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王太子に婚約破棄されたけど、隣国の皇族殿下に初恋を告白されて困っています

作者: Rye

学園生活最後の日。

私は、淡い薔薇色のドレスに身を包み、いつものように背筋を伸ばしていた。

王侯貴族が集うこの学園の卒業パーティーは、単なる行事ではない。社交界への正式な登壇として、多くの注目が集まる舞台でもある。


「リディア・フィオレンツァ嬢、ほんとうにご立派なご卒業ですわ」


背後から声をかけられ、私は微笑みを浮かべて振り返った。

学園長夫人だった。長い銀髪に宝石の髪飾り。今日もお美しい。

礼儀正しくお辞儀を返しつつ、私は内心でこの一幕に、どこか醒めた視線を投げていた。


私は本日をもって、王太子カイル殿下の婚約者の立場から外されることになる。

……正確には、そのような動きがあるということを、すでに把握している。


カイル殿下の視線が、最近はずっと別の令嬢——侯爵家の次女ミレイナに注がれていること。

それに伴って、一部の学生や教師が私から距離を置きはじめていること。

私の立ち居振る舞いに対し、「冷たい」「打算的」と陰口を叩く者が増えたこと。

すべて、知っている。だが、気にも留めなかった。


「それにしても、リディア様のドレスは本当にお似合いですわ。まるで……氷の姫君のよう」


氷の姫君。

それは、私がこの三年間、黙々と与えられた責務を果たし続けたことへの“ご褒美”のようなあだ名だった。

微笑み、頭を下げ、誉め言葉として受け取る。


私の感情は、この学園に来た日から、決して乱さないようにしてきた。

王太子の婚約者という立場に、私情を挟むことは許されなかったから。

少なくとも、それがフィオレンツァ公爵家に生まれた者の矜持だった。


(でも……)


心の奥底で、忘れかけていた誰かの横顔がよぎる。

それは、真冬のある日、学園の中庭でほんの一瞬、交わした言葉。

彼はその時、私の手を取って、こう言ったのだ。


『リディア様の目は、決して冷たくなどない。けれど、誰にも見せてはいけないと、そう決めているような目だ』


あの言葉を、今も覚えている。

……まさか今日、あの人に再会することになるとは、この時点では知る由もなかった。





「それでは、次にご挨拶いただきますのは——我らが次代の希望、カイル=グランヴィル王太子殿下にございます!」


司会役の声が高らかに響き、場がざわめいた。

照明が絞られ、中央の壇上に、一人の青年が登る。


金髪碧眼、長身で整った顔立ち。

学園でも目立つ存在だったカイル殿下は、今日も完璧な装いで人々の目を引きつけていた。


「皆さま、本日は我が王国の未来を担う仲間たちの門出を祝うために、こうしてお集まりいただき、感謝申し上げます」


優等生らしい口調。けれど私は、その口調の裏にある高揚と焦りを感じ取っていた。

殿下が私と視線を合わせることはない。代わりに、その視線は会場の奥、侯爵令嬢ミレイナ・エスカロータのもとに向けられていた。


「この場をお借りして、私から個人的な発表をさせていただきます」


場が静まる。

まるで、誰もが“何か”を予感しているような沈黙。

私は、胸の内で深く息を吐いた。


「私は本日をもって、フィオレンツァ公爵令嬢リディアとの婚約を破棄しようと思います」


瞬間、空気が張り詰めた。

誰かのカトラリーが皿を跳ねた音が、やけに大きく聞こえた。


「彼女は、冷静すぎるあまり、時に人の心を省みない面があります。誰とでも分け隔てなく接することを良しとし、だがその実、誰にも心を開こうとしない。そんな彼女との将来を思うと……私には、どうしても心が重くなるのです」


——ふうん。

冷静というのは、今この場で公衆の面前で相手の人格を切り捨てる行為を選んだ方のセリフではないと思うのだけれど。


「私は今、心を通わせられる伴侶を求めています。そして、私の想いに真摯に応えてくれる方が、ここにいます」


壇上で、カイル殿下はミレイナに歩み寄り、彼女の手を取った。

ミレイナは伏し目がちに、演技がかった微笑みを浮かべ、恥じらいながら応じる。


「エスカロータ侯爵令嬢、あなたこそが、私が選んだ人です」


ざわめきが起こる。

称賛、困惑、冷笑、そして好奇心——さまざまな感情が渦巻く中、私は、ただ一つだけ確かな気持ちを胸に抱いていた。


(……ようやく、この瞬間が来たわ)


私はゆっくりと歩を進め、壇上へと向かう。

ドレスの裾が静かに揺れる。


そして、誰もが注目する中、私は微笑んだ。


「その件について、一つだけ、補足させていただいてもよろしいかしら? 殿下」


会場の空気が、今度は別の意味で凍りついた。






壇上に立った私に、カイル殿下は驚いたように目を見張った。

ミレイナはその横で、さも怯えたように顔を伏せる。

——見事な演技力ね。けれど、今日という舞台には、別の脚本が用意されている。


「殿下。ご発言の趣旨、確かに承りました。

では、婚約解消に際して必要な事務手続きについて、いくつか補足を」


「……手続き?」


殿下が困惑の声を漏らす。

私はひとつ頷いてから、手元の封筒を掲げてみせた。中には、公的証書と複写資料がきっちり収まっている。


「こちらは、フィオレンツァ公爵家が設立した『王立学園奨学基金』に関する、過去三年間の出納記録と照合作業の報告書です」


ざわめきが、再び広がる。

私は視線を客席に向けた。学園の理事、王室の監査官、政務院の書記官、王国の中枢に関わる面々が揃っている。

彼らは、今日私が“何を持ってくるか”を、すでに知っていた。


「この報告書によれば、ある特定の奨学生に対し、異常な頻度と額で支給が行われていたことが確認されています。

さらにその奨学生たちが、ことごとくミレイナ・エスカロータ嬢のご実家周辺に集中している事実も——偶然とは言えませんわね」


「ま、待って……それは、その……!」


ミレイナが声を上げた。震える声、潤んだ瞳。けれど、それが通じる相手は、今日この場にはいない。


「そして興味深いのは、そのうち複数名が資金受領後、エスカロータ家に高額な“献上品”を贈っていた記録があること。

この“奨学金”が、どのような経路で誰のもとに還元されていたのか——その図式は、明白です」


私は封筒を学園長へ差し出した。


「ご査収ください。詳細な分析は兄が政務院にてまとめた報告書にもございます」


沈黙が、場を覆う。

王太子は青ざめた顔で、私を睨みつけた。だが、その目にはもはや威厳も王族の余裕もなかった。


「リディア……お前……これは……まさか俺を、陥れるために……!」


「いいえ、殿下」


私は、ほんのわずかに笑った。


「あなたが“真実の想い”を口にしようとしたその瞬間まで、私は黙っているつもりでしたわ。

でも、貴方がこの場で私の名誉を傷つけた以上——

私にも、名誉を守る権利があります」


それは怒りではなく、冷静な理論。

私という“氷の姫君”が、氷のままに相手を切り裂く時が来たのだ。





「これは……確かに、公的資金の不正使用にあたる」


封筒から抜き出された書類に目を通していたのは、学園の理事長——王家直属の監察官でもある人物だった。

眉間に深い皺を刻み、重々しく頷くと、彼は周囲の数名に合図を送る。


「エスカロータ侯爵家関係者、および関係する奨学生名簿に該当する者たちを、本日以降の聴取対象とする。

なお、王太子殿下におかれましては——」


「待て、それは違う!」


王太子が声を荒げた。

「俺は……そんな仕組みがあったなんて知らなかった! ミレイナがやっていたことを、ただ支援だと思って……!」


必死の弁明だった。

だが、監察官の表情は微動だにしない。


「では、殿下は何の裏付けもないまま、個人的な感情で公爵家の名誉を傷つけられたということですか?」


「……っ」


言葉を失った王太子の横で、ミレイナがようやく声を上げる。


「わ、私は……リディア様が冷たくて、皆に恐れられているのが……かわいそうだっただけで……。

だから、もっと“温かさ”のある環境を整えたかったんです……」


——それは、善意という名を借りた詐欺の言い訳。


「ミレイナ嬢、私が“冷たい”と評されたのは、あなたがそう触れ回ったからでしょう?

慈善を語りながら、他人の努力を貶め、制度を利用して利益を得る。

それが“温かさ”なのかしら?」


私は静かに問いかける。


ミレイナは俯き、唇を噛んだ。

ドレスの裾が揺れ、彼女の肩が小さく震える。


「フィオレンツァ公爵家の名誉は、国家の信用そのものに関わる。

今日この場でそれを貶めようとした行為、そして制度を用いた資金流用については、王室にて厳正に裁定する」


監察官のその言葉が、事実上の“宣告”だった。


会場の空気が、完全に反転する。

さきほどまでミレイナに微笑んでいた令嬢たちが、次々に距離を取り始めた。

王太子の友人たちは、ただうつむき、誰も助け舟を出さない。


「……なんで、こんな……ことに……」


ミレイナがぽつりと呟く。

王太子も、拳を震わせながら立ち尽くしている。


私はその姿を、どこか遠くの出来事のように見ていた。

けれど、それでも言葉は添えておく。


「殿下。ミレイナ嬢。

私は貴方たちを罰したいのではありません。

ただ、これ以上私の名前を、無責任に使わせたくないだけです」


それが、私という人間に残された、最低限の矜持だった。





静寂。


言葉も、動きも、気配すらもなくなったような空間で、私はただ立っていた。


冷たい沈黙。

その中心にいたのは、かつて「王太子の婚約者」として祝福されていたはずの私、リディア・フィオレンツァ。


そして今、私を包む空気は、まったく別のものに変わっていた。


——尊敬。

——畏れ。

——そして、確かな敬意。


「……以上が、私からの報告と、弁明となります」


私は一礼し、壇上から数歩下がる。

会場の中央に光が差し込み、私のドレスの裾が静かに揺れた。


やがて——


「……リディア様、お見事でございました」


誰かが、ぽつりとそう呟いた。

その声が、堰を切ったように拍手となって広がっていく。


——パチン。

——パチパチパチ……


最初はためらいがちだった拍手が、やがて確かな音を連ねていく。

礼装の袖が揺れ、宝石が光を反射し、場が祝福の気配に染まっていく。


まるで「卒業祝い」はこの瞬間のためにあったのだと、誰もが錯覚するほどに。


「……婚約は、解消させていただきますわ。正式な手続きについては、書面にて後日、宮廷を通して」


私はカイル殿下にだけ視線を向けた。

彼は、俯いたまま、何も返せなかった。


すぐ傍に立つミレイナも、目を潤ませたまま、ただ黙っていた。


あれほど愛を語ったはずの二人は、今や誰の手も借りられず、社交界の中央で立ち尽くしている。

なんと脆く、儚い光景だろう。


——もう充分。

これ以上、言葉をかける必要はない。


私は踵を返し、静かに会場の中央から下がった。


その背中に、再び拍手が巻き起こる。

今度は、誰もためらわなかった。


私はようやく、あの学園に通っていた意味を、見つけた気がした。


戦うためではなく、耐えるためでもなく。

ただ、誇りを守るということが、どういうことなのかを学ぶために。


そしてそれは、王太子妃という肩書きのためではなく、

私自身のために必要なものだったのだと、今ならわかる。


——けれど。


まだ、この夜は終わらなかった。


そう、まさかこのあと、「もうひとつの婚約」の話が出るなんて——

この時の私は、思いもしなかったのだから。





「リディア嬢」


名を呼ばれて振り返ると、そこに立っていたのは——

深い黒の礼装に身を包み、琥珀のような瞳を持つ、一人の青年だった。


背筋が伸びていて、しかし威圧的ではない。

その姿を見た瞬間、私の心臓は強く打った。


「……レオン様」


自然と、声がこぼれた。

それは、私が一度だけ口にした名前。

学園生活のある冬の日。風に揺れる白いマフラーと、確かに重なっていた記憶。


彼は、帝国からの留学生として短期間だけ在籍していた。

どこの家門か明かさず、謙虚なふるまいと聡明な瞳で、多くの者に慕われていた——なにより、私にとっては。


「ご無沙汰しております、リディア嬢。こうして再会できたこと、心から嬉しく思います」


彼は丁寧に頭を下げた。

会場の人々が再びざわめく。

「誰……?」「あの方は……?」という声が、微かに聞こえてくる。


その気配に気づいたのか、彼はゆっくりと顔を上げて言った。


「自己紹介が遅れました。私は、セレヴィア帝国第一皇帝の甥、レオンハルト・ヴァルシオン・セレヴィア。

帝都からの密使として、そして本日は——個人的な目的で、この場に参りました」


——皇帝の甥?


会場が一瞬にして緊張感に包まれる。


「なぜ帝国の御方がここに……」「まさか、この場のために……?」


そう、まさに“この場”を狙っていたのだろう。

王太子の醜聞が明るみに出た今、彼の登場は――まるで計算されたような美しさすらあった。


私は、にわかには信じがたい気持ちで彼を見つめた。

それでも、彼の瞳は真っ直ぐだった。懐かしくて、温かくて。


「リディア嬢。あなたは、今日この場所で、誇りを守る剣を振るわれました。

その強さと気高さに、改めて私は……心を奪われました」


声が、耳に心地よく響く。

それはもう、学園の中庭で交わしたたった一度の会話を、忘れていないという証だった。


「だから私は、あなたに願います。どうか、私の隣に——」


そして、言った。


「リディア・フィオレンツァ嬢。私と婚約を結んでいただけませんか」


――プロポーズ。


再び、空気が止まった。

先ほどの拍手の熱が、別の形で場を支配する。


王太子の婚約破棄。

その裏にある真実の暴露。

そして今——帝国の皇族からの、唐突すぎる求婚。


この夜は、どこまで私の運命を変えていくのだろう。





「……い、いま、なんと……?」


誰かの震えるような声が、会場の片隅から聞こえた。

けれど私は、それに反応する余裕すらなかった。


帝国皇族、レオンハルト・ヴァルシオン・セレヴィア殿下。

数年前の“学園の転入生”が、まさかそんな人物だったとは。


「この場でのご提案は突飛に見えるかもしれません。ですが私は、今日という日が——リディア嬢の真価が、最も公正に示された瞬間だと信じています」


彼の言葉は、誠実だった。

演説でも、口説き文句でもない。

私という個人を見て、尊敬を込めて語っていると、ひしひしと伝わってくる。


「私は、あなたの冷静さと理性を尊敬しています。そして、ただ強いだけでなく、正しくあろうとするその姿に、心から魅了されました」


その声音に、私の胸が強く打つ。

誰よりも冷静であろうとしてきた私の心が、動かされる音がした。


「正式な話は改めて宮廷を通して申し入れますが、今夜——あなたがこの場に立ったその姿に、どうしても想いを伝えたかったのです」


一歩、私の方へ近づく。

彼の琥珀の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。


「リディア嬢。どうか、私と人生を共に歩んでいただけますか」


——なんて、不意打ち。


私は思わず、肩の力が抜けそうになった。

卒業パーティーで婚約破棄。

裏切りと中傷の雨に晒されたその直後に、

まさか、初恋の相手から、帝国皇族としての正式な求婚を受けることになるなんて。


(こんな展開、誰が予想できたかしら)


私は、意識的に息を整えた。

会場の視線が、突き刺さるように注がれている。

それでも、私は“氷の姫君”としての面目を守らねばならない。


「……身に余るお言葉、光栄に存じます。ですが、あまりに急なことで、私には……」


「もちろんです」


彼は笑った。静かに、優しく。


「答えは急ぎません。ただ、覚えておいてください。

今日、あなたが自らを貫いたその姿は、多くの者の心に、深く刻まれたということを」


——ああ、そう。

この人は、変わっていない。

あの日、私の目を見て「冷たくなんてない」と言ってくれた彼は、

今でも誰かの価値を、静かにすくいあげてくれる人のままだ。


「……はい」


私は、小さく微笑んだ。


「本日いただいたご提案、確かに胸に刻みました。

改めてご挨拶いただけるその時を、お待ちしております」


拍手は起きなかった。

けれど、会場の空気は一変していた。


それは敬意でも驚きでもなく、畏れにも近い“認識の更新”だった。

氷の姫君は、今日、自らの足で運命を選び、

そして、未来を変えた。





会場の喧騒が落ち着いたころ、私は控室へと下がった。


この数時間で起きた出来事を、まだ整理しきれずにいたけれど、

ただ一つだけ、確信を持って言えることがあった。


——私は、私の名誉を、自分の手で守りきったのだ。


「お疲れさま、リディア」


その声に振り返ると、そこには兄——アーヴィン・フィオレンツァがいた。

公爵家の嫡男として政務院に勤める兄は、ふだん滅多に表に姿を出さない。

けれど、今日は最初から“すべてを見届けるつもり”で会場にいたのだろう。


「兄様……」


「よくやった。堂々としていた。

あの王太子も侯爵令嬢も、言葉を返す隙すらなかった」


「……誉められるような気分じゃないわ。

何も起きなければ、それが一番良かったのに」


私がぽつりとこぼすと、兄は小さく笑った。


「いや、お前は今日、ただの被害者じゃなかった。

堂々と、矜持を守った人間として、王侯貴族すべての前に立った。

……それがどれだけの意味を持つか、よくわかっているだろう?」


私は、ゆっくりと頷いた。


あの日からずっと。

私は、王太子の婚約者として、静かに、波風を立てずに過ごしてきた。

それがフィオレンツァ家の娘に求められる“姿”だと思っていたから。


けれど——それだけでは、守れないものがある。

名誉とは、与えられるものではなく、自分で証明するものなのだと、ようやくわかった。


「……兄様。私、間違ってなかったのね」


「そうだ。お前のやり方で、正しかった。

そして今日、お前は“お前自身”を選んだ。

それだけで、十分すぎるほどの勲章だ」


私は目を伏せ、微かに笑った。

これが涙ではなく、ほっとした笑みであることを、自分でも誇らしく思えた。


「でも、まさか……レオン様が、あんな風に現れるとは思わなかったわ」


「……初恋だったんだろう?」


「ちょっと、兄様!」


「顔に書いてあった」


からかうような口調に、私は頬を染めた。


けれど、怒る気にはなれなかった。

今日だけは、そういう自分も受け入れられそうだったから。


ノックの音がして、宮廷付きの使者が顔を出す。


「失礼いたします。リディア様。陛下より、非公式ながら謝意をお伝えするよう仰せつかっております。

本日のご対応、誠に見事でございました」


私は静かに一礼した。


これで、すべてが終わった。

そして、これからが始まる。


そう思えたのは、今この瞬間が、

誰の影にも隠れない“私の人生”の出発点だと、ようやく実感できたからだった。





数日後。

私のもとに、帝国から正式な使者が訪れた。


王国と帝国の間で交わされた外交儀礼に則り、

淡金の封蝋で閉じられた文書が、丁寧に手渡される。


その文面は、かつての留学生ではなく——

セレヴィア帝国の皇族、

レオンハルト・ヴァルシオン・セレヴィア殿下による「正式な求婚状」だった。


(……本当に、来たのね)


淡金の封蝋を解く手が、わずかに震えた。


レオン様からの求婚状。

あの夜、あの言葉が、礼儀でも気まぐれでもなく、

本当に心からの想いだったのだと、確かな文字で知らされる。


文面には、彼らしい端正な筆跡で、こう綴られていた。


《私はあなたの理性と誇りに心を打たれました。

帝国の未来に、あなたのような人が必要だと、心から思ったのです。

どうかもう一度、あの中庭で話したときのように、

あなたのまなざしを、私に向けてはいただけませんか》


私は思わず、微笑んでしまった。


“あの中庭で話したときのように”——

それは、誰にも話したことのない記憶。

彼が本当に、私という個人を見てくれていた証だった。


けれど私は——

まだ、どうしたらいいのかわからなかった。


まっすぐに望まれることに、こんなにも戸惑うなんて。

あんなに冷静に振る舞っていたくせに、

こんなときだけ少女みたいに心が揺れるなんて。


「兄様……私は、本当に彼に、応えてもいいのかしら」


私がそう尋ねると、兄は机に肘をつき、苦笑した。


「ふん。まったく、お前は……。

ずいぶん幸せなことで、困ってるんだな」


「え?」


「そんなふうに悩むなんて——

お前、本気で“ちゃんと愛されること”に、まだ慣れてないんだなって思ってさ」


その言葉に、何かが胸の奥でほどけた。


ああ、そうか。

私は今までずっと、“誇り”や“責任”の名のもとに、自分を律することばかり考えていた。

だけど——それだけが、生き方じゃない。


「私は……今、ちゃんと“困ってる”のよ。嬉しくて、でも怖くて……どうしたらいいのかわからないくらいに」


「うん。それでいい。

ちゃんと困れ。ちゃんと悩め。

それが、“自分の人生を選ぶ”ってことだ」


兄の声は、いつもより少しだけ優しかった。


——私はもう、誰かの影ではなく、自分の足で立つ。


氷の姫君と呼ばれた学園生活。

王太子の婚約者という仮面を被っていた日々。

そのすべてを経て、ようやく私は「私」になれたのだから。


そうして、私は決めた。


使者に返答の文書を託しながら、手紙の最後に短い一文を添えた。


《そちらで改めてお会いできる日を、楽しみにしております》


それはまだ、「はい」とは言っていない。

けれど、“逃げない”という返答にはなるはずだった。


そして今、私の人生は新しい章へと入る。


冷たくも、凛としていた時間を越えて——

胸の奥に、静かに灯る温かな炎とともに。


(これは、私の物語)


——誰のものでもない、私自身の物語が、ここから始まる。

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