自害の影
鳴海女学園 一年三組 出席番号二番 相澤ユウコが死んだ。別にユウコと仲が良いわけではなかった。でも、仲が悪いわけでもなかった。だからそれなりに驚いた。
ユウコはスクールカーストの最下層にいた。要するにいじめの被害者というわけだ。休み時間の彼女は大概悲惨な目に遭っていたと記憶している。誰も直接関わろうとはしなかったが、耳で聞き、目で見ていた。大抵、そういうスタンスだろう。
特に酷かったのはカーストの最上層に立つ大ボス・野﨑カナ。あの子は本当に容赦がなかった。熱湯をぶっかけたり、蹴り飛ばしたり、鉛筆削り用のカッターで体を切りつけたり。それでもユウコは何も言わなかったし、悲鳴も涙もなかった。マネキンのようになされるがままだった。泣けば喜ぶ、刃向かえばもっと酷いことをされる。そのどちらも嫌だったのだと思う。それは賢い選択だが、無反応というのも理解不能だった。結局、そうやって一人で溜め込んでしまう性分がこの結果を招いたのだろう。
ユウコが死んでから一ヶ月が経った。前の担任が突然辞め、新しい担任がやって来ることになった。名前は鈴本麗。スタイルが良くて美人で、優しい雰囲気の先生だった。
これから麗先生の初めての授業が始まる。先生はとても緊張している様子だ。なぜだか私まで緊張してきた。三つ隣の席では、カナがガムを噛みながらふんぞり返ってる。本当にみっともない。先生は注意したくても出来ないようで、カナの方をチラチラ見ている。
「せんせー、何スか。」
カナはガムを吐き捨てて先生を睨みつける。大物ぶっているが、みっともない真似だ。この反抗的な態度に変な理想を抱きながら大人になると、ロクなことにならない。
「ご、ごめんね……何でもないよ。」
先生も先生で、これまたみっともない。すっかり萎縮してしまって。
「だったらー、こっち見ないでくれますかー。」
こういった類いの理不尽は、大体の場合、言葉の通りの意味に受けとるものではない。お前は格下だという、マウンティングのような意味で解釈するべきである。不良のやることなど単純だ。
チャイムが鳴る。いつもの、聞き慣れたチャイム。聞き慣れたチャイム。
聞き慣れた?
いや、いつもとは少し違うような、ほんの少し胸騒ぎがするチャイム。どう言い表せば良いのだろう。形容しがたい不安を煽るチャイムとでも言おうか。とにかく、少しおかしなチャイムだった。
「はい、では……授業、の方、始めて……いきます。」
緊張か。声が震えている。見た目はデキる女という感じなのだが。こういうのがギャップ萌えというものなのだろうか。よく分からない。
私は見守るしか出来ないが、心の中で先生を精一杯応援した。まあ、不安要素は残るが何とかなるだろう。何と言ったってちゃんと真面目に生きてきた大人だ。汚職だとか隠蔽だとか、そういうことに手を染める教師もいるが、それは決してそこまでの人生を否定し得ない。詰まるところ努力の上で勝ち得た地位が人の性質を変えてしまうがゆえに起きる事故のようなものだ。彼女にはそれはあるまい。
「せんせー、授業なんてやれるんですかぁ?」
やっぱりここで出張ってくるのは、カナだ。いつもいつも、自分中心。傲慢にもほどがある。実質ユウコを殺したようなものなのに、反省するどころか余計悪化していないか。
「………。」
スタスタスタスタスタスタ。
先生が、カナの席に向かってモデルのような美しい姿勢をキープしながら歩いていく。その表情はやはり緊張していた。しかし、先程までの緊張とは違った。何というか、決断を迫られた作戦指揮官のような表情。覚悟した者の顔だ。
暴力でも振るうつもりか?そんなことをすれば、その場面だけ切り取って動画を拡散されて教師生活が終わってしまうのではないか。
皆を一瞥し、先生は笑った。その笑いは、申し訳なさそうなものだった。なぜだか知らないが、そう見えた。やはりそういう覚悟を決めたのか。
「……カナさん、ごめんね。」
「あ?」
先生はカナの机の前に立ち、そのままカナの右耳を切り落とした。一瞬の出来事。微笑みを浮かべたあの一瞬よりも更に短い間に。だから何を使って切り落としたのかも分からない。ただ、切り落とされたという事実だけはハッキリしている。
「え、何……痛っ。」
カナは理解が追いついていないらしく、笑顔とも怯えともつかない表情を浮かべて右耳のあった場所に手をやる。当然、そこにはあるべきものがない。
「うぁっ、みみ……ぁぁぁぁ、ぁあ、みっみ耳ぃがぁああぁぁぁあ!」
抑揚豊かな声で怯えるカナ。バカみたいな顔をして椅子から転げ落ちて、完全に混乱しているようだ。
そこから、皆もようやく事態を理解しはじめ、好き勝手に悲鳴をあげ始めた。
どこかの映画で神父の耳が切断されるのを見たことはあるが、まさか目の前で実際に人の耳が切り落とされることになるとは。しかもそれが、同級生の耳だとは。色々新鮮すぎて、頭が痛くなる。今日の夢はきっと悪い方向で色とりどりになると思う。
「たッ……はぁー、はぁー、た……た、たすっ……ひっ!」
カナはタスケテの四文字も言えないくらい怯えている。先程まであんなにナメてかかっていたのに。でも先生は変わらずおどおどしている。
「……ほ、ほんとにごめんね、でも『命令』だから……。」
後方ドアの方まで後退りするカナを、先生はゆっくり追い詰める。殺人鬼のそれとは違って、とても優しい追い詰め方。大丈夫、安心して、とでも言わんばかり。まるで怯える動物を宥めるような、殺意も悪意もない穏やかなオーラ。
「ごめんね、授業中はオートロックかかってる……それに、もうどこに泣きついても駄目なんだよ、これは国が決めたことだから……。」
国がこんなことを決めたのだと。それは現実味がなさすぎる。とは言え実際こうやって堂々と拷問劇を繰り広げている彼女の様子を見るに、冗談ではないらしい。
「ッくそ女ァァァ……死ねよォ……!お前なんか子宮に穴開いて人生終わっちまえよ……!」
カナは縮こまりながらも、恐怖の中から必死に暴言を引っ張り出す。腐っても不良のリーダー格。だが麗は、相変わらずの表情のままカナの右目を潰した。親指だ。さっきは多分何かの刃物を使ったのだろうが、今度は素手。グチュッ、ヌチュッ、グポッという音がここまで聞こえてくる。生々しいというか、生暖かさが伝わってきて少し気持ち悪い。
「……ごめんね……本当にごめんね。
委員会からの命令には逆らえないの。
でも、殺しはしないから安心してね……。」
「あああああッああ、あああああ!!」
ジタバタと抵抗するカナの上に馬乗りになって、両腕を片足で踏み押さえる先生。カナの悲鳴が一段と大きくなる。凄い力だ。カナは両腕を動かせなくなってしまった。そのまま先生は、カナの顔面を五回ほど殴る。鉄の塊で殴るような音だが、どう見ても素手。未来から送られてきたロボットなのだろうか。もしそうなら、彼女は人類の敵か味方か。
それにしても恐ろしいのは周りの皆である。怯えているものの、逃げようとする者は一人もいない。皆、目の前の現実の虜になっている。
「……。」
先生はカナの右目を机の上に置き、次の拷問へと移ろうとしていた。馬乗りのままで。どうやら、ポケットの中にその手の器具がたくさん入っているようだ。
「糞メスがぁぁぁッ!!」
横っ腹に、カナの強烈な蹴りが命中する。音だけでもその衝撃が伝わってくるくらいだ。ここまでされてまだ折れていなかったか。生物全般に言えることかも知れないが、追い詰められたものほど恐ろしい。
「……うっ。」
先生は少し嗚咽みたいなものを漏らしただけで、あまり効果がなかったようだ。そして次は鼻でも削ぎ落とすつもりか、手にはナイフが握られている。
「皆さんは、ちゃんと、座っててくださいね。これも……授業ですからね。」
先生は優しく微笑んで、カナの鼻を予想通り削ぎ落とす。カナは悶絶し、その場で転がり回る。まあこれも予想通り。
「カナさんはユウコさんを死に追いやった、いじめ加害者です。
そんな加害者に必要なのは、復讐でも社会的制裁でもありません……『教育』です。ねじ曲がった憎悪の感情や憂さ晴らし目的の罵詈雑言は子供の成長の妨げにしかなりません。ですから……私達教師が、魂を込めて『教育』しなければならないのです。
世間の人々はすぐに『更正の機会はない』と決めつけて殺したがる……しかしそんな野蛮な思想の果てにあるのは人類の衰退だけです。
そう、思春期の子供達に必要なのは慈愛の心なんです。だから、分かってね……カナさん。」
口調を強めたり弱めたり、微妙に調整しながら弁舌を振るう先生。そうだ、やっと腑に落ちた。
これはデジャヴだ。カナがユウコをいじめていた時、誰もユウコを助けようとしなかった。誰もカナを止めなかった。そして今、カナはユウコの役を演じさせられている。そういうことだ。
「んっ、……ごふッ、ブふぼっ、おぉ、おごっ、おおお!」
カナはとても苦しそうな顔をしている。対する先生はとても申し訳なさそうな顔をしている。相変わらず。でも、先生はこの『命令』をきっと最後まで守るつもりだ。ここぞという時に感情よりも仕事を優先する覚悟があるはずだ。でなければ、こんな『命令』は降りないはずだ。全て推論だが、当たっている自信はある。
「ごめんね、でもまだ途中だから。人の痛みをたくさん知らなきゃ駄目だから。」
この先生は鬼畜だ。こんなのは教育でも何でもない。
「さあ、次は手の指だよ。全部切り落とすからね、いくよ。」
先生は、逃げようとするカナを押さえつけ、その指を全て切断してしまった。まるでキャベツでも切るように手際よく。もう困惑するどころか、こんなによく切れるものなんだと感心すら覚えてしまう。
響き渡るカナの悲鳴に混じって、
ボト、ボトボト、ボト。
切断された指が床に落ちて転がる。先生はそれらを一本ずつ拾っていき、窓を開け、グラウンドに投げ捨てた。ここは三階だ。窓から飛び降りて拾いに行くことはできない。かといって、休み時間になってオートロックが解除されるのを待っていたら、指がどうなるか分かったものじゃない。
いや、そもそも誰があれを拾いに行くの。拾いに行くのはカナでしょ。カナのものなんだから、カナが拾いに行くんでしょ。
ああ、聞き覚えのある言葉。二ヶ月ほど前だったか、カナがユウコの筆箱をグラウンドに投げ捨てた時に言ったのと同じ言葉だ。私は不意にそれを思い出したのだ。そして、多分あの場面を覚えているなら誰しもが同じように考えたはず。
「ほら、あなたの指はもうない。」
先生はカナの右手を掴み、切断面をぐじゅぐじゅとほじくった。ああ、これは痛いに決まってる。でなければおかしい。
「ああぎゃああああああぁぁぁぁァァァァッ!」
痛みに耐えきれず、凄まじい勢いで後退し、勢い余ってロッカーの角に背中をぶつける。なんて間抜けなんだろう。でも、追い詰められた人間なんてあんなものか。多種多様な痛みに襲われて、もう立つこともままならないようだ。
既に顔は誰のものかも分からないくらいぐちゃぐちゃになっていて、声も態度もまるで別人だ。唾液や鼻水と混ざった血の糸が垂れている。すごく汚い。こうなってしまっては、もうカナではない。私の知るカナは、不良だけど顔だけは良かった。今のこれは全く違う。まるで出来の悪い偽者だ。たったひとつの取り柄すら失った今のカナには、哀れみしか感じない。こんな様では、さっさと殺してやった方が良いのではないかと思うくらい、哀れだ。
「ぁんで……だえお、たふけれくれあい……んだよ……!」
赤紫の塊が皆に対する愚痴と、ヒューヒューという間抜けな音を漏らす。
あーあ、ついに折れた。天下無敵の不良女子、カナ様がついに折れた。女としても、不良としても、駄目駄目駄目。もう誰もついてこない。
「じゃあね、あなたは一体誰を助けたの?誰も助けなかったよね?むしろ、積極的に死に追いやった。そうだよね?」
あくまで優しく問い詰める先生。彼女の倫理観には期待出来なさそうだし、まわりの生徒達も非協力的だ。けはけはと不気味な音を立てて咽び泣く肉塊を凝視するだけ。ミミヲキリ、ハナヲソギ。それどころか手の指を全て失い、今度はどこをどうされるのかとびくびく怯えるだけ。この世で一等無価値な生き物ではないだろうか。
ああ、あの威勢はどこいったんだろう。ユウコなんて声ひとつあげなかったよ。それはまあ、やられたことの程度の差はあるけどさ、ユウコは頑張ったんだよ。カナも頑張らなきゃ駄目じゃん。
私はいつの間にか、そんな風に考えるようになっていた。ある種の諦めだと思う。目の前の現実を、まあこんなものか、と受け入れる。それは考えた上での妥協ではなく、思考停止の上での妥協。こんなものを大真面目に見ていたらおかしくなりそうだ。まあでも、今更頑張ったところでカナに明るい未来はないかも知れない。
「これで最後だから頑張ってね。」
先生は今まで以上に優しい声で語りかけ、カナの頭を撫でる。カナは感情を処理しきれなくなったのか、バケモノみたいに泣きはじめた。
「もう少しだから、頑張って。」
カナの制服を強引に引き裂き、下着を脱がせ、───その腹を勢いよくナイフで切りつけた。三度、四度。真ん中ではなく、右足に近い場所。待ってましたと言わんばかりに溢れ出す細長い臓物。先生はチェーンソーのスターターでも引っ張るような感じでそれを引っ張った。そしてカナは、とても甲高い声で鳴いた。泣いたり鳴いたりと忙しい。
「あと少し。あと少しで終わるから。」
終わるのはこの拷問か、それともカナの命か。どちらがより風前の灯に近いかと問われれば、百人中九十人は後者だと即答するだろう。
「生きてたら、助けてあげるからね。」
「うぶ、おっ……げええええっ!」
ビクビクと痙攣しながら乳白色の液体をびちゃびちゃと撒き散らすカナ。とても強烈な臭いが辺り一面に広がる。何人かの生徒はカナにつられて嘔吐。
いわゆるもらいゲロ。トイレは……駄目だ。教室はオートロック。昨日までただの古臭い木造のドアだったくせに、何故いきなり?
それにしてもチャイムが鳴らない。もうとっくに一時間くらい経ってるはずなのだが。
先生はカナの吐瀉物がかかりまくっても顔色ひとつ変えない。強い、存外強い。
「頑張って、カナさん。私もあなたが死なないように祈ってるから。」
へえ、祈りってこういうものなんだ。いやいや違う違う違う。あれ、でもそうだったっけ。どうでも良いや。
もう真面目に解釈しない。真面目に考えない。
カナは教室の後方。先生は教室の真ん中。トンネル開通式のテープみたいに、腸が垂れ下がっている。ああ、ハサミで切らなきゃ。いやいや駄目。あれは工作じゃない。あれは人。人なんだ。人?だって、耳も鼻も指もない。いや、あれは人なんだ。
耳切りや鼻削ぎには人を人でなくすという意味があったのだと、どこかで聞いたことがある。なら、もうカナはお察しの通りではないか。
私の中で様々な思考が衝突する。もう、カナの顔なんて思い出せない。だが、今目の前にある血肉の塊は間違いなくカナなのだ。
「うっ、ふ、ぁ……ぐっ!」
カナはまだ痙攣している。でも、かなり弱々しくなってきた。ぶじゅ、ぐじゅるるる。カナの顔が変な音を立てている。ヨーヨーみたいにぶら下がる血液。乱れきった髪。抉られていない方の目を破裂しそうなほど見開き、呼吸は敵を威嚇する犬のように荒々しく、とても攻撃的だ。
子供の頃、おばあちゃんの部屋に置いてあった日本人形みたいだ。先生を呪うつもりか?それはやめておいた方が良い。人を呪わば穴二つだ。
ああ、ほら、先生が止まった。もう終わりだ。良かった良かった。
「……凄い、ちゃんとやりきったわね。
じゃあ、今日の一時間目、特別授業は終わり。
救護係の皆さん、入ってきてください。」
先生は慌ててドアのロックを解除し、救護係を急かすように教室に押し入れる。本当に助けてあげるらしい。ということは、この申し訳なさそうな態度も多分本物だったのだろう。
結局先生はやりきった。罪悪感と使命感に挟まれながらも、職務を全うした。
カナもやりきった。およそ社会的制裁や復讐に等しい拷問を受けて、何とか耐え抜いた。
「皆さんご安心ください、人命救助のために我々がいるのです。彼女は100%助かると、神に誓います。」
今はフラフラで、とにかく意識を保つだけで精一杯みたいだけど、いつか回復するだろう。救護係の男性が自信満々にそう答えたのだ。ならば、それはきっと真実だ。
それから私達は何事もなかったかのように授業を受け、帰る頃にはあらゆることを忘れてしまっていた。
あれ、うちのクラスに誰かもう一人いたような。なんて、皆が皆同じことを言っていた。私もその中の一人だった。
・・・
『えー、他人に危害を加える子供を更正させるのは、復讐や社会的制裁ではなく、えー、教育である───我が師であります島田源三先生の、えー、素晴らしいお言葉です。
この言葉を我々は実践していきたいと、えー、そのように───』
小さなテレビの中で熱弁を振るうのは衆議院議員の長内幸助。どれだけ爽やかな笑顔を浮かべられても信用出来ないのは何故だろう。笑顔の裏に利権が見え隠れしているからだろうか。所属は確か自由黎明党だったか。今の与党だ。だがこの男は与党からも野党からもべらぼうに嫌われている。八方美人が空回りして中途半端になってしまったという感じだ。
「……。」
テレビを消し、目を閉じる。夕暮れ時の病室にただひとり。救護係のおかげで、結局鼻も耳も指も腹も全て治っていた。でも厳密には違う。確かに元のように人間生活を難なく送れるようにはなった。でも違う。『私』は『私』ではなくなっていた。性格も、趣味も嗜好も何もかも違う。
目が覚めてから、まず『両親』と面会させられた。と言っても、やって来たのは身も知らない裕福そうな身なりの二人組だった。名前はユキとタツノリ。ユキは清楚な雰囲気で、若々しくて、とても柔らかい雰囲気。タツノリは紳士のような出で立ちで、髭がすごくダンディー。でも、唯一の欠点は面識が全くないということだった。
当然、すぐさま直談判した。それでも救護係の男性はこの二人が両親なのだと言い張った。一時間も二時間も続けたが、途中で折れた。男性の方は何食わぬ顔だった。まだ続けますか、私は一向に構いませんよ、とでも言いたそうな顔だった。その態度は、命を救われたことによって僅かに芽生えた感動を基盤から打ち崩した。
そして、次にやって来たのは見知らぬ三人組の男子高校生。制服は自分が通っている鳴海女学園の北東五キロ先にある、山萌高校のものだ。当然面識なんてない。にもかかわらず、しつこく『友達』だと言い寄ってくる三人組にいよいよ堪忍袋の尾が切れ、
「テメェらしつけぇんだよ!いい加減にしねえとブチ殺すぞコラ!」
暴言を吐いてしまった。そこで気がついた。鼻。鼻の、あの教師に切られた場所からプツプツと血が出始めている。
「いやああああああああああああああああああああああああああッ!」
姦しく泣き叫びながらナースコールを連打し、救護係を呼びつけた。だが、救護係の男がやって来た時には既に、鼻は何事もなかったかのように無事だった。男は落ち着き払った様子で言った。
「だから言ったじゃないですか。あなたはカナなんて名前じゃないんです。」
トイレに行き、鏡を見た。ああ、顔もまるで別人だ。本当に自分はカナじゃないのか。でも十六年積み重ねてきた記憶をたった一日で否定することは出来ない。絶対にカナだ。
「何なんだよこれ……。」
それからも、知らない人間が入れ替わり立ち替わり、自分のいる病室に訪れた。誰一人として、記憶の片隅にも存在しない。
ああ、これは多分ドッキリなんだ。
そう思った。そう思うことで納得しようとした。それはこの世で一等嫌いなもの。騙されたんだと思うと、ホッとする反面腹が立ってくる。だいたいどれもこれも、ユウコが勝手に飛び込み自殺なんてしたせいだ。あの女、ふざけやがって。
そう思って拳を握り締めると、両手の指が揃って床に落ちた。ボト、という音と共に。
「あ……ああああ…………!」
先ほどまで怒りに満ちていた顔が、忽ち恐怖で歪む。どれだけ威張っていても、あの教師に植えつけられたトラウマは燻り続けている。一生消えない心の傷だ。
痛い。痛い。切断面から血が滴る。どんな雑な手術をしたらここまで酷いことになるのか。これならアロンアルファの方がマシだ。
「おいッ、救護係……このクソ野郎ォォォッ!」
怯えながらも、やはり虚勢を張り続ける。そして来たのは、やはり落ち着き払った表情の男性。
「もう分かったでしょう。その鼻も耳も指も何もかも、更正の証ですよ。契約を破ったらペナルティがありますよね、それと同じです。
あなたが『更正する』という契約を破れば、そういうことになるんです。」
つまり、更正するつもりがないなら元の姿に戻ってしまうということ。戻りたくもない、あの痛々しい姿に。あの教師、ふざけたことを。この男もこの男だ。どいつもこいつもバカにしやがって。
しばらくして、指は元に戻ったが、それでも納得はしていない。人を散々痛めつけておいて何が更正だ。やってることは、いじめと同じじゃないか。復讐や社会的制裁なんかより、よっぽど悪質だ。
病室のベッドで不貞腐れる彼女のもとに、これまた知らない男がやって来た。小柄な少年で、自らをカナの遠い親戚だと自称した。
その五分後には小太りのパティシエが三年前にデートの約束をすっぽかしたことを謝りに来た。
その十四分後にはキノコ頭の大学生が宗教の勧誘をしに来た。
その三分後には全身にタトゥーが入ったピンクの髪の女がタバコを渡しに来た。
その一時間後にはユキとタツノリが忘れ物を取りに来た。
たくさんの来訪者との会話の中で分かってきたのは、『私』はとても真面目な性格であるということ。そして病院にいるのは何者かに階段から突き落とされたせいだということ。どちらも全くの間違いだが、彼ら彼女らにとっては否定しようのない事実であるらしい。
知らない。これは『私』じゃない。
精神的に追い詰められ、爪をガリガリ噛み始めた。涎が出ても気にしない。一日餌を与えられていなかった犬のように、一生懸命一生懸命噛み続ける。その後は誰かが来ても返事すらせず、寝たフリで対応するようになり、そして今に至る。
もう、『カナ』を知る者は誰もいない。救護係の男は知っているようだったが、あんなのはどうでも良い。アイツはきっと全てを知っていても、知らないフリを貫き通すだろう。
誰も『カナ』という名前を覚えていないのなら、残された道は『更正』だけ。本当の意味で別人として生きていく、たったそれだけしかない。十六年の人生をなかったことにして、新たな人生を歩まなければならない。そしてそれは、空白の十六年を埋めなければならないということも意味する。それを拒絶して元の性格で生きていくならば、醜悪な肉塊に逆戻りだ。
だが、新たな人生に如何程の価値があるだろうか?
知らない両親、知らない友人、知らない部屋、知らない通学路、知らない学校、知らない生活。そんな環境を我慢してまで歩む人生に何の価値があるだろうか?別人として生きることに、何の価値があるだろうか?
自分の望んでいない人生。自分のものではない人生。いったい誰を演じれば良い?どう振る舞えば良い?大体、真面目な人間が生きてきた人生を、不良が引き継ぐなんて無茶だ。
だけど、そんなことはもう気にしない。『私』は『私』であり、それ以外の誰でもないのだから。誰かに与えられた赤の他人の人生を歩むのなら、それは死んだのと同然だ。
真っ白なベッドの上でそんなことを考えていると、廊下の方から足音が聞こえてきた。また来客か。今度はアメリカ人でも来たのだろうか。
───否、違う。この足音は。この空気の震えは。この鳥肌は。スタスタスタスタスタスタ。聞き覚えがある。身に覚えがある。寒気と吐き気と疼きが同時に襲い来る。子供の頃に観た怪獣映画のような絶望感。五感がサイレンを鳴らし、逃げろ隠れろと好き勝手に命令する。どこに?そもそも、なぜ?なぜそんな臆病者のような真似をしなければいけない?一度負けた相手に二度も負けることなどない。地響きのような鼓動を作り笑いで誤魔化し、拳を握り締める。先ほどはあんなに簡単にもげた指だが、どれだけ強く握ってももげる気配はない。
さっきはほんの一瞬緊張した。でもこれは危機ではなく好機だ。あの女に思い知らせてやるのだ。救う余地など欠片も残らないように徹底的に叩きのめして、式場に直送してやる。
「ユウコさん、元気みたいね。良かったわ。
うちの生徒が酷いことしちゃったみたいで、ごめんなさい。」
ひょこっと病室の入り口から顔を出したのはやはり鈴本麗だった。ああそうだ、今の私はユウコなのだ。奇しくもあいつと同じ名前を授かったのだ。まあ、それもあと数分のことだから、どうだって構わないのだが。
それよりも、麗の言葉から察するに『私』を殺ろうとしたのは鳴海女学園の生徒らしい。誰だろうか。少なくとも『カナ』などという名前でないことだけは確かだ。
「ごめんね、お見舞い買ってくるの忘れちゃって。」
本当に気の弱そうな女だ。だが、蹴ってみて分かった。こいつは鍛えている。まあ、そうでなければ生徒に返り討ちにされて終わりだから当然だ。
だけど、全ての物事には抜け道があり、解決策がある。
「見舞いの品とか、そんなもんいらねーよ。テメェの死に顔さえ拝めりゃ良いンだからな!!」
ユウコは麗の鳩尾に重い一撃を喰らわせた。激痛に悶えながらしゃがみ込む麗。まさか優等生がこんなことをするなんて思ってもみなかっただろう。その読みは確かに正解だ。
『カナ』という女のことを知っていればあるいは防げた一撃かも知れない。だがそんな女はもう存在しない。存在しない女の動きを予測するなんて無茶だ。ユウコは初めて自分がユウコであるという事実に救われた。
しかし同時にムカついた。結局『カナ』を覚えているのは救護班の男だけということになるからだ。あれだけの仕打ちをしておいて、麗は『カナ』を綺麗サッパリ忘れ去っているのだ。
「ビックリした?心拍数上がってンじゃない?もう一発殴って止めてあげよーか、ああ?」
「うげっ、あああ……あ、かはっ。」
嗚咽を撒き散らす麗の背中に、血の雫が落ちる。鼻がちぎれようとしているのだ。構わない。こいつを殺すまで四肢が残っていれば上等。その後なら喜んで死んでやる。クズな大人どもの望み通りに生きてやるつもりなど毛頭ない。
「オラッ、死ね!さっさと死んじまえ!」
踞っている麗の髪を掴んで乱暴に立ち上がらせ、もう一度鳩尾を殴る。拳というより、もはや骨。指の骨で突き刺す感覚。
「ユ……ウコ……さ……ん、どう、して……ッ!」
抵抗しようとする麗の体をがっしり掴んで、ベッドにぶん投げる。ここまで騒がしいと、流石にナースがやって来るかも知れない。その前にカタをつけてやる。本当は苦しめてから殺してやりたいが、贅沢は敵。
「さっさと死ねェァァァ!!」
鼻が落ちた。麗のまな板のような胸の上に。耳も落ちた。眼球も落ちた。視界は左目のみ。指は何とか繋がっている。左の方が先に落ちそうだ。腸がクレーンのようにぶら下がっている。さっさとコイツを仕留めてやろう。絶対に仕留めてやろう。ユウコは犬のように鋭い歯で、麗の細い首筋に噛みついた。途端、口に広がる血の味。麗が悲鳴を上げないように、ちぎれかけの指を麗の口に突っ込む。
「ほれでもふわえへろ。」
必死で足をばたつかせる麗。その首の動脈を噛みちぎろうとするユウコ。武器を持たずとも、人間には歯という凶器がある。だから、誰かを殺そうと思えば、別に素手でも充分だ。もちろん、社会が持つ法律という武器には敵わないが、今の『私』にはもう関係ない。
「ウガアアアッ!!」
ブチブチブチ。やった。ついに噛みちぎった。麗の首から大量の血液が放出され、辺り一面が深紅に染まる。
耳も鼻も目も指も失い、再び醜悪な姿に逆戻りしてしまった。だがこれでもう思い残すことはない。一切の悔いなく死ねる。腸もずり落ちた。もう終わりだ。
「あーあ、やってしまいましたね。」
この声は救護係の男。いつの間に?いや、それよりも何だ?やってしまった?何をバカな。やってやったのだ。勘違いするな、クズ野郎。
「ユウコさん……いや、今はカナさんと呼びましょうか。勘違いしているようなので言っておきますが、あなたはもう死ねませんよ。」
突如告げられた衝撃的な事実。『カナ』は目を見開き、動きを止める。
「カナさん、分かりますよね。あなたはユウコとして生きていくという条件でこの世に繋ぎ止められていただけなんですよ、我々の技術によってね。だから、ユウコであることをやめた今、あなたはもう誰でもないんですよ。誰でもないから死ねないんですよ。
あなたの存在を認知出来るのは我々だけ。まあ、あなたにも分かるように言うなら、そういうことです。
長内議員もろくなこと考えませんよね。このプロジェクトだって我々の存在ありきでしょ。」
呆れたような顔で淡々と語る男の背後で、殺したはずの麗がゆっくりと立ち上がる。ベッドも壁も床も嘘のように真っ白だ。ありえない。まさか、ユウコがいなくなったことでユウコが引き起こした現象までなかったことになったとでも言うのだろうか。
「……あれ、ここは一体……?」
ユウコの見舞いのためにこの病院を訪れた麗だが、肝心のユウコがいなくなったため、病院に来る理由自体を喪失してしまっているようだ。麗は恥ずかしそうに部屋を去った。
「あなたはただの肉塊として、誰にも認識されないまま永遠に生き続ける。そういう運命です。それがあなたの選択なんですよ。
我々だって無意味に人を苦しめたいわけじゃない。ただ、知恵を出してくれなければ助けようがないことだってあるんです。」
どこかの政治家がそんなことを言っていた気がするが、今はどうだって良い。それより、この男をどうにかしてやる。
「ふ……ふらけンらァァァ!」
男に殴りかかるが当たらない。当たったところで、ダメージを受けるのは自分だ。指がなければ殴る意味などない。
「やけくそですか。死ねなくなってしまった鬱憤を私で晴らすつもりですか。でも悪いのはあなたでしょう。
別人として生きていけば、あなた自身も世間からの過剰な制裁を回避出来たでしょうに、残念。
私は忙しいので失礼します。さようなら。」
男は最後に卑しい笑みを浮かべて去っていった。完全な置き去りだ。親も友人もいない無色の世界で、死んだように生きていくしかないのだ。誰も助けてくれないし、誰も見てくれない。
いや、そもそも私は誰だ。この痛みは何だ?親とは?友人とは?
何も分からない。
ダレか助けて。
ダレか。
全てに絶望し、全身が張り裂けるほど絶叫した。