3話 帰る場所(8)
エミリーはぶつける勢いで額をドアに当てて、崩れ落ちそうになるのを何とかこらえた。
「何なの……」
また独り言を言ってしまったが、もはやそれどころではない。
一体イルケトリは何をしに来たのだ。色気とか、胸がなくなるとか、職業柄多くの女性を見ているとはいえ、ただの変態ではないか。体を見抜かれたようで、すごく、ものすごく恥ずかしい。薄着で出て行ってしまったので余計にだ。
(いや、でもはげまそうとしてくれてた、よね?)
ついさっき気遣う言葉を言われた気がする。けれど、頭に置かれた手が、ほんのわずかに頬に触れていった感触を思い出してしまって、胸が強く鳴った。引っぱられるように、昼間の甘いイルケトリの匂いと、きつく触れあった腕と胸も。
(違うから! あれはそういう意味じゃないから! 何もないから!)
体が熱くて、思い返してしまっている自分が嫌で、うめきそうになる。
何でもないと呪文のように何度も呟いて、ようやく抱えていた箱の存在に気付いた。イルケトリのせいで宛名を見るのも忘れていたのだ。
面を変えてのぞきこむと、やはりポーラとラナの名前があった。心の底から待ちわびていた返信だ。恥ずかしさが一瞬で弾ける感情に入れ替わって、エミリーは小走りでベッドに座って箱を開ける。
中にはエミリーの大好きなチョコレートの缶が三つと、宛名にエミリーの名前が書かれた封筒が二組入っていた。分厚いほうの封筒をひっくり返すと、ラナの署名がある。封ろうを砕いて、分厚くたたまれた便せんを開く。
親愛なるエミリーさん
お元気ですか? わたしのこと忘れていませんか?
突然エミリーさんがいなくなってしまって寂しいですが、あの王子様のところで働いているということで、すごくびっくりしています。運命ですね!
毎日綺麗な王子様を見てどうですか? さすがに毎日だと飽きちゃいますか? 感想が聞きたいです。
相変わらずのラナだった。エミリーは自然と笑っていた。数週間で忘れるはずはないし、運命ではないし、イルケトリは目を奪われる容姿だが王子ではない。
続けて、マスカルの近況、また一緒にシャーメリーに行きたいということが可愛らしい字で書かれていた。分厚い手紙を読み終わって、今すぐ返事が書きたくなる。
もうひとつ、ポーラの封筒を開ける。便せんの中央に短く一文が書かれている。
エミリーは息を止めた。感情の波が胸の中に満ちていって、決して嫌ではなくて、こぼれ出そうに揺らめく。
帰る場所がないと思ったら、帰ってきなさい。チョコレートと紅茶を用意するから。
ポーラは何でもはっきり言う人で、派手で、豪快で、さっぱりした女性だった。品物の買い付けで家にいないことも多かったが、夜に時間が合うと、太ると言い合いながらチョコレートをつまんでお茶会をした。
『ずっと女の子がほしかったのよ。うち子どもふたりが男だったから。人手も増えて、夢も叶って、一石二鳥ね』
エミリーは気恥ずかしくて、嬉しくて、けれどなぜか泣きたいような気持ちになった。甘いチョコレートと紅茶の香りが、今もその想いをつなぎ止める。
瞳が濡れそうになった。満ちて、たゆたう感情は柔らかで、激しくて、心地よい。
帰る場所は、ひとつではないのだ。




