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第2話 -(上)

皆さまの感想と応援をぜひお聞かせください。

第2話 ― ハザリの炎(上編)


台風が過ぎ去って三日、

森はいまだ湿った息を吐いていた。


雨に洗われてむき出しになった根が土をつかみ、

折れた枝が道端にうずくまっている。

木の皮に染み込んだ水が朝の陽にきらめき、

頭上の空には砕けた破片の輪が淡い帯を描いて浮かんでいた。

その光はかすかだったが、見る者の心のどこかをいつもそっと揺らした。

まるで忘れたはずの名を思い出せと急かす手のひらのように。


掘っ立て小屋のひび割れた窓から

朝の光が斜めに差し込んだ。


藁敷きのそばに置かれた古びた棺は、

いまやただの古い木箱にすぎなかった。

鎖も刻印も、昨夜指先でなぞった小さな文様も、

跡形すら残っていない。

そこに残っていたのは、古い木と湿った土の匂い、

そして言葉にしづらい……気配。


アラヤはその前にしゃがみ込み、しばし息を整えていた。

掌を棺の表面にそっと当てると、

感覚がかすかに震えた。

香りとも熱ともつかない、淡い脈動——

鼻ではなく、胸の奥へと染み込んでくるような何か。

彼女は自分を励ますように小さくつぶやいた。


「気のせいかもしれない……でも、今日だけは信じてみよう。」


藁敷きからかすかな衣擦れの音がした。

少年がまぶたを震わせた。

長く繊細なまつ毛の奥で、まだ焦点の定まらない視線が

窓枠の光をたどった。

しばらく天井を見つめていた少年は、ゆっくりと首を巡らせ、

アラヤを見た。


ふたりの視線が重なった瞬間、

アラヤは自分が息を止めていたことに遅れて気づいた。


少年の瞳は深く澄んでいた。

色は青に近いが、その底にきわめて細かな星屑が沈んでいるようで、

人の目とは思えないほど——

遠い空の温もりを宿していた。


「……目が覚めたのね?」


おそるおそる声をかけると、

少年は答えず、ただ静かに彼女を見返すだけだった。

唇がかすかに動いたが、声は出ない。

言葉を探す者の逡巡でも、

異国人の黙想でもなく——

言葉という門そのものが閉ざされているかのように、

世界が音もなくその瞳だけを通って流れ込んでくる感覚。


「私たちの言葉……わからないの?」


もう一度たずねたが、

返ってきたのはやはり沈黙と、ゆっくりとした視線の動きだけだった。


アラヤは理由もわからぬ安堵と、

説明しがたい警戒心が同時に胸に湧くのを覚えた。

それでも、まずやるべきことをした。

水を汲んできて木のコップに注ぎ、

パンと干し果物を皿にのせた。


「喉が渇いたでしょう? ゆっくり飲んで。」


少年はしばらくコップと彼女の顔を交互に見つめたのち、

両手でコップを包んだ。

持ち方がわからないらしく、傾けてこぼしそうになったところを

アラヤが素早く支えてやった。

水が唇に触れた瞬間、少年の肩がほんのわずかにゆるんだ。

まるで世界で初めて水を味わう者のように、

ゆっくりと慎重に飲み下した。


その不器用さがどこか可愛らしくて、

アラヤは思わず微笑んでしまった。


「えらいわね。」


褒められたわけでもないのに、少年は目をぱちりと見開き、

何も言わず小さくうなずいた。


歩けるか試そうと、アラヤはそっと少年の腕を取って立たせた。

問題は足だった。

長い眠りのせいか、二歩目で膝が崩れ、

アラヤが慌てて抱きとめると、

ふたりはそのまま藁の上に半ば倒れ込んだ。

乾いた藁の匂いがふわりと鼻先をかすめ、

ふたりの額が軽く触れ合った。


「ごめん……。」


謝りながらも、アラヤが先に吹き出してしまった。

気まずくも不思議に軽やかな一瞬。

少年は相変わらず無言だったが、

その目尻がほんの少しやわらいだ。

その表情を笑みと呼んでも、決して大げさではなかった。


アラヤは古い外套を一枚取り出し、

少年の肩にそっと掛けた。

銀の髪と暗い布地の対比で、

その美貌はいっそう際立った。

やせていてまだ幼いが、顔立ちは端正で、眼差しは静かだった。

風が髪を揺らすたびに陽の光が細やかな鱗のように散った。


「村へ行こう。人目はちょっと厄介だけど、

いやな態度を取られたら私が前に立つから。」


言葉の意味は伝わらなくとも、

アラヤの口調から意図を読み取ったのか、少年はうなずいた。


森の小道はまだぬかるんでいた。

地表に張り出した根に足を取られるたび、少年は小さな罠にはまるようによろめき、

アラヤが肘を支えてやった。

道端の水たまりを好奇心に満ちた目でのぞき込んでは、

彼女がそっと背を押した。

苔の緑に日が差すたび、少年は一拍足を止め、

指で苔をそっとなでて青みを確かめ、再び顔を上げた。

その何気ない仕草には、初めて世界を目にする者ならではの驚きが宿っていた。


やがて森が薄れ、村の景色が姿を現した。

土塀と平らな屋根、風に揺れる洗濯物の綱、

正午の鐘のような魔力灯が低くウィン……と唸りをあげていた。

人の暮らしの匂い——焼きたてのパンの匂い、革と油と馬の生臭さ——が

朝の空気に混じって広がった。


ふたりが村の入口を過ぎると、視線が一斉に注がれた。


子どもたちはまず好奇心からだった。

少年の銀髪を見て目をまんまるくし、

ひとりが恐る恐る近づいて干しナツメを差し出した。

少年は水のときのように一瞬ためらったあと受け取り、

少しかじって味を確かめ、

おずおずと小さく頭を下げた。

子どもはくすくす笑いながら走り去り、

別の子たちがどっと集まって少年の袖を触った。


だが大人たちの表情は硬かった。


酒場の前では男たちがひそひそ声を交わした。

「台風の夜に流れ着いたらしいな。」

「その銀髪、どこの血筋だ?」

「隣村の間者じゃあるまいな。」

「こんな折に? 今も国境がきな臭いのに。」


市場の角では塩売りが手を振り回して怒鳴った。

「よそ者! 触ったら金を払えよ!」

少年は何も触れていないし言葉もわからなかったが、

塩売りの腕が大きく振られるのを見て、

同じ仕草をまねて腕を振り返した。

たちまち周囲にどっと笑いが起こり、

塩売りもあきれて苦笑した。

アラヤは気まずそうに会釈した。

「ごめんなさい。まだ言葉が通じなくて。」


井戸端を通りかかると、ひとりの老女が数珠をいじりながら手を振った。

「不吉な子……銀は禍を呼ぶ。」

別の老人がその手を下ろさせ、低く言った。

「子どもに罪はないだろう。台風が連れてきたものをどうしようもない。」


だが広場の端でラッパが鳴ると、

笑いもさざめきもすぐに裂けてそれぞれの表情に戻った。

長老衆が人々を集める合図だった。


長老館は神殿と倉の中間のような建物だった。

砂風で障子がすり切れてひらひらと揺れ、

天井には古い祈祷文がいまもかすかに残っていた。

長老ふたりが向かい合って座り、

後ろには男三人と女二人が混じって腰を下ろしていた。

顔ぶれはおおむね険しかった。

炉に火をくべていた男がアラヤと少年を振り返ると、

炎が一瞬ゆらりと揺れた。


「事の次第を話せ。」

長老ハカンが口を開いた。

アラヤが頭を下げた。

「台風のあと、川下の砂州で……棺を見つけました。

中には子どもがいて、息は弱かった。流すには忍びなくて……。」


「それは禁忌だ。」

もうひとりの長老ヤーシムがさえぎった。

「川が吐き出したものは川へ戻せ——それが何十年も守ってきた掟だ。」


「ですが、生きていたのです。」

アラヤの声は一瞬震えたが、すぐに落ち着きを取り戻した。

「私は……ただ、人としてすべきことをしただけです。」


長老たちの間にざわめきが走った。

冷ややかな声も、慎重な声もあった。

「隣村ともう二度も衝突した。あの子の正体をどう信じろと。」

「間者かもしれんぞ。」

「ただの子かもしれん。」

「台風の夜に森で光を見たという話がある。偶然とは思えん。」


言葉が尾を引きながら互いの舌の上で化石のように固まっていった。


アラヤはもう黙ってはいられなかった。

静かだがはっきりと口を開いた。


「この子を追い出すのなら——私もこの村を去ります。」


しん、と静寂が落ちた。

誰かが咳払いで空気を埋め、

誰かが腕を組んではほどいた。

ハカンの眉がゆっくりと持ち上がった。


「アラヤ、お前は……この村の生まれではないな。」


「はい。私は流れ者で、ここに腰を落ち着けました。

幼い頃の記憶といえば、砂と風と市の匂い……

そして夜ごと渡り歩いた灯火ばかり。

だからでしょうか、道ばたに倒れている人を見捨てることができないのです。」


ひと呼吸おいて彼女は続けた。

「私はこの村の人たちを愛しています。

けれど、愛し方はひとつでなければならないとは……思いません。」


後ろの席から低い嘆息がもれた。

ヤーシムは唇を固く結んだままだった。

ハカンはため息まじりに笑った。


「頑固な娘だな。」


「はい。」


「よかろう。一日、時をやろう。」とハカンは言った。

「明日の陽が沈むとき、もう一度集まろう。

それまでこの子を見守るが、警戒は解かぬこと。アラヤ、お前もだ。」


会議はそうして、曖昧な結論のまま終わった。

だが曖昧さは、ときに明白な敵意よりも

重い緊張を空気に残すものだ。


長老館を出ると、遅い陽が土塀を黄金色に染めていた。

人々が集まり、ひそひそとささやき、

誰かの視線が背に刺さるのを感じた。

アラヤは吐息をのみ込み、少年のほうへ向き直った。


「ごめんね、騒がしかったでしょう。」


微笑む彼女を少年はしばらく見つめ——

ゆっくりとはっきりうなずいた。

言葉はなくとも、そのうなずきだけで

〈大丈夫〉〈わかっている〉〈君に従う〉

といった想いが伝わってきた。


そのとき、市場の隅で風がひゅうっと吹き抜け、

魔力灯の炎を一斉に揺らした。

破片の輪が落とす影が井戸端をかすめ、

水面に乱れた光の網が浮かんだ。

誰も気づかなかったが、

アラヤは背筋にかすかな寒気を覚えた。


台風が残したのは壊れた屋根や倒れた柵だけではなかった——

空気そのものの肌理が、ほんのわずかずれていた。


「今夜は小屋で休んで、明日……出発の支度をしましょう。」


アラヤがそう告げると、

少年はまたゆっくりとうなずいた。


ふたりは森へと歩み出した。

陽はすでに傾き、木々の影は長く伸びて

道の上で互いを抱き合っていた。

遠く、森のどこかで石と石とがぶつかるような

低く鈍い響きが一度だけ鳴り渡った。


アラヤは無意識に手の甲をなでた。

昨夜、環状の文様をなぞったその指先が、

まだどこか熱を宿していた。


——明日、出よう。


彼女は心の中でその言葉をもう一度固く刻んだ。

すると不思議なことに、森の風がその言葉を理解したかのように

そっとふたりの背を押した。

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