3話 帰る場所(4)
少年は黒のトップハットにステッキを持っていて、あきらかに中流上位階級以上だった。
体にぴったりと合った黒い上着、チャコールグレーのネクタイ、ワインレッドのウエストコートにネクタイと同色のズボン、白い手袋。上着の襟元にガーネットのブローチがついている。トップハットの下の黒髪はくせがあるのか緩くところどころ跳ねていた。
輪郭は柔らかく、服装から少年だと分かっただけで、少女といわれても納得してしまう顔立ちだ。十五、六歳くらいだろうか。
少年が尋ねてきた公園はコムセナの端のほうだったので、エミリーは一緒に行くことにした。遠くて口で説明するのは難しかったからだ。ほんの少しだけ、ひとけのないところに連れていかれたらどうしよう、と不安がよぎったが、すぐに大通りに出たので考えすぎだった。
「コムセナは詳しいんですか?」
大通りの人波を並んで歩きながら、少年が目を合わせてくる。少年か、少女か、どちらともとれる顔立ちとはいえ、目線はエミリーより高い。
「そうですね。よく来てるので」
コムセナはエミリーにとって庭のようなもので、大通りはもちろん脇道まで把握している。
「今日はお買い物ですか?」
「ええと……はい」
本当は買い出しの手伝いだから仕事なのだろうが、シャーメリーに行ったので胸を張って仕事とは言えない。
「あなたは今日は何をしに?」
「散歩です」
少年は目を細める。それだけなのにどこか官能的な趣がある。瞳の色のせいだろうか。それとも、高くもなく低くもない、弦楽器を弾くような声のせいだろうか。エミリーはぎこちなく視線をそらす。
十五分ほど歩いて、公園の入口にたどりついた。少年は身を翻して、エミリーと向き合う。
「ありがとうございます。楽しかったです。では」
少年は微笑んで、公園の木々の奥へ消えていった。
不思議な少年だったが、無事送り届けられて安心した。エミリーは何とはなしに人波に乗って、歩き出す。
本当はイルケトリと合流しないといけないのだろう。けれど緩慢に、流されるがまま、体が動かない。少年に腕を引かれたとき、力を抜いてしまったことを思い出す。
ミス・ドレスにエミリーの居場所はない。だから、本当は帰りたくない。
帰る場所がないというのは、つらいことだ。
記憶をたどると、家族三人で出かけた思い出が浮かぶ。けれど年齢を重ねるにつれ、エミリーは父のことが好きではなくなっていった。話しても話しても言葉が通じず、エミリーと母に暴力のような言葉を浴びせてきたからだ。なぜ通じないのか分からなかった。そのうち、エミリーも母も言い返すのをやめた。すり減るのは自分のほうだからだ。
父はいつも酒を飲んでいた。働いてはいたが、何をしているのか子どものエミリーにはよく分からなかった。
家の中はずっと押さえつけられているような、いつも空気が足りないような、安心できないもので満たされていた。
父はなんでも怒鳴った。食器を洗う音がうるさい、大きな声で騒ぐな、頼み事を断るな。母が出しっぱなしだったものでも、散らかすなと怒鳴られて、門限をすぎていないのに家の鍵をかけられたこともある。常に父の顔色をうかがって、何をするにも細心の注意を払わなければならなかった。
いつ自分を傷付けることが起きるか分からない。エミリーは外にいた。けれど外で遊ぶのもあまり好きではなくて、本当は家の中で遊んでいたかった。
いつしか、エミリーは母のことも心から好きだと思えなくなった。母がなぜ父と結婚したのか分からなかったし、結婚していなければエミリーはこんな思いをすることはなかったと思うようになっていた。エミリーという存在は生まれてこられなくても、こんな家族になるくらいなら違う家族になっていたほうがよかったのではないかと思った。
そうして十二歳のとき、火事で家が焼けて、エミリーだけが残った。
エミリーは子どものいなかった父方の伯母の家へ引き取られた。伯母の家は中流階級だったので、中等学校に通わせてもらえた。今まで住んでいたところとは違い田舎で、慣れない土地の学校だったが、何人か友達もできた。
けれどあるとき、言葉のイントネーションが変だとからかわれて、エミリーは口を開くのをためらうようになった。友達が、からかった女子にエミリーが嫌がっていると伝えたことが、きっかけになった。
「何で自分で言わないの? 腹立つ」
エミリーは喋ることが怖くなった。
自分の態度は、相手の態度と鏡合わせなのかもしれない。いつの間にか、エミリーのまわりには誰もいなくなっていた。エミリーは休み時間になると、逃げるように少し遠くの階段や廊下で時間を潰した。
けれど、とうとう、教室を出る前、耳に入ってしまった。
「朝とか会ってあいさつもしないのって、意味分かんないよね。何考えてんのかな、気持ち悪い」
最初にからかってきた女子でも、以前喋っていた子でもなく、ほとんど喋ったことのない女子が、蔑んだ笑みを浮かべてエミリーを横目で見ていた。
お互い、どんな人なのかも知らないほどの関係なのに。そんな関係の人でさえ、エミリーを嫌っているのだと、知ってしまった。
日々が、楽しいことよりつらいことのほうで多く塗り潰される。伯母につらいことをもらしてみたが、嫌なことは言い返せばいいでしょうという言葉が返ってきた。
つらい気持ちしかない日々に、何の意味があるのだろう。エミリーは何のために生きているのか分からなくなってきた。そして、生きる意味がなくなると、死んでも構わないと思うことを知った。けれど自ら命を絶つ勇気はなくて、馬車がはねてくれればいい、といつも思っていた。喜びも楽しさも感じなくなっていいから、このつらさを、感情を全部消してほしいと願っていた。
そして十四歳のとき、エミリーは伯母とコムセナへ旅行にやって来た。そこで偶然シャーメリーの店の前を通り、ガラス窓に飾られていた真紅のドレスを見て、心が動いた。可愛いと思った。着てみたいと思った。何かをしたいと思うことが、いつ以来だろうと思った。
ドレスを試着してみたが、自分でも分かるほど、似合っていなかった。可愛い服に自分がまったくつり合っていない。努力しないと、この服は着られないのだ。それでもほしいと、諦められず昔から貯めていたおこづかいで買おうとしたら、伯母が買ってくれた。
家に戻ってから、伯母がエミリーの母の形見だと言って、ドレスと同じ真紅の布を出してくれた。エミリーはドレスに合わせて、初めてリボンのコームを作った。ドレスを着て、鏡の前で髪にリボンをさした。
鏡に映った姿は、理想とは程遠い。けれど、この服を着るために生きようと、思った。初めて作ったウサギのマスコットを外に落としてきてしまって、必死に捜し回って、とうとう見つけたときの気持ちに似ていた。大切で、大切で、泣きそうな。
努力して、この可愛い服につり合う自分になるために、生きよう。
それが、エミリーの生きる意味だ。




