第16話
第16話
「……時間がない。」
少年は低く呟き、
瓦礫の上をとぼとぼと歩き始めた。
赤く濁った空の下で、炎はまだこの街の息を締めつけていた。
それでも、彼には立ち止まる余裕などなかった。
風が吹くたび、灰と塵が足元を絡め取る。
遠くで、影が揺れた。
形の定まらない存在が、ひとつ、またひとつ、煙の中から姿を現す。
光のない目が、鈍く反射した。
少年は静かに視線を向けた。
その瞳には、微かな光も揺らぎもなかった。
「……さっき上から見たとき、
中央広場から北へ向かう大通りは確かに塞がれていた。
脇道を使うしかない……。
大門は防衛線で完全に封鎖されている。」
彼はぼそりと呟き、
焦げた空の向こうを見上げた。
中央広場の奥――まだ崩れきっていない役所の建物が、
暗赤色の炎に照らされて浮かび上がっていた。
屋根は崩れ、旗は燃え落ちかけていた。
だが、外壁はまだ立っていた。
少年は方向を変えた。
「……役所へ行く。」
足音は、灰の上で滑るように軽かった。
呼吸を整え、音を殺す。
一歩、また一歩――
彼の歩みは影そのもののように静かだった。
どれほど歩いたのか。
周囲はすでに敵の群れで満ちていた。
光の届かぬ通りに、異形の影が列をなしていた。
血と鉄の匂いが空気を重くする。
「……もう、この場所は奪われているんだな。」
少年は低く呟いた。
視線が、役所の外壁を伝って上がっていく。
三階の高さに、割れた窓がひとつ。
彼の目が微かに光を宿した。
「……あそこからなら、侵入できる。」
指先は血に濡れていたが、ためらいはなかった。
「体の調子は……やはり良くないな。」
短く息を吐き、壁に手を掛けた。
石の壁は熱く、滑りやすかった。
それでも、彼の動きは正確だった。
記憶の中で組み立てた角度と距離を、
手と足が迷いなくなぞる。
瓦礫を蹴り、三度目の反動で窓際に届く。
指が窓枠を掴み、身体を引き上げた。
「……ここまでだ。」
ガラスはすでに半分砕けていた。
肘で静かに押す。
パリッ。
小さな音を立てて、
窓ガラスが内側へと崩れた。
少年は身をかがめ、影のように部屋の中へ滑り込んだ。
しばし息を殺す。
「……よかった、気づかれてはいないようだ。」
目を凝らす。
建物の中はまだ炎に飲まれていなかった。
長い廊下が奥へ続き、
薄闇の中で明滅する灯りが僅かに壁を照らしていた。
その光に浮かび上がる――
裂かれたアルベント伯爵の新しい旗。
床には濃い血が広がり、
乾きかけた赤が壁を染めていた。
少年は一歩を踏み出す。
靴底が血の跡を薄くこすった。
その目が、僅かに陰を宿す。
「会議室……重要な部屋はどこだ。」
低く呟きながら、
彼は静かに廊下を進んだ。
その時、
遠くで金属の擦れる音が響いた。
少年は即座に壁際に身を寄せた。
光の中を、兵士が二人通り過ぎていく。
見慣れぬ紋章の鎧。
血に染まった金属が、微かに軋んだ。
少年は目を閉じ、息を潜めた。
その場の空気が止まる。
まるで彼自身が“影”に溶けたかのようだった。
兵士たちの足音が遠ざかる。
彼はゆっくりと身を起こし、
再び奥へと足を踏み入れた。
「……ここからが本番だ。」
唇が、わずかに動いた。
灯りが彼の瞳に映え、
その奥で、何かが静かに燃えていた。




