第4話 ― (上)
第4話 ― アスティラの影(上)
夜明けの最初の光は、砂漠の砂よりも遅く、しかし確かに、街の上へと沁み込んでいった。
アスティラの城門近くは、すでに騒めきに満ちている。
昨夜の不安は消えず、むしろ輪郭のはっきりした緊張へと変わっていた。
アラヤは眠い目をこすり、窓の外をのぞいた。
宿の下の路地では商人たちが慌ただしく店を開けていたが、
その顔にはいつもの活気ではなく、どこか用心深い影が差している。
昨夜のラッパの音と衛兵の松明を思い出し、彼女の肩が思わずこわばった。
少年はすでに目覚めていた。
寝台の脇に腰をかけ、砕けた陶片を無言で指先でもてあそんでいる。
表情は昨日と変わらない――けれど、どこか思索の色が濃かった。
「今日は……図書館から行ってみようか?」
アラヤがそう声をかけると、少年は静かにうなずいた。
都市の朝景
二人は宿を出て、明け方の市をかすめて歩いた。
川沿いでは獲れたての魚を売る商人が客を呼び、
舞い上がる砂塵が陽光に浮かんで、街を黄金の靄で包む。
香辛料の店では銀の皿に山盛りの赤いパプリカ粉が盛られ、
通り過ぎる子どもたちはその横でパンを分け合っていた。
アラヤは、この風景がまだ見慣れないのに、
胸のどこかが温まっていくのを感じた。
焼け落ちた故郷の記憶はなお胸を刺したが、
生き延びた安堵と、新しい土地への好奇心がそこに混ざっていた。
少年は街の建築を熱心に見つめた。
巨大なモスク風の屋根の下に連なる青いタイルの文様、
柱に刻まれた星形の護符。
失くしたパズルの欠片を拾い集めるように、ひとつひとつを目に刻んでいく。
アスティラ図書館
街の中心にそびえる図書館は、
砂の風に磨かれた石柱と大理石の階段が威厳を放っていた。
扉の内はひんやりとして、紙と古いパピルスの匂いが立ちのぼる。
修道士姿の司書たちが静かに本を整え、ちらりと二人を見やった。
アラヤは、当面ここで情報を集めるつもりだった。
故郷は失った――それでも、生きるために何をすべきかを知らねばならない。
少年は最初、反応もなく立っていたが、
やがて書架へと歩み寄り、分厚い写本を取り出した。
そして驚くほどの速さでページを繰り始めた。
読むというより、遠い昔から知っていたものを確かめ直している――
そんな速度と気配だった。
アラヤは思わず息を呑んだ。
自分はやっとのことで文字を追う程度なのに、
少年は各ページにほんの一拍だけ視線を留め、次の章へと進んでいく。
数時間も経たぬうちに、彼はこの街の言語・歴史・地図を
ひと通りなぞってしまったかのように見えた。
最初の言葉
正午ごろ、ステンドグラスを透った陽が床を金色に染めていた。
別の書庫から戻ったアラヤを、少年が静かに見上げる。
そして、ゆっくり口を開いた。
「……ア、ラヤ、さん。 こ……んにちは。」
拙い発音で、だが確かに街の言葉だった。
アラヤはその場に固まり、目を見張ったのち、ふっと笑みをもらした。
「本当に……もう話せるのね。こんなに急に、流暢になるなんて。」
少年はぎこちなく微笑んだ。
その笑みは、長く凍りついていた氷が解けだすような、やわらかな温度を帯びていた。
祭の前夜、街のざわめき
図書館を出て広場を通ると、すでに多くの人々が集まっていた。
市民は市を飾り、来たる祭の支度をしているが、
その表情は浮き立つ喜びというより、不安と緊張が入り交じっている。
そのとき、城壁の上から太鼓とともにラッパが鳴り渡った。
視線が一斉に集まり、兵士たちが前へ進み出る。
「本国よりの命を伝える!」
兵の声が広場に響いた。
続く布告は衝撃的だった。
現任の領主は本国へ召還され、三日後、新たな領主が着任するという。
人々はどよめいた。
「領主さまのおかげで、この街は平らかだったのに……!」
「嘘だ。きっと本国が、俺たちを搾り取る気なんだ……。」
ざわめきは怒りに変わり、
兵たちは不穏な市民に鋭い視線を投げた。
影の前兆
アラヤは騒然とする広場の片隅で、人々の言葉に耳を澄ませた。
本国の内情を尋ねても、返ってくるのは不満と怯えがほとんどだ。
「次に来るのは伯爵だってさ。あの悪名高い……。」
「奴が来たら、おしまいだ……。」
不吉な会話があちこちで交わされる。
そのとき、すれ違った高位の兵の肩章に、見慣れぬ紋章が目に入った。
アラヤの胸の一角が、氷のように冷えた。
幼い頃、砂漠をさまよっていた時に、一度だけ見た記憶が微かに疼く。
だが像は霞み、手がかりは掴めない。
アラヤが疑わしげに見つめると、兵はわずかにたじろぎ、低く問うた。
「……そんなに、じろじろ見てどうした。」
アラヤは真っ直ぐに、紋章について尋ねた。
兵は口ごもり、やがて観念したように言う。
「ああ、これか? 本国のある名家の印だ。
今回の派遣軍は……俺の属する家とは別筋でな。
俺はあいつらを監視しに来たわけじゃない――いや、その……
布告の公平を保つために、本国から派遣されてる。」
言ってから自分でハッとしたのか、
兵は顔を赤らめ、気まずそうに咳ばらいをした。
その拍子抜けした可笑しさに、場の空気がほんの少しだけ緩む。
アラヤは言葉を返さず、しばし紋章から目を離せなかった。
少年はその隣で、静かに一部始終を見守っている。
その瞳に、一瞬、薄い影が過ぎった――けれど、何も言わなかった。




