第10話 「ズレ」
――何も、言葉を返せなかった。
空の端が赤く染まり、星々も消えかけている頃。
自室のバルコニーで項垂れているガウムは、苦しいほどの虚しさを感じていた。
長い長い夜だった。それは、確かなはずだ。
それなのに。それなのに、ガウムが抱えたわだかまりは、未だに残ったままで。
――それは勿論、ドールについてだ。
最上階の一室で生じた疑問。
それを投げかけた後、ドールから返ってきたそれは異質なものだった。
初めの質問である「ドールの年齢」について。
天使について記された本の年代が起因となって生まれた疑問だ。
失礼かと思ったがやはり気になってしまうものだ。
その好奇心のままに尋ねてしまったが、ドールの回答も何の抵抗を感じないものだった。
『あんまり覚えていないから大雑把になるけど、千年はいってるかな』
――千年。その容姿に見合わぬ歴史を抱えた彼女の回答に、改めて神の異質さを実感させられる。
あまり覚えていないが、という前置きがあるのは単に興味が無いのか、はたまた――。
「――っ」
何か、踏み込んではならない域に片足を踏み入れたような気がして、思考を止めた。
後味の悪さに顔が歪んだが、無理矢理振り切る。
――神という生き物は、人間とよく似ているようで中身がまるで違う。
莫大な時間を生きている彼女ら神と人間では、積まれた経験に圧倒的な差がある。
加えて、神という特殊な立場からしてその密度さえも違うように思えた。
――それは、ドールの歩んできた道の断片だけでも明らかで。
ドール自身の口から語られ、パームナを舞台としたそれは、今よりどれほど遡った話なのか。
ドール達の姿が幼かったのならば、単純に千年前程度だと考えていいのだろうか。
具体的な数が出ても、それは果てしなく漠然としたもので、やはり想像することなどは無理だ。
そんな見当もつかないような時代で、彼女は世界の澱みに溺れていたのだ。
ドールの口から語られたそれは、表面上は冷酷な『兵器』の話だったかもしれない。必ず誰かの恨みを買っていただろう。
――それでも、悲しいことにドールの話の端々には兄妹に対する優しさが感じ取れて。
恒術を使ったのも、絶望に嘆いたのも、全て兄妹が始まりだ。自ら幽閉されるのを望んだのも、兄妹を傷付けないためだった。
――それなのに、『兵器』と。その言葉で片付けられてしまったのが、悔しくて。
彼女の強さが故に『兵器』というのなら、そうは思わなかっただろう。
ただ、その『兵器』の異名がドールへ向けた恐怖の代名詞となったことが、悔しいのだ。
もちろん、彼女は罪の有無関係なく殺戮を繰り広げた。それは、わかっている。
それでも、それでも。
――守りたいものを守る。
誰にも劣らない力をもっていたドールにとって、それは簡単なように見える。
だが――行き過ぎた力は、大切なものまで壊してしまうのだ。
ドールこそが、その最たる例といえるだろう。
だが、この件でドールは神々に深い傷を負わせた訳ではない。
「命を守った」という意味なら、ドールはそれをやり遂げた。実際、キールは殺されていない。
しかし――キールの心は、守れたのだろうか。
自分のために、自分のせいで人々が殺されていく様子は、どれだけ彼女の心を押し潰したのだろう。
もしガウムがキールの立場に立たされたならば――罪悪感で死にたくなる。
キールがガウムと同じ思いに至ったかはわからないが、そうでなければキールの涙に理由がつかない。
ドールもきっと、キールの涙から嫌という程感じ取ってしまったのだろう。
絶望に呑まれた彼女は、行いに反して酷く温かな感情を持っていた。
大切なもの――愛した兄妹達を、自分の手で壊してしまう前にと。
そうして彼女は、自ら幽閉されることを望んだ。
そう、彼女自身は「望んだ」と、確かに言っていた。
でも、実際は――。
救われたのに守られなかったキール。
救ったのに守れなかったドール。
『兵器』の痛みも知らずにその名を呼ぶ人々。
いつも柔らかく微笑むドールは、それに似合わない過去を背負っていて。
見た目と不釣り合いな年月を歩んできた彼女らは、きっと色んな傷を負っていて。
それともうひとつ、彼女がごく当たり前のように話していたのと過去の話の印象が強いあまり掻き消えそうになっているが、確かに引っかかっている部分がある。それは、人間に対するドールの冷たさだ。
「天使」だけじゃない、「人間」に対する冷たさだった。
まるで、兄妹への温かさに反するかのように思えた。
ましてや、彼女は「以前から」嫌っていたと語った。
カルムアやナスタ、レンカと接している際にそんな印象を受けたことがない。想像したくはないが、嫌悪を押し殺しているだけなのか、はたまた彼女達がドールにとって特別なのか。後者であって欲しいと願うのは、ただの我儘なのに。
ドールは、どうして人間であるガウムに『兵器』の話をしてくれたのだろうか。護神、だからなのだろうか。
時々、何故私が護神になったのか考えてしまう時がある。
ドール達が護神をつけることが珍しいのは、初めてカルムアに会った時の反応で分かっている。
どうして、偶然出会った私なんかが護神になったのか。
記憶を無くす前、護神に選ばれるほどの関係を築いていたなら納得できる。だが、あの時ガウムの名前を「知らない」と言った時点でそれは無いだろう。
――なら、どうして。
「――」
深く、深く深呼吸をする。
行き詰まった思考がどうしようもなくなって、縋るように顔を上げた先。瞳に映る空は、端がかなり染まっており、すぐにでも太陽が昇って来る気配がした。
「――そろそろ、行かないと」
出発は日の出。ドール達のもとへ行かなければならない。
時間は刻一刻と迫り来るのに、ガウムのわだかまりは残ったままで。
この後、ドールにどう接すればいいのだろう。分からない。分からない。
――でも、いかなければならない。
「――っ」
曇ったままの表情が晴れることはなく、そのままガウムはバルコニーを後にした。