3話 帰る場所(3)
エミリーは店の出口でケープの入った紙袋を受け取った。ミーシャに手を振って、振り返る。恐怖の瞬間だった。
エミリーにしては最速記録の四十五分で泣く泣く買い物を切り上げ、赤いケープだけ買って出てきたのだが、四十五分も待たされたほうは当然、嫌だろう。
シャーメリーの外から少し離れたベンチに、イルケトリとヒフミが座っているのが見えた。エミリーは覚悟して、ベンチに駆け寄る。
「ご、ごめんなさい。お待たせしました」
ヒフミは特に表情を変えない。イルケトリはやや呆れた目を向けてきたが、そのまま立ち上がる。
「帰るぞ」
文句を言われなかったことが逆に不気味で、エミリーはイルケトリとヒフミのあとについていく。抱えていた紙袋はコートと一緒に大きな紙の手提げにまとめてもらったので、もう前が見えないことはない。
「ご、ごめんなさい。次はもうちょっと早くします」
「分かってるならいい。そんなにあの店が好きなのか?」
大通りへ向かう道を歩きながら、イルケトリが振り返る。
「好き! 命と同じくらい!」
本当はもっとゆっくり見て、ゆっくり悩んで買い物したかった。
「既製服はサイズも合わないし、誰かと同じになるのにか?」
イルケトリの言い分はなるほど階級が高い人のものだった。庶民は注文服を作りたくても作れないから安価な既製服を着ているのだ。
けれどエミリーはシャーメリーの服を仕方なく着ているのではない。
「たしかにそうなんだけど、でもシャーメリーの服はそういうのじゃなくて、好きなの。作った人の心がこめられてるっていうか」
「機械縫いの量産品に心がこもるのか? 俺は注文服が既製服にまさるのはその服にこめられた気持ちだと思ってる」
イルケトリの表情は真剣だった。
イルケトリは注文服屋だ。そういう信念があるのだろう。そして大抵の人はイルケトリのほうに賛同するだろう。けれどエミリーが大好きなシャーメリーの服には、たしかに心がこもっている。だから、頷けない。
「シャーメリーの服には心がこもってるよ。だって、分かるから。ボタンに文字を入れたりとか、服に合わせたレースの柄とか、綺麗にタックをとって広がるスカートとか、どうやったら可愛いかなって、着る人が可愛いって、この服をお気に入りにして大切にしてくれるかなって、一生懸命考えて作ってるのが分かるの。機械で縫ったとしてもそれは消えないよ。だってあたしはそうやって作られた服が大好きで、生きていく意味だから」
エミリーは懸命に、イルケトリの目を見つめた。
けれど、イルケトリはわずかに眉をひそめる。
「それでも、注文服にまさるとは思えない」
初めて、エミリーはイルケトリの言葉に反発を覚えた。
エミリーは立ち止まった。イルケトリとヒフミも気付いたように足を止めて、振り返る。
「何で勝ち負けで考えるの? 既製服とか注文服とか関係なく、好きな服が好きじゃだめなの? そんな考えの人が作った服なら、注文服でもあたしは着たくない。どんなにサイズがぴったりでも、豪華で綺麗でも、着たくない」
イルケトリは感情の読み取れない目でエミリーを見ていた。何を考えているのか、分からない。
それでも、エミリーは強くイルケトリと目を合わせる。
「素人が口答えするなって思うかもしれないけど、これだけは、どうしても譲れない」
イルケトリは何も言わなかった。体を翻して、歩き出す。石畳を打つ靴音のあとを、エミリーは鈍い足取りでついていくしかなかった。
また、大通りの人波に流されるように、ふたりの後ろを歩いていく。もう用事はすべて済んだはずだから、馬車乗り場に向かうのだろう。
イルケトリには、エミリーの気持ちは通じなかったのだろう。注文服屋のオーナーと、既製服しか買えない庶民では立場が違う。当たり前だ。エミリーだけが、ミス・ドレスになじむことのできない異質な存在なのだから。
人波の流れが変わって、エミリーの前に人が入りこんできた。ふたりとの距離があいてしまう。
まずいと思って人をかき分けようとしたとき、後ろから声をかけられて、振り返った。
「失礼。お嬢さん」
トップハットをかぶった、一見しただけで身なりのいい少年がいた。
「道を伺いたいのですが……ああ、ここだと難しそうですね」
人波の真ん中で立ち止まっているエミリーと少年を、後ろから来た人々が迷惑そうに振り返っていく。
「あの、ごめんなさい、あたし行かないと」
「こっちへ」
少年は聞こえていないのか、エミリーの腕を取って道の端へ歩き始めた。
「ちょっと待って、困ります」
慌てて人波の前方にイルケトリとヒフミの姿を捜す。けれど、それらしい後ろ姿がどこにもない。
「どこかへ向かう途中でした?」
少年が瞳を向けてくる。はっきりとした紫の、とても珍しい色をした瞳だ。触れてはいけないスミレのような。
帰らないといけない。はぐれるわけにはいかない。
(ああ、でも)
このままはぐれても気付かれないのだろうなと、思ってしまった。
うそのように、抵抗していた力が抜けた。エミリーは少年に導かれるがまま、脇道へと足を踏み入れていった。




