第2話 - (下)
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第2話 ― ハザリの炎(下編)
1 赤い煙
翌朝の森は、うっすらとした霧に包まれていた。
小屋の前の細い土道には、昨晩積んでおいた薪がまだ湿ったまま転がり、
草の葉には冷たい真珠のような露が宿っていた。
アラヤは古びた背嚢に乾いたパンと水、着替えを詰めながら
小さくつぶやいた。
「今日の日暮れまでには、ここを出よう……。」
少年は黙ったまま戸口に立っていた。
銀の髪は霧に濡れ、小さな水滴がきらりと光っている。
アラヤが顔を向けると、少年はしばし彼女を見つめ、
それから静かにうなずいた。
言葉はなかったが、ふたりの決意はすでに通じ合っていた。
そのときだった。
森の下方から鋭い鳥の鳴き声のような響きが広がり、
やがて遠くの空へと濃い赤黒い煙が立ち上った。
煙とともに風が変わり、
はるか彼方から金属がぶつかる音と悲鳴が入り混じって届いた。
アラヤの指先がぴたりと止まった。
「……村だ。」
少年は目を大きく見開き、煙をじっと見つめた。
その表情は恐怖というより、初めて目にする光景への慎重な警戒に近かった。
2 燃える村
ふたりは急いで森道を駆け下りた。
村の入口に着いたときには、すでに炎が土塀と屋根を呑み込んでいた。
風にあおられた火の粉が土塀の上を越え、焚き火の玉のように炸裂する。
通りのあちこちで人々の悲鳴と怒号が入り乱れて響き渡った。
かつて市場だった広場は、もはや修羅場だった。
荷車を引いていた馬が手綱を引きちぎって狂ったように逃げ出し、
倒れた荷車からは果実や穀物袋が炎に埋もれて燃え上がる。
人々は桶で水を汲んで運んだが、火の勢いは衰える気配がなかった。
アラヤは荒い息を整えつつ少年の肩をつかんだ。
「絶対に離れないで。」
少年はうなずいたが、やはり一言も発しなかった。
その瞳は炎よりもなお静かで、
その静けさがかえってアラヤの胸をざわつかせた。
3 長老館の影
アラヤは村の様子を把握するため、少年を伴って長老館へ向かった。
炎がまだ届かぬ中央の石畳には、人々の足跡と血のしみが点々と残り、
道端には倒れ伏した者たちが横たわっていた。
何人かはまだ息があったが、悲鳴を上げる力も残っていない様子だった。
長老館の扉は半ば壊れて垂れ下がり、
内部は薄暗く、剣が打ち合う音と短い悲鳴、柱の崩れる音が混じって漏れ聞こえた。
アラヤは歯をかみしめた。
「隣村の襲撃……? いや、やり口が違う。」
少年は言葉を理解できなかったが、
彼女が目を細めるのを見てわずかに首をかしげた。
アラヤはその眼差しに奇妙な好奇心を感じた。
その瞬間でさえ、彼は恐れるというより状況を観察しているようだった。
4 見知らぬ敵
窓の隙間をかすめた影は、見慣れた隣村の戦士ではなかった。
炎の中でも鈍く光る暗い金属の装飾をまとい、
見知らぬ紋様の刻まれた仮面をかぶっていた。
炎に焼かれて消えるはずのその文様は、
逆に赤く光を放ち、生き物のように脈打って見えた。
「……何者なの。」
アラヤが息をひそめてつぶやいたそのとき、
仮面のひとりが倒れた長老めがけて刃を振り下ろした。
アラヤは思わず飛び出そうとしたが、
少年の手が彼女の手首をつかみ、動きを止めた。
少年の顔は依然として落ち着いていた。
その手に一瞬驚いたアラヤだったが、
息を呑んだまま踏みとどまった。
「今は仕掛けちゃだめ……。」
彼女は低くつぶやいた。
5 炎の中の決意
長老館の裏手に回ると、ハカン長老が倒れていた。
彼は残る力を振り絞るように手を伸ばし、アラヤを呼んだ。
「……村を……守れ……だが敵は……隣では……ない……。」
その声は途切れた。
アラヤはぎゅっと目を閉じ、そしてきっぱりと開いた。
「少年、逃げるわよ。ここで死ぬわけにはいかない。」
少年は言葉を理解していないようだったが、
アラヤが手を取ると、しばらく彼女を見つめたのち、
ゆっくりとうなずいた。
遠くで屋根が崩れ落ちる轟音が響いた。
空にはいまだ赤い煙と炎が渦を巻き、
風は向きを変えてふたりの頬をなでた。
その風には、前夜森の中で感じた
あの言い表せぬ気配が潜んでいた。
6 夜の逃走
アラヤは炎を避けながら少年とともに村の北の森へ向かった。
振り返れば、村はすでに赤い煙に呑まれていた。
彼女の瞳には怒りと悲しみが交錯したが、
少年の手を離さぬまま足を止めることはなかった。
森の中で一息つき、アラヤは小声でつぶやいた。
「本当は明日出るつもりだったのに……今夜になってしまったわね。」
少年は初めて、ごく小さな声で何かをつぶやいた。
アラヤは驚いて彼を見た。
耳慣れない抑揚だったが、その言葉の意味はわからなかった。
それでも、その声の響きは戦火のただ中にありながら
なぜか静かな安らぎを残した。
7 暁の約束
炎は遠ざかったが、夜空にはまだ赤い名残が漂っていた。
アラヤは火の光の届かぬ森の縁で少年を見つめた。
「もう帰る場所はない。でも……あなたと一緒なら大丈夫。」
少年はしばらく彼女を見つめた後、初めてはっきりとした笑みを見せた。
その微笑みは森の朝霧のように静かに広がり、
アラヤの胸をやわらかく包んだ。
夜明けの風が吹き抜けると、
環状石の破片が森の奥でほのかに光を放った。
アラヤはその光を、炎の中で生き残った最後の欠片のように感じた。
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