人だったから、心配はしていなかった。
けれど予想に反して……彼女は、たった一度のその失敗で、追い詰められてしまった。
人の失敗を笑うような悪い人だったのに。何も食べられず、何も飲めず。あっという間にベッドから起き上がれなくなった。
久しぶりに帰省した僕がエミリーに会ったのは、彼女の人生に終わりの影が差した後で……
粗末な部屋に追いやられ、ベッドのそばに立った僕の気配を感じ取った彼女は、汚れた天井を見上げながら、微かに瞳を開いた。
風の音にも消されそうな、か細い声で告げたのは、すでに人生を諦めた願いだった。
「私、猫になるわ……。わがままで、つんとして、綺麗で可愛い猫になる。だから甘やかして、優しくして……。今度は私を、愛してね……」
「うん」
僕は泣いていた。
酷い思い出ばかりで。でも外見だけは美しかった姉の、あまりの姿に。
「大事にするよ。今度は僕も、いい弟になる」
エミリーは良い姉じゃなかった。けれど、僕も良い弟ではなかったのだ。
思春期の僕にとって、日に日にエスカレートする血の繋がらない姉のいやがらせは拷問に近く、逃げるように学校の寮へと入った。
悪巧みをしながらも、無意識に温もりを求めていた彼女が寂しいことは、わかっていたのに。
政略結婚で結ばれた両親に愛されず、跡継ぎになれない女児だからと、使用人からも粗末に扱われていたエミリー。彼女は、着飾ることで愛されているふりをして、少しでも人より優位に立とうと躍起になっていた。
(そんな人だったのにな……)
けれど、今の彼女はどうだ?
柔らかなグレーの髪をシーツの上に広げ、隣で眠る美しい生き物。
身体を縛り付けることのない、ふわりとした衣服をまとい、ときには裸足で家の中を飛び回る。
人間だったころには見せたことのない、輝く笑顔を浮かべて、エミリーは、猫としての人生を謳歌していた。
『ローマン、行かないで。寂しいわ。そばにいてほしいの』
人間として生きていたときも、今ほど素直で可愛かったなら、愛されただろう。恋人にも友だちにも恵まれて、大事にされていたはずだ。
けれど――そうはなれなかったのだ。
傍目には愚かしいほどのプライドが、彼女が人として生きる術だった。
猫になれたと信じて、ようやく伸び伸びと息をしているエミリー。
よく食べ、よく遊び、よく笑う彼女は、以前とは別人のように輝かしい女性へと変わっていた。
僕が彼女を引き取ると言ったときには、一言もなかった彼女の両親や元婚約者は、今になって彼女を欲しがっている。
『エミリーの名誉をこれ以上汚さないために、はやく家に戻せ』
そう言う彼らの言葉は、あたかも姉さんのためのように聞こえても、結局はすべて、自分たちのための戯言だ。
そんな話を、僕は決して聞き入れない。
エミリーは、猫になったのだ。
僕は実家に頭を下げて戸籍を元に戻し、一足先に弁護士となった実兄を手本にして生計を立てた。
今度こそ逃げたりしないで、毎日楽しそうに笑う、幸福の中で生きる彼女の側にいるために。
僕は良い飼い主で、良い弟で――
彼女を愛した、たった一人の男だったから。




