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ホラー短編集

【夏のホラー2025】言葉の海

作家にとって、海は、インスピレーションの源。だが、もし、その海が、書かれなかった物語の怨念でできていたとしたら?

 俺は、書けなくなった、作家だった。


 かつては、神童とまで呼ばれた。だが、デビューして十年、今では、編集者から「先生の作品は、もう古い」と、ため息をつかれるだけ。書斎の真っ白なモニターが、俺の空っぽの才能を、嘲笑っているようだった。


 その夜も、俺は、一行も書けないまま、深夜の海を見に、車を走らせた。


 防波堤に座り、ただ、暗い、暗い、水面を眺める。波の音が、まるで、誰かのすすり泣きのように、聞こえた。


 死のう、なんて思わない。そんな勇気もない。ただ、このまま、空っぽの頭で、空っぽの海に、溶けてしまえたら、と。


 その時だった。


 波音に混じって、囁き声が、聞こえた。


『……扉を開けると、そこには……』

『……愛してはいけないと、分かっていたのに……』

『……英雄は、最後の力を振り絞り、剣を……』


 無数の、物語の、断片。


 書かれなかった物語。捨てられたプロット。忘れられたセリフ。それらが、海の底から、泡のように、浮かび上がってくる。


 俺は、何かに、引き寄せられるように、立ち上がった。


 波打ち際に、きらり、と光るものが見える。


 それは、濡れた砂に書かれた、一文の、言葉だった。夜光虫の光で、青白く、輝いている。


『彼は、深淵を覗き込み、そして、深淵に、愛された』


 俺は、その一文を、知っていた。


 十年前に、俺が書き出し、そして、あまりの才能のなさに絶望し、データごと、ゴミ箱に捨てた、幻の処女作。その、冒頭の一文だった。


「……なんで、ここに」


 囁き声が、俺を、呼んでいる。おいで、おいで、と。


 俺は、まるで、操り人形のように、一歩、また一歩と、海の中へと、入っていった。


 冷たい海水が、足首を、膝を、腰を、濡らしていく。


 やがて、全身が、海に沈んだ。


 苦しいはずだった。だが、不思議と、息ができた。


 俺は、目を開けた。


 そこは、海の底ではなかった。


 どこまでも続く、インクのような、暗闇の空間。そして、その中を、無数の、文字の断片が、銀河の星々のように、漂っている。


 美しい、と思った。


 ここは、書かれなかった物語たちの、墓場なのだ。


 俺の周りに、見覚えのある物語たちが、集まってきた。俺が、途中で投げ出した、ファンタジー。俺が、結末を書けなかった、ミステリー。


 彼らは、悲しげに、俺の周りを、漂っている。


『……続きを』

『……終わりを、ください』

『……私たちを、完成させて』


 ああ、すまない。俺には、もう、お前たちを、終わらせてやる力がないんだ。


 俺が、そう思った、その瞬間。


 無数の、言葉たちが、一斉に、俺の体へと、殺到してきた。


 それは、懇願ではなかった。飢えだ。渇きだ。


 何億、何兆という、結末を求める物語たちが、新しい「書き手」を、求めていたのだ。


 俺の意識が、バラバラに、解体されていく。


 俺の記憶が、一つ一つの「単語」に。俺の感情が、一つ一つの「比喩」に。


 俺という、一つの物語が、この、巨大な、言葉の海へと、溶けていく。


 ああ、そうか。


 ここには、インスピレーションが、無限に、眠っている。


 そして、そのインスピレーションを、得るためには、自分自身が、物語になるしか、なかったのだ。


 数ヶ月後。


 ある、無名の作家が、ネットに投稿した小説が、話題を呼んだ。


 それは、今まで、誰も、読んだことのない、ありとあらゆるジャンルが、完璧に、融合した、究極の物語だった。


 その作家は、ペンネーム以外、一切が謎に包まれている。


 ただ、そのペンネームだけが、人々を、不思議な気持ちにさせた。


 その名は、「エトウ・アキオ」。


 数ヶ月前に、海で、謎の失踪を遂げた、売れない作家の名前と、一字、違っていた。

これで、【夏のホラー2025】ショート10本完成! お疲れ、俺!

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