23:対峙
(水無瀬視点)
『なぁ、ヒロ…』
『何?』
『俺さ、必要の無いコドモなのかな…?』
『何で…?』
『だって…母さん、一度だって俺の事名前で呼んでくれたこと無い。』
暫く考えるかのように俯いていたそいつは不意にぱっと顔を上げた。
『シン…!』
『ヒロ?』
『俺が呼ぶ。シンが辛いとき、俺がシンの名前を呼ぶから!』
そして幼い笑顔を向けてそいつはにっこりと笑った。
『だから、笑っててよ。シン!』
『ヒロ…』
ヒロ…
裕之。
辛いとき必ず傍に居てくれた。
俺が逃げ出すまでの間ずっと。
再び出会った今でも、俺に手を伸ばしてくれる。
恐れ、逃げ出し、裏切った俺に。
『お前と一緒に生きてやる。』
昔と変わらず、優しさをくれる。
その優しさが苦しかったんだ。
幸せで、嬉しくて、苦痛だった。
お前に俺の存在は不釣合いすぎて。
霧矢の横は心地良かった。
恐怖はあったけれど、犯され痛む体が逆に安心を与えてくれた。
この痛みこそ自分に相応しいと思った。
汚れて、穢れて、床に這い蹲る姿こそ。
『晋!』
でもそうじゃないと、今なら思えた。
アイツの唇が俺の名前を紡ぎ出すだけで、この穢れが浄化されていくかのような気がした。
そんなアイツと同じ立場へ這い上がるには、新橋霧矢という存在を払拭しなければならない。
指を軽く鳴らし、背伸びをした。
「来やがったか…」
「お前から誘ってくれるなんて、な。」
気配を消しているくせに、刺す様な殺気だけは鋭く俺を射抜く。
振り返れば楽しげに口元を歪めて笑う霧矢がそこに居た。
「なぁ、晋…お前本気で俺に勝てると思ってんのか?」
「やってみねーとわかんねぇよ。」
「変わったな…昔は全てに絶望してて、可愛げがあったのによ。」
足が竦みそうになる。
この殺気は本物。
気を抜けば飲み込まれてしまいそうだ。
「俺が、お前を拾ったのは…お前のその絶望の部分が気に入ったからだ」
霧矢の細く長い指が真っ直ぐ俺の眉間へと向けられる。
途端、体が金縛りにあったかの様に動かなくなった。
全身の力を以ってしても、辛うじて指先が動く程度だ。
「そんな風にお前を変えたのは、アイツか?」
「…っ!」
「何も言わないのは、肯定と一緒だぜ。アイツもこっちに来てんのか?」
霧矢の指先から目が離れない。
不意にその指先が逸らされた。
すると先程までの強張りが嘘かの様に、体がすんなりと動いた。
これが霧矢の能力だろうか…
「へぇ…お前はまだしも、あの弱っちい狩谷まで来てるとはな。白星の基準ってのも良く分からねぇモンだな。」
「おい…」
「人を殴る蹴る出来るような人間じゃねぇもんな、狩谷は。」
「おい!」
声を荒げた俺に、霧矢はゆるりと笑って見せた。
「何で…」
湧き上がる疑問を口にする。
「何でお前が…裕之を知ってんだよ…!!」
何で。
何処で?
掴みかかろうとした俺を軽くかわし、ついでに背中に一発手刀を叩き込んできた。
痛みに一瞬息が詰まる。
倒れこみそうになる身体を右手で支えて体制を整えた。
名前を教えた覚えは無い。
その存在だって曖昧にしか霧矢には伝えていない。
自分の世界と裕之の世界が二度と混じったりし無いように。
霧矢の手が裕之にまで伸びたりしないように、と細心の注意を払っていたはずだ。
「やっぱ気付いてなかったか。俺はお前を拾う前からお前達を知ってる。」
「何で…」
「お前らが通ってた道場。そこに俺も居たんだよ…師範代としてな。」
記憶が蘇る。
余りに自分の知ってる霧矢とはかけ離れていて気がつかなかった。
あの道場に居た師範代といえば一人しか居ない。
長めの黒髪、その間から覗く目は何時も獲物を狙っているかのように酷く鋭かった。
高校生ながら師範代を勤めていた彼に恐怖を覚えたのを子供ながらに覚えている。
そしてその男は俺達が道場を辞めた後、道場主である師範を半殺しにして破門になったという噂を聞いた。
「狩谷よりお前の方が格段に戦闘センスはあった。それは狩谷に無い冷酷さがお前に有ったからだ。」
「……」
「そしてその冷酷さは、お前の孤独と絶望からしか生まれない。つまり今の腑抜けたお前じゃ俺に勝てるわけもない。」
霧矢の言葉が頭を冷やしていく。
「俺がお前に勝てない理由はそれだけか?」
「それだけで、十分じゃねぇ?」
裕之と出会えた事が俺の弱味だと、この男は言う。
「逆だ…」
「何?」
「逆だってんだよ、裕之と会わなきゃ俺の人生終わってた。」
母親という存在である筈の女に、切り付けられたあの日。
俺は本来そこで死ぬ筈だったのだ。
だけどその運命から俺の手を掴み引っ張り上げてくれたのは、他でもない裕之だったから。
心はもう決まっている。
「俺は、裕之と生きる。アンタとじゃない…」
僅かに霧矢の視線がきつくなった。
その視線の冷たさに嫌な汗が背筋を伝う。
「そっか…じゃあ話は早い」
霧矢が構える。
「お前を殺して、終わりだ。」
今まで一度だって勝てた試しがない。
今だって、視線が交わっただけで意識が飛びそうなくらい体はびびってる。
それでも…
「誰がお前なんかに殺されてやるかよ」
「後悔すんなよ…」
「しねぇよ。」
負ける気はしなかった。
だって今俺は独りじゃない。
裕之…
心の中でもう一度名前を呼ぶ。
必ず戻る。
そしたら…
そしたらどうか、俺の名前を呼んでくれ。




