第6話 ― (上)
第6話 ― (上)
1. 別れと寂しさ ― 陽だまりが照らす空席
朝の陽光がやわらかく硝子窓をなぞった。
〈金色の獅子〉のホールには、いつもと同じく淡いビールの香りと、焼き立てのパンの匂いが満ちている。
アラヤは慣れた道を踏みしめながら扉を押したが、何かひとつ抜け落ちたような空虚さがすぐに胸をかすめた。
ホールの片隅――いつも誰より明るく客と笑い合っていたリセイラの席が、ぽっかりと空いていた。
その場所はまるで昨夜の笑い声だけを置き去りにし、まだ微かな温もりだけを残しているかのように見えた。
アラヤは店主にそっと声をかけた。
「リセイラは……今日は遅れて来るんですか?」
店主は大きく節くれ立った手でジョッキを拭いていたが、その手を止め、短く答えた。
「ああ、リセイラなら昨日が最終日だったよ。短期の雇いだったんだ。」
そのひと言に、アラヤの瞳が揺れた。
気づかぬまま去ってしまった友の空席が、胸の奥をかすかに刺す。
――ひと言もなしに……。
寂しさがふっとよぎったが、すぐに自分をなだめた。
きっと事情があったのだろう、と静かにうなずいた。
だがその日一日、アラヤの心にはリセイラの陽だまりのような笑顔が残像のように揺らめいていた。
なぜかその笑顔が、いっそう恋しく思えた。
2. 旅立ちの支度 ― 残すものと携えるもの
ホールはいつもどおり客で賑わっていた。
ジョッキのぶつかる音、笑い声、注文を叫ぶ声が入り混じり、活気が渦巻く。
けれどアラヤの心は、すでに数日先を見つめていた。
少年と共に本国へ戻る旅立ちの段取りはほとんど整い、彼女はこの街での最後の日々を静かに整え始めていた。
客足が最も多い午後のさなか、アラヤはそっと店主を呼び寄せ、遠慮がちに告げた。
「あの……数日後には本国へ発つことになりまして。
その日までしか働けそうにありません。」
店主はしばし彼女を見つめ、それから豪快に笑った。
「そういうことか! 心配いらんさ。こちらこそ助かったよ。
最後まで勤めてくれて感謝する。」
アラヤは胸の奥にふわりと温かい安堵が広がるのを感じた。
彼女は心の中で、この店での日々をきちんと締めくくろうと決めた。
3. 不穏な噂 ― 人々の低いささやき
夕刻が近づくころ、ホールの空気がどこか変わった。
客たちの声はひそやかに沈み、互いに顔を寄せ合って囁きあう。
「聞いたか? あの伯爵、思ったより早く着くそうだ。」
「祭りの最終日に水を差すとは……縁起でもない。」
「もう広場には兵が集まり始めたらしいぞ。」
その噂は小さな波紋のように広がり、アラヤの耳にも届いた。
彼女は何事もないふりでジョッキを拭いたが、指先がかすかに震えた。
――伯爵。
その名を耳にしただけで、市民たちの顔に影が差すのをアラヤは見逃さなかった。
4. 店主からの贈り物 ― 温かな忠告と古びた紙
陽が傾き、ホールの喧騒が和らぐころ、店主がアラヤを呼び止めた。
彼は分厚い紙片を取り出し、そこに几帳面な字で何やら書きつけた。
「アラヤ、本国へ帰るんだろう? リセイラから聞いたよ。
この住所を持っていきな。きっと力になってくれる。」
アラヤは驚き、両手で紙を受け取った。
そこには見知らぬ名前と住所が綴られていた。
さらに店主は鞄を探り、ずしりとした革袋を取り出した。
「これも持っていけ。道中できっと役立つ。」
袋の中には予想以上の金貨と、旅の助けになる小物が詰められていた。
「店主さん、こんなに……いただけません!」
「構わんさ。俺も若い頃は流れ者だった。お前を見てると昔を思い出す。
だが俺のようにはなるな。守りたいものは必ず守り、欲しいものはきちんと掴め。」
その豪快な笑みは、ふいに深く真剣な色を帯びた。
アラヤは目の奥がほのかに潤むのを覚えた。
店主はひと呼吸おき、低い声で言葉を添えた。
「昔話だがな……人は星を目指して歩けと教えられたもんだ。
お前もいつか、星へ向かって進むといい。」
その言葉にアラヤの胸がわずかに震えた。
心の奥底に澄んだ響きが届いたようで、彼女は頭を垂れ、静かに感謝を告げた。
店主はまた朗らかに笑った。
「今日はもう働かなくていい。新しい子を雇うから、お前は早く戻って休め。」




