第一話 (上)
第一話 ハザリの森に眠る棺 (上)
夜の森を包む闇は、やがてゆっくりと引いていった。
月の代わりに空を巡る――砕けた**破片の環**が、波紋のように淡い光を注ぎ込む。
アラヤは長い息を吐いた。
重い棺を運び出した指先が、まだ微かに震えていた。
棺は今、彼女の小さな山小屋の床の上に置かれている。
封じられた鎖も刻まれた紋様も、いつの間にかすべて消え失せていた。
まるで最初からただの古びた木の棺であったかのように。
そのあまりの空白に、アラヤはむしろ不安を覚えた。
「……夢だったの?」
彼女はそっと棺の蓋に顔を近づける。
かすかに香が漂っていた。
だがそれは村の神殿でも、葬儀の香炉でも、薬草の市場でも嗅いだことのない匂い――。
いや、匂いというよりも気配に近かった。
甘いでもなく苦いでもない、言葉にできぬ感触が、空気の奥で静かに揺らいでいた。
アラヤは一瞬、自分の錯覚ではないかと疑った。
そのとき、棺の中の少年の胸が、わずかに上下した。
生きている証の呼吸。しかしその律動は人のものとは思えぬほど規則的だった。
彼女は両手を膝に重ね、思わず祈るように頭を垂れた。
――この夜はきっと、何かを変えてしまう。
その予感だけは否定できなかった。
少年の眉が、かすかに震えた。
アラヤは息を呑み、身を乗り出したが、彼はまだ目を開けなかった。
まるで深い眠りのまま、遥かな道を歩いている者のように、表情だけがわずかに揺れていた。
「大丈夫……もう安全よ。」
アラヤはそう囁き、再び棺へ視線を戻す。
だが次の瞬間、ぞくりと身震いした。
つい先ほどまで輝いていた星の紋や銀の封印、金属の飾り板が、影も形もなく消えていたのだ。
残されたのは、長い歳月を刻んだ木の肌と、しみ込んだ土の匂いだけ。
アラヤは指先で棺の表面をなぞった。
埃ではないのに、そこに何かが消え去った痕跡が確かにあった。
彼女はもう一度、香を深く吸い込んだ。
その得体の知れぬ香は鼻ではなく心臓の奥へと染み入り、目の前がかすむほどの夢幻の感覚を呼び起こした。
「……香じゃない、これは“気”だわ。」
そう呟いたが、それ以上の言葉は浮かばなかった。
ただ、これが錯覚ではないという確信だけが残った。
外の森では、また風が立った。
葉が囁くように揺れ、石の環の影が長く伸びる。
その影はまるで、棺から抜け出た少年へと静かに手を伸ばすかのようだった。
アラヤは慌ててランプの火を吹き消し、両手で少年の肩をそっと抱きかかえた。
その身体は細く軽そうに見えたが、不思議な重みがあった。
まるで古い岩に背を預けるときのような安らぎ――けれど同時に、どこか危うい静寂をはらんでいた。
「星の気配……まさか、本当に伝承の――」
言葉を結ぶ前に、森の奥で枝が折れる音が響いた。
アラヤは反射的に身をこわばらせた。
風に混じって、湿った土と血の匂いに似た気配が流れ込んできた。
嵐の爪痕がまだ癒えていないのだ。
少年はまだ眠り続けていた。
アラヤは彼のそばで再び短い祈りを捧げた。
そして決めた――今夜はこれ以上、彼を揺り起こすべきではない、と。
少女は戸口を閉ざし、隅に立てかけていたシャベルを戻した。
窓の隙間からはほとんど光が差し込まない。
だが彼女の胸の奥には、あの言葉にできぬ香の余韻がまだ残っていた。
――運命の夜は、静かにしかし確かに波紋を広げ続けていた。




