第70話 ― 合図
第70話 ― 合図
少年は、
都市で最も高い場所に足を踏み入れた。
眼下に広がる光景は、戦場だった。
炎の残滓はいまだ空気を焦がし、
裂かれた黒い霧は、ゆっくりと沈降していく。
派遣された軍は、
境界線を越えることなく待機していた。
伯爵、指揮官たち、各地から集った協力者、
そして無数の兵士たち――
すべてが、
一点を見つめていた。
少年は、その視線を感じていた。
だが、振り返らなかった。
彼は無言のまま、
ただ静かに、下を見下ろしていた。
しばらくして――
少年の手が、
ゆっくりと持ち上げられた。
大きな動きではない。
肘も、肩も、力の入らない所作。
だが、その瞬間――
空気が変わった。
風が止み、
金属が鳴っていた音が静まった。
戦場が、息を潜める。
少年の指先が、
軽く――止まった。
その短い静寂の中で、
誰もが本能的に悟った。
――今だ。
次の瞬間、
伯爵が剣を高く掲げた。
指揮官たちの声が、
連鎖するように響き渡る。
「都市を奪還する!」
「全軍――!」
そして――
「突撃せよおおおおおおおおお!!!!!!!!」
鬨の声が炸裂した。
抑え込まれていたすべての意志が一斉に解き放たれたかのように、
軍勢が戦場へと雪崩れ込んでいく。
最後の激突が、始まった。
霧の中から現れた敵の残党は、
本来であれば、
正面から相対することさえ困難な存在だった。
強大で、
異形で、
狡猾。
だが――
今は違った。
動きは鈍く、
魔力の流れは乱れ、
空間から受けた傷が
深く、その身に刻まれていた。
――やれる。
軍は押し込み、
都市は少しずつ、呼吸を取り戻していく。
少年は、
そのすべてを
上から見守っていた。
そして――
その時だった。
視界が、
ゆっくりと霞んでいく。
足先の感覚が失われ、
身体が前へと傾いた。
少年は――
よろめいた。
「……」
次の瞬間、
彼は下へと落ちた。
だが、衝撃はなかった。
誰かが――
彼を抱きとめたのだ。
「……本当に」
「こんな無茶をしておいて……」
震える声。
「リセイラもそうだけど……」
「あなたも……」
「後で全部、きちんと聞かせてもらうから」
霞んだ視界に、
見慣れた顔が映った。
アラヤだった。
彼女は――
泣いていた。
涙を止められないまま、
少年を強く抱きしめていた。
「目を覚ましたら説教だから」
「覚悟しなさい」
そう言って、
アラヤは少年を背負った。
そして――
戦場に背を向け、
安全な場所へと歩き出す。
その時――
少年の唇が、
ごくわずかに動いた。
「……心配かけて……ごめん、アラヤ」
その言葉に、
アラヤの肩が震えた。
涙はさらに溢れたが、
彼女は――
笑った。
「……ありがとう」
「私こそ」
そして、静かに――
「助けてくれて。」




