第68話 ― タク
第68話 ― タク
ポータルが、開こうとしていた。
引き裂かれた闇の空の下、
指揮官たちと強者たちは、
血に濡れた手を持ち上げ、歯を食いしばった。
「くそ……あのガキ……。」
まず湧き上がったのは怒り。
続いて、屈辱。
だが――
その感情は、長くは続かなかった。
彼らの視線が、
ラインの前に立つ少年に触れた瞬間、
説明のつかない感覚が、静かに染み込んできた。
顔は、見えない。
それなのに――
“何か”が、
確かに、そこにあった。
「……なんだ……。」
自分でも理解できない言葉が、
彼の口からこぼれ落ちた。
「……美しい……。」
周囲の強者たちも、
息を呑んだ。
「胸が……高鳴っている……。」
「これは……一体、何だ……?」
それは戦場の感覚ではなかった。
恐怖でも、畏怖でもない。
まるで――
格がまったく異なる存在を認識した瞬間、
本能が先に反応してしまったかのような感覚。
“神秘”。
その瞬間。
少年が、微笑んだ。
嘲りでも、慈悲でもない。
その微笑みは、ただ――
どこか、悲しげな顔だった。
少年は、
地面に落ちていた槍を拾い上げた。
力を込めることもなく。
狙いを定めることもなく。
ただ――
トン。
どこかへ向けて、
軽く投げただけだった。
「……?」
指揮官たちの顔に、
一瞬の混乱が走った。
そして――
ポータルが、完全に開いた。
彼らは、もう迷わなかった。
ここに留まることは、
敗北ではなく、死だと
本能が先に理解していた。
「退却だ!」
「今すぐだ!」
敵たちは、
我先にとポータルへ身を投げていった。
少年は、
彼らを最後まで見届けなかった。
静かに背を向け、
ラインへと歩き出す。
そして――
一歩手前で、立ち止まった。
少年は、槍を投げた方向へ、
ゆっくりと首を巡らせた。
マントの下で、
彼の唇が、初めて動いた。
だが――
その瞬間、
少年の声は、これまでの声とは違っていた。
空気を伝って響いたのは、
男でも、女でもない、
澄み切っていながら、底知れぬ深みを持つ、
神秘の声。
まるで、
星光が音を持ったなら、こうであったかのように。
まるで、
深淵が歌うなら、こうであったかのように。
――「……未熟だな。」
その一言で、
敵たちの心臓が、同時に掴み取られた。
怒りでも、恐怖でもない。
説明のつかぬ“畏敬”が、
胸を強く押し潰した。
少年は続けて、
何でもないことのように、誰かへ言葉を投げた。
――「魔法の基礎から、やり直せ。」
――「未熟者よ……。」
しばしの沈黙。
そこに、怒りも、嘲りもなかった。
ただ――評価だけが、あった。
少年が、
指を上げ――
タク。
短く、乾いた音。
その瞬間、
光が――「落ちた」。
見えない紋様が、
稲妻のように空一面へ刻まれ、
闇の空間は、
まるでガラスのように、ひび割れ始めた。
悲鳴を上げる暇すらなかった。
空間そのものが、
裁きを受けたかのように崩れ落ちる。
ポータルは裂け、
次元は歪み、
存在していたすべてが、
“整理”されていった。
少年は、
その崩壊の中心で、
何事もなかったかのように、
ゆっくりと振り返った。
そして、
ラインへと歩いていく。
そのマントが、
嵐の中で、
静かに――しかし威厳をもって、
はためいた。
強者たちは、
ポータルの向こうへ消えゆく最期の瞬間、
それを見た。
ラインへと歩いていく、
少年の小さな背中。
嵐の中でも、
マントは静かに揺れていた。
そして――
少年は、
そのまま消えた。
闇の空間は、
完全に崩壊した。




