3話 帰る場所(5)
人波を歩きながら、エミリーは空がわずかに橙がかってきたことに気付く。ずっと手に提げていた大きな紙袋をのぞくと、丁寧に薄い布で包まれたケープが見えた。
服は生きる意味だ。エミリーは服に救われた。服に生かされているといっても決して大げさではない。それくらい、尊くて、愛おしい。
シャーメリーと出会ったあと、中等学校を卒業した十五歳のとき、エミリーは家出してコムセナへ来た。卒業したら、どうしてもシャーメリーで働きたかった。けれど、伯母と伯父に猛反対された。
「そんな就けるかも分からない職のためにコムセナに行くなんて、だめに決まってるでしょう」
「シャーメリーで働けなくても、シャーメリーのそばで働ければいいの」
「そんなに簡単に働き口が見つかるわけないだろう。紹介もないのに。あったとしてもまともな職じゃない」
必死に訴えても、そんな夢見がちなことは認められないと、言われた。
言われたことは、分かっている。けれど、理屈ではもう抑えられなかった。シャーメリーの服は生きていく意味で、生きていく意味のない人生に、何の意味があるのだろう。だから、エミリーは反発と申し訳なさを胸の中に抱えこんで、鉄道を二日乗り継いで、コムセナへ来た。
言われたとおり、世間はそんなに甘くなく、シャーメリーで働くことはできなかったけれど、縁あってポーラに拾ってもらえた。ラナと会えて、毎日シャーメリーの服を着て、可愛い雑貨に囲まれて、とてもとても恵まれていた。今は、もっと、ずっと、この先も生きていたい。やりたいことがたくさんある。
だから、帰らなくてはいけない。ミス・ドレスに。現実逃避している場合ではない。生きるために、帰らなくてはいけない。少しつらかったからといって、何だ。もう、昔とは違う。愛した服があれば生きていける。それに、今の状況だってとても恵まれているのだ。つい初心を忘れてしまうことをエミリーは反省する。
とにかくイルケトリと合流するために、馬車乗り場へ向かおうと、方向を変えて歩き出す。待っていればいつか会えるだろう。
(あ、でも先に帰っちゃったかな。夜になっても会えなかったらひとりで帰ろう。怒られるだろうなあ……)
けれど人助けで無理やり連れていかれたので、そこは考慮してほしいと思った。
エミリーは人波から抜けて脇道へ入った。こちらを通ったほうが馬車乗り場に近い。コムセナの道は考え事をしながらでも歩けるくらい把握している。
脇道は飲食店の裏口や倉庫が並んでいて、あまり人が通らない。大通りとは別世界のように誰もいない道を進んでいく。夕方なので少し不安になったが、まだ暗くはないし大丈夫だろう。
そう思った瞬間、靴音が聞こえた気がした。小さな靴音が駆ける速度で大きくなっていき、とうとうはっきりと背後に迫り来る。
(不審者? 何?)
背筋が冷える。反射的に駆け出そうとして振り返ったのと、腕を強く後ろに引かれたのは同時だった。
「待ってくれ!」
エミリーはよろけてバランスを崩す。傾いた視界の中に、イルケトリの必死な顔があった。地面に倒れこむ前に、腰を捕えられて、強く抱きしめられた。
紙袋が少し離れた場所に落ちる音がした。イルケトリの切れた息の音が耳元で繰り返される。呆然と思考が止まるなか、イルケトリの香りと混ざり合ったあの甘い香りが匂い立って、腰と背中にきつく回された腕が急に質量を持つ。
抱きしめられている。
沸騰するように体が、頬が熱くなった。つきとばそうと動きかけた瞬間、切れぎれの息の中に、聞こえる。
「よかっ、た……間に合って……」
聞いたこともない、泣き出しそうな震えた声だった。置き去りにされた子どもが母を見つけたときのような。戸惑いが広がって、体から熱が引いていく。
抵抗せずされるがままになっていたら、抱きしめていた腕が緩んだ。首元からイルケトリが顔を上げて、見つめられる。憂いと、わずかに残った必死さを混ぜ合わせた表情に、鼓動が跳ねる。エメラルドの虹彩の模様が分かるほど、近い。
せっかく引いた熱がまた顔まで上ってきたとき、露骨に目をそらされた。
「お前……荷物は?」
エミリーはまばたく。
「はい?」
イルケトリはエミリーの疑問符には答えず、腕を解くと紙袋に歩み寄って、持ち上げて中身を確認した。
振り返って、何やら気まずそうな表情で、顔をそらす。
「心配してたのはお前じゃない。荷物だ」
「いやちょっと待って! 違うでしょいろいろ!」
エミリーは思わず声の限りつっこんでいた。けれど、そのまま力が抜けそうになる。本心なのか、うそなのか、抱きしめたことはまったく謝らないのか、謝るほどのことでもないのか、もはや訳が分からない。
「その……抱きしめたのはあのままだとお前が転ぶと思ったからだ。腕だけ引っぱると腕が抜けそうだったから、ああするしかなかった。すまない」
(すごくあっさりした理由! でも理にかなってる!)
それなら最初からそう言ってくれればいいのだ。けれど心の中で気持ちが少しずれているような気がして、困惑する。もしかして、ほかの答えを期待していたのだろうか。一体イルケトリに何を期待するというのだ。そう思ったところで、かき消される。
「何ではぐれた?」
真剣な表情のイルケトリを見上げて、エミリーは眉間に力を入れる。
「わざとはぐれたんじゃない。道を聞かれて、無理やり引っぱられて」
「どんな奴だ?」
イルケトリが張りつめた様子で遮ってきて、少年に引っぱられたときに力を抜いてしまった罪悪感が戸惑いに塗り潰される。
「ええと、男の人で、でも女の子みたいで、裕福そうな感じの人だったけど」
「髪と目の色は?」
「髪は黒で、目は紫」
紫の瞳はとても珍しい。あんなにはっきりとしたスミレ色ならなおさらだ。
イルケトリは信じられないものを見たような顔をして、目をそらした。何か考えこんでいるのか、口を開かない。
「ねえ、何かあるの?」
そのとき、駆けてくる靴音とともに、脇道の角から荷物を持ったヒフミが姿を見せた。イルケトリは駆けてくるヒフミに目を向ける。エミリーも追及するタイミングを失って口をつぐむ。
イルケトリは、何かを隠している。今の少年に対しての反応もおかしいし、誰に連れていかれたのかと尋ねる様子も切羽つまっていた。何より、抱きしめられたとき、震えた声で言われた言葉の意味が理解できない。あれは何だったのだろう。
イルケトリのことが、よく分からない。優しいのか、冷たいのか、何を考えているのか。




