第19話
第19話
「すぐに別の階から敵が上がってくるでしょう。避けなければ……逃げますか?」
マントの男が静かに問いかけた。
だが、貴婦人はきっぱりと首を振った。
「だめよ。少し待って。
もしかしたら……生き残った人や、人質が地下にいるかもしれない。
私ひとりだけ助かるわけにはいかないわ。」
その言葉に、男は一瞬目を見開き、
すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「……そうですか。なら、助けに行きましょう。」
その声は静かだったが、
どこかに喜びの色が滲んでいた。
貴婦人はしばし男を見つめた。
彼の顔はマントの影に隠れていたが、
そこには奇妙なほど純粋な気配――
まるで幼子のような無垢な瞳の光が感じられた。
戦火と血の渦の中にありながら、
まったく異質なその存在感が、逆に不思議な安心を与えた。
その時、背後から低い唸り声が響いた。
振り向くと、血にまみれて倒れていた高官が、
ゆっくりと、しかし確かに身を起こしていた。
血の下の皮膚が脈打ち、
内側から異様な光が漏れ出す。
肉がねじれ、爪が伸び、目が赤く光を放った。
「……人間じゃない。」
マントの男が歯を食いしばり、声を潜めて言った。
「今は戦う時ではありません。早く、下へ。」
二人は素早く部屋を抜け出し、階段の陰に身を潜めた。
赤い照明の下、
焦げた鉄と血の匂いが混じり合い、
どこからともなく機械の駆動音が響いていた。
貴婦人は一歩踏み出した瞬間、
痛みに顔を歪めて足を止めた。
そして靴を脱ぎ捨て、裸足で歩き出す。
血の滲む足裏が冷たい床を擦るたびに、
微かな跡を残したが――彼女は止まらなかった。
「……一つ、策があるわ。」
息を整えながら彼女が言った。
マントの男が顔を上げた。
「策?」
「この近くに通信室がある。
そこに録音放送機があるはず。
非常警報を流せば、
敵の部隊の一部を上の階へ誘導できる。」
男の瞳が光を帯びた。
「いい考えですね。」
ほどなくして、二人は暗闇をかき分けながら
古びた通信室へと入り込んだ。
錆びたスピーカーと、
断線したケーブルが散らばる中、
貴婦人は震える指でスイッチを押し上げた。
カチリ、と音がして、
古い機械が低く唸りを上げた。
そして――
「非常! 非常! 非常! 全兵力は直ちに上層へ移動せよ!」
けたたましい機械音が耳を裂くように鳴り響いた。
建物中の拡声器が一斉に轟き出し、
空気が震えるほどの音圧が走った。
「地下でも反応があるぞ!」
「上で何か起きたらしい! 行くぞ!」
「おい、新入り! ここを見張ってろ!」
兵士たちの声と足音が次第に遠ざかっていく。
残されたのは、一人の若い新兵だけだった。
彼は面倒くさそうに頭をかき、
無造作に銃を肩にかけた。
厚い鉄扉の向こうには――
まだ多くの人質たちが、生きたまま閉じ込められていた。
貴婦人は微かに笑みを浮かべ、
小さく呟いた。
「……うまくいったわ。」
マントの男が頷く。
二人は目を合わせ、
影の中へと身を滑り込ませた。
微かな光の残る階段を、
彼らの足音だけが静かに下っていく。
やがてその音が完全に消える頃、
上階では今なお、警報のサイレンが轟き続けていた。




