第3話 ― (下)
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第3話 ― 逃亡者たちの夜明け(下)
城門をくぐった途端、空気が変わった。
外では砂漠の砂埃と川の湿気が混じっていたが、内側は陽に熟した果実の香りと香辛料、人々の息づかいが入り交じり、さらに熱く速い流れを帯びていた。
厚い城壁は風を遮るかわりに音を閉じ込め、アスティラの通りという通りに、波が打ち寄せるようなざわめきを響かせていた。
アラヤは思わず歩を緩めた。
田舎の祭りしか知らぬ彼女にとって、この光景はまるで異世界だった。
華やかな織物が陽光にきらめき、道化たちが子供の前で炎を吹き上げる。
広場の一角には青銅の祭壇に小さな香炉が並び、若い商人たちは褐色の腕に鮮やかな腕輪を揺らして客を呼び込んでいた。
少年はすべてを黙ったまま目で追った。
時折人と肩が触れるとびくりとしたが、すぐに視線を建物の文様や店先の古代文字、広場の彫像へと移した。
その顔には驚きよりも、むしろ理解しようと努める影があった――初めて出会う色や光、音を、どこか見覚えのあるものと照らし合わせるかのように。
アラヤは人混みで迷わぬよう少年の手首を軽くつかんだ。
少年は一瞬視線を落としたが、振りほどかなかった。
その温かな手の感触が、どこか不思議な安堵をもたらしたからだ。
二人は言葉を交わさなかったが、その沈黙は心地よいものだった。
街の中心に近づくにつれ、市場の喧騒はいっそう濃くなった。
果物の皮を裂く音、革を打つ槌の音、ラクダの鳴き声、祈祷を唱える修道士の低い声が、いっぺんに押し寄せてくる。
走り抜けた子供が誤って少年にぶつかると、子供は立ち止まり小さく頭を下げた。
少年はその髪をしばらく眺め、ゆっくりとうなずいた。
その返礼に子供は驚いたように笑みをこぼし、再び駆けていった。
「ここでは気をつけないと。財布はちゃんと隠して……。」
アラヤは習慣のように呟いたが、すぐに自分がほとんど何も持っていないことを思い出し、苦笑した。
夕暮れが近づくと、二人は市場近くの古びた宿を見つけた。
粗末ながら部屋ひとつなら休むには十分だった。
軋む木の扉が開き、窓には沈む陽が赤く差し込み、狭い部屋の空気をやわらかく染めた。
そこでようやく、一日の騒音が遠のいた。
少年は窓辺に立ち、城壁の外に沈みゆく夕陽を見つめた。
赤みがかった光が髪をかすめ、銀の糸のように輝きを放つ。
アラヤはその横顔がふと別人のように見え、しばし言葉を失った。
手にした乾いたパンを卓上に置き、冗談めかして言った。
「あなた……まるで旅の観光客みたいね。
初めて見るものばかりだからか、目がきらきらしてた。」
少年は意味はわからなかったが、彼女の笑みに応えるように口元をわずかに上げた。
そのぎこちなさの奥に、人らしい温もりが宿っていた。
夜が降りると、街路には街灯の代わりに香炉と灯火がともり、
二人は宿の前をしばし散策した。
祭りの前夜を告げるように、路地ごとに音楽が鳴り響き、香の匂いが漂った。
アラヤは久方ぶりに恐れを忘れた顔で歩いた。
だが、遠くから聞こえた短いラッパの音が、そのささやかな平穏を裂いた。
城壁の北側に沿って、警備兵の松明が次々に灯る。
いつもより密に並んだ炎の列、風に運ばれてくる鎧のぶつかる金属音――ただ事ではない気配があった。
アラヤは反射的に少年の腕をつかんだ。
少年も首をめぐらせ、北の空を見た。
その瞳が一瞬、夜よりも深い影を湛えて揺らいだ。
「何か……来る。」
アラヤの声は低く、わずかに震えていた。
そのとき、遠い空のどこかで再び短いラッパの響き。
やがて城門のほうから人々のざわめきが起こり、誰かが駆け出すのが見えた。
二人は急いで宿に戻り、扉を閉ざした。
古びた窓の隙間から灯が漏れ、壁に揺らめく影を落とした。
アラヤは扉の閂をかけ、深く息をついたのち、ふと少年を見た。
彼は相変わらず無言のまま外を見張っていた。
「……大丈夫よ。夜明けまでは、きっと何も起きない。
――たぶん。」
安心させるつもりの言葉だったが、彼女自身その確信はなかった。
少年は返事の代わりに、かすかにうなずいた。
その影が壁を伝って長く伸び、まるでもう一人の人影が部屋に佇むかのようだった。
窓の外の灯が風に揺れるたび、影も揺れた。
その揺らめきの中で、少年は何か目に見えぬ形を追うように、そっと手を伸ばしかけては下ろした。
その夜、アスティラの街は祭り前夜の熱気と、形のない不安とが薄い膜を隔てて入り混じっていた。
アラヤと少年は互いに言葉を交わさぬまま、緊張と期待の入り混じる夜明けを待ち続けた。
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