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第3話 ― (上)

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第3話 ― 逃亡者たちの夜明け(上)


夜明けは、誰の許しも求めなかった。

闇の煤が薄れていくと、森は湿った息を長く吐き、葉という葉に銀の鱗のような露が宿った。

風が吹き抜けるたび、その露がいっせいにこぼれ落ち、下草を濡らした。

遠くでは大河の支流が、石を舐めるように低く硬質な響きを立てていた――まるで今日という日の最初の太鼓の音のように。


アラヤは背負い袋の紐を結び直した。

昨夜ほとんどかじりかけの乾いたパンが二切れ、デルマルに着けば買えるかもしれない安い軟膏、そして水筒がひとつ。

手のひらほどの持ち物がすべてだった。

彼女はふと振り返る。森の奥に斜めに立つ木々、その隙間に埋もれるように佇む小屋。

二度と戻る理由などないとわかっていながら、首をめぐらすたびに胸のどこかが裂けるように痛んだ。


少年は無言でその傍らに立っていた。

銀の髪は夜明けの靄を含んで微かな水滴を宿し、その瞳にはまだ世界の言葉を持たぬ深い静けさが宿っていた。

彼はいまだ声を発することはできなかったが、その視線は語っていた――道を問い、彼女の表情を読み、葉の露を長く見つめるまなざし。


「行こう。」

アラヤが先に歩き出した。


道は木の根と水たまりが交互に行く手を阻んだ。

少年は珍しいものを見つけるたびに立ち止まった。

葉裏の白い繊毛、苔のあいだから滑り出す小さな虫、風に揺れて裏返る蜘蛛の巣……。

アラヤはそのたびに手振りで促したが、彼の瞳に宿る初めての輝きを目にするたび、歩調を少しずつ緩めた。

昨夜、炎に包まれた村の赤い残光が胸の奥を噛みつづけていても、世界はなお誰かにとっては初めての顔を見せていた。


やがて川が現れた。

小石と葦が入り混じる浅瀬、いくつかの硬い岩が水の流れを裂いている。

アラヤが膝を折り身をかがめると、少年は幅広い葉を数枚摘み取り、茎を裂いて糸のように撚り合わせはじめた。

その手際は驚くほど鮮やかだった。葉を噛み合わせるように重ね、茎を交差させて結び目を作ると、すぐに水漏れのない葉の水汲みができ上がった。


「……上手ね。」

彼女が感嘆すると、少年はほんのわずか肩をそびやかし、すぐにおろした。

葉の器で汲んだ水を差し出すとき、その瞳は問うていた――こうすればいいのだろう? と。


アラヤはそれを受け取り口に含んだ。

喉を潤すと、胸の奥まで冷えていた不安がひととき鎮まった。

「ありがとう。」

言葉とともに軽く頭を下げると、少年も同じように頭を下げた。

真似をしているのか、世界と呼吸を合わせる術を学んでいるのか――いずれにせよ、微笑ましかった。


二人は川沿いに南へ歩を進めた。

陽が昇ると、空に浮かぶ破片の輪が薄く扇のような光を差し伸べ、水面には砕けた星屑が踊った。

アラヤはその光を目にするたび、ふと「星は忘れない」という言葉を思い出した。

誰が最初に口にしたのかは知らない。ただその言葉は、環状石の影とともにしばしばよみがえった――この世界は遠い昔、一度壊れ、その壊れた名残は形を変え、いまも私たちの傍らをかすめている、と囁くように。


正午近く、デルマルの村が姿を現した。

土壁と低い屋根を組み合わせた小さな集落。

川辺には湿った丸太と網が雑然と積まれ、名もない小舟がいくつか、川の鱗を掻き分けるように鈍く繋がれていた。

村の匂いは、生臭い水気と煮た穀物の匂い、陽に干した薬草のつんとする香りが入り混じっていた。


「ちょっと待って。」

アラヤは少年の腕をとめた。

人々の視線が集まる前に、まず必要なものを済ませねばならなかった。

川辺のはずれ、老女がひとり守る小さな屋台で、彼女はパン一塊と塩気の強いチーズ、干したナツメを買った。

銭を渡すとき、指先が思いのほか軽くなるのを感じた――残りの金が想像より少なかったのだ。


パンを両手で割って渡すと、少年は無意識に自分に小さい方を押しつける彼女の癖を真似て、大きい方を彼女の手に戻した。

「いいのよ、あなたが――」

言い終える前に、少年はもう自分の小さな分をかじっていた。

勢いよく噛んだ拍子に種が歯にコツンと当たり、少年は目をまん丸く見開いてから、そっと手のひらに種を吐き出した。

一瞬の沈黙ののち、アラヤはふっと笑いをこぼした。少年も理由もわからぬまま微笑を返した。

ほんの短い、取るに足らない出来事なのに、不思議と胸のどこかがほどけるような安らぎが流れた。


人々はすでに二人に目を向けていた。

警戒する目、無関心な目、好奇心を隠さぬ子供の目。

アラヤは視線を避けなかった。話しかけられれば明るく会釈し、無礼な問いはかわして通り過ぎた。

少年は大抵、彼女の後ろを二歩ほど離れて歩き、行き交う言葉を何ひとつ理解しないまま、目に映るものを一字一句書きとるように瞳に刻んでいた。


昼の熱気がやわらぎはじめた頃、二人は村を離れた。

川はこのあたりで大きく曲がり、砂漠の肌を潤しながら、はるかに続く黄土色の平原の向こうに、淡く白い影のような稜線が低く立ち上がっていた。

近づくにつれ、その影は鋭い稜と層を帯びはじめ――アスティラの城郭だった。


初めてその城壁の輪郭がはっきり見えたとき、アラヤは歩みを止めた。

夕陽の最初の光が城壁の上端をなぞり、街の縁の塔が古い星座を真似るように不規則な間隔で灯った。

天空の破片の輪がその上を流れると、城壁の影が川面に長く伸び、波が揺れるたび影も砕け散ってはまたひとつに結び合った。


「あれが……アスティラ。」

アラヤは囁くように言った。

少年はしばらく見つめ続けた。城門前を行き交う露店商人、荷を背負った担ぎ手、魔灯を修理する職人たち。

その瞳の底で、かつて小屋で感じた説明しがたい気配が一瞬だけ光を宿した――香りではなく空気そのものの肌理が変わるような感覚、肌を撫でる微細な電流の震え。


「怖い?」

アラヤが問うと、少年は首を横に振った。

だが次の瞬間、少し迷ってから逆にうなずいた。

相反する答えが同時に飛び出したことに気づくと、彼は眉をわずかに寄せて自分の手を見つめた。

その様子がおかしくて、アラヤは張り詰めていた息を長く吐きながら笑みをこぼした。


「大丈夫。私もよ。怖くて、でも行きたい。」


道はさらに賑わいを増していった。

門が近づくほど、人々の声は厚みを増し、早口で流れた。

耳慣れぬ訛りが交差し、車輪がきしむ音、荷運びの掛け声、香辛料の袋を下ろすときに立ち上る鼻をつく匂い。

少年がその匂いに鼻をひそめると、アラヤは手の甲でそっと風を遮ってやった。

その間も少年は顔を上げ、門の装飾のひとつひとつを数えていた――陽光に白く光る石門の文様、塔の頂の旗の揺れ、門扉に打ち込まれた銅の鋲の数まで。


城門は、昼の熱気と夕の涼しさが交わる敷居のようだった。

その敷居をまたぐ前に、アラヤはひと息ついて少年の襟を整えてやった。

乾いた埃と汗で少し固まった跡を指先で払い落としながら、ごく小さな声で告げた。


「……ここからは、私が話すわ。」

意味は通じなくても、声音は届いたらしい。少年は静かにうなずいた。

彼は門上の格子窓から差しこむ光の筋を手の甲にしばし受けてみて、光が消えると名残惜しげに指を開いたり閉じたりした。


陽が傾き、城壁の影はさらに長く伸びた。

遠くで鐘がひとつ鳴った――街の時間と外の時間が分かたれる音。

頭上では破片の輪がゆるやかに流れ、かつてひとつだった空の裂け目を改めて映し出していた。


「行こう。」

アラヤが一歩を踏み出す。少年もそのあとに続いた。


二人の影が城門前の石畳に重なり、やがて分かれた。

そのとき――ほんの一瞬、目をこすれば見逃すほどの刹那、少年の足もとで目に見えぬ波紋がふわりと広がった。

細かな砂塵がわずかに舞い上がっては沈み、城壁の目立たぬ亀裂のひとつが、ごくかすかな光を反射した。

誰も気づかなかった。アラヤさえも。


街は、ふたりを呑みこもうとしていた。

それだけで、世界はほんのわずか――次の章をめくる準備を終えたのだった。

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