第8話 ― (下)
第8話 ― 星明かりの下で交わした約束(下)
5. 見知らぬ対話
本を片づけ終えた少年は、机の下から大きな革の袋を引き出した。
どすん、と鈍い音を立てて床に置かれる。
アラヤは好奇心をにじませた瞳でそれを見つめたが、何も言わずに立ち上がった。
二人は並んで図書館を出て、宿へ向かった。
街灯の代わりにところどころ吊されたランプの明かりが、
夜気の冷たさのなかで小さく揺れていた。
肩にかけられたままの外套が、アラヤの胸をほのかに温めていた。
歩きながら、彼女はぽつりと口を開いた。
「ねえ……私、三日以内にここを出るつもり。
準備は二日もあれば足りると思う。
あなたは――どう思う?」
少年は彼女を見つめ、ゆっくりとうなずいた。
その表情には特別な感情の起伏はなかったが、
その瞳には「同意」以上の何かが淡く宿っていた。
宿の近くに差しかかったとき、アラヤが静かに尋ねた。
「ねえ……あなたの名前は?」
少年は少し考えるように目を伏せ、首を横に振った。
アラヤは驚きながらも、やわらかく笑った。
「そう……。実は私も本当の名前は“アラヤ”じゃないの。
小さいころは別の名で呼ばれていたけど、
いろんな事情で放浪しているうちに、いつの間にかみんながそう呼ぶようになってね。
だから――あなた、私と少し似てる。」
少年は静かに彼女の言葉を聞き、また小さくうなずいた。
その短い瞬間、二人のあいだには言葉のいらない温かな共感が流れた。
6. 夜の浴場
宿に戻った二人は、旅立ちを前に最後の湯を取ることにした。
先に少年が浴場へ入る。
大きな鏡に映る自分の姿をしばらく見つめ、
彼は静かに湯へ身を沈めた。
月光が窓から差し込み、湯面に銀のさざなみを描いていた。
少年は水中で自らの腕と肩に残るかすかな傷跡を見つめ、
長い思索の底に沈んだ。
やがて湯から上がり、タオルで髪を拭きながら部屋へ戻り、
「終わったよ」とアラヤに短く告げた。
今度はアラヤが浴室へ入る。
湯気に満ちた空間の鏡に映る自分の体を見つめた彼女は、
思わず顔を赤らめた。
「……少し痩せたかな。魅力的ってほどじゃないけど……
いや、なに考えてるのよ私……。」
小さくつぶやき、息をついたあと、
彼女は湯へと身を沈めた。
温かな水が肌を包み、疲れがゆるむ。
背中にはうっすらと、見慣れぬ紋様が浮かび上がっていた。
アラヤはそっと目を閉じ、
湯の中で静かに息を整えながら、長い一日を思い返した。
7. 静夜の語らい
湯を終えたアラヤが部屋に戻ると、
少年は窓辺に腰かけ、星空を見上げていた。
「今日も長い一日だったね……。」
アラヤが言うと、少年は軽くうなずき、穏やかに微笑んだ。
その笑みには、言葉にできない安らぎがあった。
二人はしばらく黙って夜空を眺めていた。
遠くの広場では、防衛軍の兵たちが忙しなく動く姿がかすかに見えた。
アラヤは窓に貼られた掲示を思い出し、口を開いた。
「防衛にずいぶん力を入れてるみたいね。
広場のポスターも見たけど……市民を抑圧する内容ではなかった。
でも――なにか、妙なのよ。」
少年は微笑み、ゆるやかに首を振った。
「アルバント伯爵は悪い人じゃない。」
その一言にアラヤは目を瞬かせ、
そしてなぜか、すぐに頷いていた。
「そう……あなたが言うなら、そうなのかもね。」
静かな笑いが再び部屋を満たした。
夜はますます深まり、二人はやがて蝋燭の灯を消し、眠りについた。
8. 市場での別れ
翌朝、二人は本国へ向けて旅立つ準備のため市場へ出た。
朝陽に照らされた露店は、前日の緊張が嘘のように賑やかだった。
必要な品を買いそろえたあと、アラヤは宿の主人に別れを告げるため戻った。
少年も後ろに従う。
主人はにこやかに二人を迎えた。
「もう発つのか。気をつけてな。」
アラヤは深く頭を下げ、感謝を伝えた。
彼女が他の従業員たちと挨拶を交わしているあいだに、
主人は少年を手招きした。
「おい、坊や。ちょっとこっちへ来な。」
少年が静かに近づくと、主人は妙な眼差しで彼を見つめた。
「お前がアラヤの言ってた子か……なんだか只者じゃないな。」
少年は小さく微笑み、低い声で答えた。
「あなたも――ただ者ではありません。
あなたの瞳には、深い悲しみが宿っています。」
その言葉に主人は目を見開き、言葉を失った。
少年はそっと彼の腕を取り、消えかけた刺青の跡を見つめた。
「あなたは悪人じゃない。
罪の意識を、もう手放していい。
彼らは――あなたを恨んではいません。」
その一言に、主人の目尻が赤く染まった。
押し殺していた何かが堰を切ったように、彼は嗚咽を漏らした。
9. 過去の告白
主人はしばらく沈黙し、やがて苦笑を漏らした。
大きく荒れた手が、膝の上で小刻みに震えていた。
「……俺はな、かつてはそこそこ名の知れた傭兵ギルドの一員だった。
槍一本で国境の戦場を渡り歩き、名を上げたもんさ。
だがある日、俺の判断ミスで仲間が全員、俺をかばって死んじまった。
その中には……一番大切に思ってた女もいた。」
彼はうつむき、皺だらけの指先がかすかに震えた。
記憶の棘をもう一度なぞるように。
「それから俺は槍を捨てて、この町に根を下ろした。
だが今でも夢に見るんだ。あいつらの顔をな。
アラヤが旅に出るって聞いて……心配で仕方がなかった。
この世界の道は、いつだって危険で満ちてるからな……。」
少年は黙って聞いていた。
そして静かに微笑み、穏やかな声で言った。
「約束はできません。
でも――あなたの想いがどれほど深く、重いものかは分かります。」
その声には、優しさと同時に、どこか虚ろな響きがあった。
主人はふと気づいた。
自分が子ども相手にこんな話をしていることも、
それ以上に、少年の瞳に吸い込まれそうになることにも。
星のない夜空をそのまま閉じ込めたようなその眼差しは、
果てのない広がりを湛えていた。
とても人間のものとは思えないほどに。
主人は視線を外し、低くつぶやいた。
「……なんだ、慰められちまったな。まったく……。」
荒い息をひとつ吐くと、彼は大声で笑った。
「ありがとな、坊や。少し楽になったよ。」
そして少年の背を軽く二度叩いた。
ほどなくして扉が開き、アラヤが戻ってきた。
屈強な主人が少年の肩に手を置いているのを見て、
彼女は一瞬驚いたが、何も尋ねずに静かに微笑んだ。
二人は主人に深く頭を下げ、宿を後にした。
扉の向こうで主人は窓辺に寄り、去っていく二人の背を見送りながら
静かに独り言をつぶやいた。
「……リセリア嬢、あんたの言った通りだ。
もう俺の時代は終わっちまったが、これだけは分かる。
あの二人は――普通の人間じゃねぇ。
特にあの少年……あの瞳には、星と影、両方が宿ってやがる。
……化け物だ。だが、不思議と――希望を感じるんだ。」
紅い夕陽が店内に差し込み、
その言葉を染めるように、長い一日が静かに終わっていった。
アラヤと少年は次の準備のため、再び賑やかな市場へと歩き出していた。




