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第11話 

第11話 


血に染まった波が足首まで満ちていた。

焼け焦げた臭いと鉄の匂いが入り混じり、空気は重く沈んでいる。


アラヤは唇を噛みしめながら、ゆっくりと前へ進んだ。

少年はその隣で静かに歩調を合わせた。


「……どうする?」

少年が低く問う。

「引き返すか? それとも、別の道を探す?」


アラヤは息を整え、視線を落とした。

「……今さら戻ったら、もっと危険かもしれない。

ここまで来て、引き返すのは非効率よ。」


そう言い終えた瞬間——

背筋をなぞるように、冷たい風が通り抜けた。

肌が粟立つほどの、不気味で凍える気配。


アラヤは思わず振り返った。

炎の向こう、何かがゆっくりと近づいてくる。

姿は見えない。だが、確かに“視線”を感じた。

――誰かが、こちらを見ている。


「……行こう。」

彼女は短く、しかし強く言った。

「どうせ戻っても同じこと。

なら、前へ。広場まではもう少しよ。」


少年は息を吐き、うなずいた。

「……ああ。あと少しだ。」


アラヤは背中にいる子どもを確かめた。

「大丈夫? 怖くない?」

返事はなかった。

子どもは泣き疲れて、眠りについていた。


血の水はさらに深くなり、

足首を越えて脛のあたりまで達していた。

一歩進むたびに、ちゃぷ、と音が響く。

温い血の感触が皮膚に染みこみ、

現実とは思えない感覚が全身を包んだ。


「……もう少しで、広場が見える。」

少年が言った。

「もう少し、あと少し……。」


その時だった。

アラヤの足先に、何かがコツンと当たった。


「……何?」

彼女は反射的に身をかがめた。


少年の表情が固まる。

すぐに彼は手を伸ばし、彼女の腕を掴んだ。


「見るな。……行こう。」


「え?」

「今は……知らないほうがいい。」


その声音には、どこか切迫した響きがあった。

アラヤは一瞬戸惑ったが、やがて小さく頷いた。

「……わかった。もう少しだけ。」


血の霧の中を進んでいくと、ようやく広場の入口が見えてきた。

少年が手を上げ、彼女を制した。


「アラヤ、少し待って。」

低く、慎重な声。


「……これを。」

少年がポケットから布を取り出し、彼女に差し出した。


「……何これ?」

「ただの布だよ。……もしかしたら、衝撃が強すぎるかもしれない。備えておいて。」


アラヤはきょとんと布を見つめ、

少年の真剣な表情を見て、思わず笑った。


「……遠慮しとく。これくらいの覚悟はしてるもの。

それに、そんな細い体で私たちを背負うなんて無理でしょ。」


少年は黙り込み、視線を落とした。

その眼差しが一瞬揺れ、すぐに静けさを取り戻す。


アラヤは頬をかすかに赤らめ、冗談めかして言った。

「……それに、“背負われる”なんて、ちょっと……恥ずかしいし。」


少年は小さくため息をつき、問いを投げた。

「アラヤは、漸進的な成長が好き? それとも急進的な方?」


「……え?」


「漸進的なら、安全は保証される。

でも急進的だと……君たちの言葉で言えば、死ぬこともある。」


アラヤは一瞬考え、静かに微笑んだ。

「私は……退屈なのは嫌い。

死ぬ覚悟が要るなら、そのくらいの覚悟はもうしてる。」


少年は布を折り畳みながら頷いた。

「……そうか。わかった。」


そして二人は歩き出した。

広場の中心――炎の心臓へと。


だが、そこで彼らを迎えたのは――


山のように積み上げられた死体の群れだった。


その瞬間だった。


アラヤの視線が広場を捉えた刹那、

全身が凍りついた。


「……これ……何なの……?」


彼女の顔から血の気が引き、

瞳が細かく震えた。

思わず口を押さえたが、すぐに堪えきれなくなった。


オェッ——!

体の奥底から、吐き気が込み上げた。

アラヤは口を押さえたまま、嘔吐した。


焼け焦げた臭い、血の臭い、

腐敗した臭いが混ざり合い、肺の奥まで突き刺さった。


少年はすぐに彼女の背後へ駆け寄った。

「大丈夫か?!」


アラヤは震える手で彼を制した。


「……大丈夫……大丈夫だから……。」

声がかすれて震える。

「今は……息を止めてでも……前へ進まなきゃ。」


彼女の手の甲には、血と涙が混ざって滲んでいた。

少年は唇を噛み、やがて黙って頷いた。


二人は灰に覆われながら、ゆっくりと広場の中へと足を踏み入れた。


そこには――

炎の中で、山のように積み重なった死体の山があった。


兵士たちの亡骸、一般の市民、

そして小さな子どもの遺体までもが混ざり合っていた。

血と灰が絡み合い、

この街が一夜にして崩壊したことを物語っていた。


流れ落ちる血は石畳を赤く染め、

隙間を縫って足元を冷たく包み込む。


アラヤは息を呑み、小さくつぶやいた。

「……ひどい……。」


彼女は震える瞳で周囲を見渡した。

「敵が見えない……どこへ行ったの……?」


少年は静かに視線を動かした。

その瞳は不思議なほど澄んでいた。

静寂の中で何かを“計算”するように、

地面の跡や残骸をたどりながら歩いた。


二人は崩れた建物の陰を慎重に進んでいた。

その時、焼け落ちた遺体のそばで

一枚の紙切れが風に舞った。


アラヤはそれをそっと拾い上げた。

灰にまみれた文字はほとんど消えていたが、

たった一行だけが、はっきりと残っていた。


『北側へ避難せよ』


「……北だ。北へ行こう。」

アラヤは小さく呟いた。


少年は頷いた。

アラヤは冷静に周囲の遺体を見渡し、

低く言った。


「……悲惨だけど、

この規模で済んでるなら、被害は最小限ね。

避難命令を出した指揮官……相当優秀だったはず。」


彼女は少しの間、思索に沈んだ。

――新任の伯爵。いったい何者なのか。

この短期間で街全体の構造を把握し、

道路網を利用して効率的な避難を指揮するなんて……。


そして思い出す。

少年のことも。

あの時、皆が伯爵を疑っていた中、

少年だけが微笑みながら言ったのだ。

「悪い人じゃないよ」と。


アラヤは本当に彼が不思議だった。

聞きたいことは山ほどあったが、

今はその時ではない。


彼女は心を落ち着け、前を向いた。

少年は周囲を見回しながら彼女の後を追い、

小さく微笑んで言った。


「……アラヤの判断力、すごいね。」


アラヤはその言葉に微笑み、

息を整えながら、燃え盛る広場へと駆け出した。


赤い炎が再び揺らめく。

二人の影が、血のような煙の中で長く伸びていった。

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