第9話(下)
第9話(下)― 火の洗礼
夜はすっかり降りていた。
灯りの消えた街の路地には、風が染み込むような微かな音が響いていた。
宿の窓から差し込む一筋の月光が、静かに二人の寝顔を照らしている。
アラヤは朦朧とした意識の中で目を開けた。
――何かがおかしい。
空気が…重い。息が微妙に詰まるような、言葉にできない違和感。
「……?」
彼女はゆっくりと身を起こした。
隣に横たわる少年の顔は汗に濡れていた。
額を伝う冷や汗。指先がわずかに震えている。
「悪い夢でも見てるの?」
アラヤは彼の肩をそっと揺さぶった。
「ねぇ、大丈夫? 起きてよ。」
しかし返事はなかった。
少年の唇がかすかに開き、誰にも聞こえない言葉を呟いた。
アラヤは不安げに部屋を見回す。
その時――
パキン。
天井の上で木が裂ける音がした。
そして、空気が急に変わった。
静寂の中で、不吉な気配が窓の隙間から滲み出る。
「……何?」
アラヤが窓に近づこうとした瞬間、
少年の手が稲妻のように伸び、彼女の足首を掴んだ。
「きゃっ――!」
驚きの悲鳴が漏れた、その刹那――
ドオォン!!
屋根が吹き飛んだ。
爆音とともに部屋全体が揺れ、炎と破片が眼前を掠める。
アラヤは反射的に身を伏せた。
もし少年が彼女を掴まなければ、その場で命を落としていたに違いない。
「……なに、これ……」
全身が震えた。耳鳴りがし、焦げた煙が鼻を刺す。
顔を上げたとき、
空が、赤く燃えていた。
炎が屋根を越え、街全体を呑み込んでいく。
爆発音、悲鳴、うめき声が四方から押し寄せた。
夜空は炎光に覆われ、星はもう見えなかった。
「街が……燃えてる……」
彼女は息を呑んだ。
本能的に少年を背負い、古びた革の鞄を掴んだ。
炎が部屋を呑み込む寸前、ドアを蹴破って外へ飛び出す。
外は――地獄だった。
道端の建物が次々と崩れ落ち、
空気そのものが熱を帯び、焼ける匂いが肌に食い込んだ。
「……どうすれば……」
アラヤは膝をつきそうになる身体を支えながら呟いた。
「逃げるべき? それとも……助けるべき?」
広場へ向かう道はすでに灰に覆われていた。
炎の中で崩れ落ちた塔の残骸が、行く手を塞ぐ。
真紅の世界の中で、
彼女はふと、あの少年の言葉を思い出した。
『アラヤは……何をしたいの?』
それは記憶の中の会話だった。
だが、不思議なことに――
その声が今、耳元で聞こえた。
「……だれ……?」
振り向くと、少年が静かに身を起こしていた。
その瞳が開かれた。
月光よりも冷たく、
けれど深い哀しみを湛えた、銀の瞳。
少年はゆっくりと口を開いた。
「アラヤは……何をしたいの?」
その声は低かったが、炎の中でもはっきりと響いた。
アラヤは彼を見つめ、
まるで胸の奥で何かが崩れるように、嗚咽を漏らした。
「……前に進みたい。」
震える声で彼女は言った。
「絶対に止まりたくない。
冒険したいの。星々に届くほど遠くまで……。
でも、もう失いたくない。
大切な人たちを、二度と。」
涙が頬を伝う。
「だから……私は両方手に入れる。
欲深い魔女のように。」
最後の言葉に、アラヤは笑みを浮かべた。
その微笑みは、決意の印だった。
少年はその言葉を静かに聞きながら、
静かに息を吐いた。
彼の目にも、不思議な涙が滲んでいた。
そして頭を抱え、低く呻いた。
――何かが、彼の中で目覚めていた。
アラヤは慌てて駆け寄り、両手で彼の肩を掴んだ。
「大丈夫!? 痛むの!?」
少年はゆっくり顔を上げた。
その顔には苦痛と歓喜が入り混じっていた。
そして――
彼は微笑んだ。
「アラヤは……きっと良い冒険者になるよ。」
「ずっと――進め。」
その声は今度こそ、温もりに満ちていた。
アラヤは驚いたように彼を見つめ、やがて笑った。
「ふん、それはあんたもでしょ。ハンサムな冒険者さん?」
少年は照れくさそうに笑った。
その笑みは、限りなく人間らしい温かさを帯びていた。
まるで、長い間失われていた何かを取り戻したかのように。
「よし、行こう。」
少年が手を差し出す。
「広場へ――欲深い魔女さん。」
「そのあだ名、案外気に入ったかも?」
アラヤは頬を赤らめ、少年の背を軽く押した。
「行くわよ、バカ!」
炎が嵐のように吹き上がる夜。
二人は瓦礫の上を駆け抜けた。
赤い灰が舞い、崩れ落ちた塔の影が空を裂く。
少年が走りながら言った。
「アラヤ……絶対に諦めるな。」
アラヤは笑みで応えた。
「そっちこそ。ふふっ。」
二人の笑い声が燃えさかる街に響いた。
だがその笑いの奥で――
街の中心から、巨大な光柱が天を裂いて立ち昇る。
星の消えた夜空の下、
火の洗礼が、始まろうとしていた。




