第0話 運命の夜
薄暗い森の中。その森を突っ切るように延びた街道を、一人の少女が歩いて行く。日は直に沈みやがては闇に飲み込まれ行く、そんな時分。
太陽が沈み闇が広がれば、そこはもう人の領域ではなくなる。日中であったなら、視界も利くし、獣の活動も緩やかだ。
しかし、夜となればそうはいかない。腹を空かせた野獣たちが獲物を求めて彷徨う時間となる。
そして、そんな時間がやがて訪れる、そんな時でも、その少女は辺りを気にする様子も無く一人歩く。
少女が歩いたその後を、あるいはその横を、もしくは彼女の正面で待ち受ける獣達が現われた。獣たちは少女に気づかれないように忍び寄り、飛び掛かる隙を窺っている。
そして、獣たちは申し合わせたように、一斉に少女に襲い掛かった。しかしその瞬間飛び掛かったはずの獣たちは、いつの間にかとらわれる立場となっていた。少女の体から伸びた触手によって。
突然体に巻きつけられた、狼のような獣たちは絡め取られて宙吊りにされたままもがき続けているが、少女の触手はもがくほどに絡みつき、解けることは無い。
「……また灰色狼……いい加減飽きたよ……」
捕らえた獲物を見て、少女はうんざりしたようにため息をつきながら、自身の収穫に不満を漏らす。
「魔獣が増えている? でも、どうせならもっと違うのも食べたい。ま、どうでもいいか。ごはんごはん。」
触手で捕まえた獲物に向けられた少女の視線は、既に森で闊歩している恐怖の象徴に対するものではなく、自身の糧となる食材に向けられるものとなっている。
少女は触手を手元に寄せ、未だ暴れる狼達に手を添える。すると、少女の右手が液状化し、狼達を覆っていく。
「貴方達の肉はおいしくないの。だから、粘液さんに食べてもらうね。」
そういって狼の体を覆い尽くす少女。粘液に覆われた狼は悲鳴を上げて抵抗をするが、少女の拘束からは逃れられない。しばらくすると狼は徐々に溶かされ、やがて骨も残さずに消滅していった。
「ご馳走様。さて、今夜は何が食べられるかな?」
誰に言うでもなく、少女は呟くとその場を後にする。森の更なる深部を目指して。
――――――――
世界は滅亡の危機に瀕していた。
魔界。凡そ数十年ほど前に突如として現れた異世界。アルトレリア王国の北部の国境に出現した。その境界部からは濃度の高い魔力が流出し、周辺の環境を大きく変えてしまった。魔力の影響で農地は壊滅し、周辺住民はみな発狂。さらに、各地では通常とは異なる通称魔獣と呼ばれる獣達が出現し、各地で混乱が起きていた。新たに現われた異世界の調査のために王国は幾度と無く調査の為の人員が送り込まれたが、帰ってくるものは誰一人いなかった。しばらくした後に、今度は異世界から魔獣を引き連れた異形の軍勢が姿をあらわし、アルトレリア王国を含む、複数の周辺国に侵攻。これを抑えるために各国で小競り合いが続いていた。
戦費の増加という問題こそあったものの、それでも小競り合いで済んでいる内はまだ平和だったのだが、ここ数年で経済の悪化に伴い各地で混乱が起こるようになってきたのである。長引く戦に物資や兵士の損耗、国力も低下し、王国はいよいよ危機的状況に陥いっているのだ。そしていつしか、その高濃度の魔力を『瘴気』、境界の向こう側の世界を『魔界』、そしてその軍勢を迎え撃つ為に構築された陣地と戦場を『戦線』と呼ぶようになる。そして、その魔界の軍勢を率いている長を、便宜上『魔王』と呼称し、『魔界』未知の軍勢を魔王軍としている。
魔界の軍勢はここにきて勢いを増し、魔界の境界もまた僅かながら迫ってきていることもわかった。瘴気も徐々に国内に届くようになってきており、その余波で国内でも騒乱が起こるようになってきた。このような一連の騒乱をこれ以上を起さないように、王国内では情報規制が敷かれ、現在はあまり市井の人々にはあまり危機感を抱かせない施策がとられている。そのため辺境部に向うにしたがって混乱は少なくなっていた。
しかし、この場の空気はそんな人々の心中とは異なる、緊迫し張り詰めたものが流れていた。円状に作られたテーブルに着く、身なりの良い人物が7人。皆、誰もが国に於ける重要な立ち位置にいる者ばかりだ。そんな人間が一同に集められた、そんな一室で一つの会議が開かれている。
「……あの預言者の言葉は信じるに値するのか? 選ばれた勇者は既に旅に出たのではなかったか?」
そのうちの一人が、部屋に居る者達に問いかけるように口を開く。
「だが、あの預言者の予言は何度もこの王国を救ってきた。それを無視することは難しい。」
「なによりアレは国王陛下のお気に入りだ。今回はいくら議会といえども、陛下の決定を覆すことは難しいかもしれん。」
他の人間たちは、最初の言葉を否定するように言葉を続ける。その雰囲気は決して明るくは無い。
「だが、かの勇者を選び抜き送り出した我らにも面子がある。預言だかなんだかしらないが、どこの馬の骨ともわからん者を新たに選ぶなどと……」
「言葉を慎め。此処は我らだけが集まる議場ではあるが、いまは議会の最中であるぞ。」
ここに集まる皆の意見は一致している。
「かの勇者にはそのまま、当初の目的どおりに動かせば良い。つまりこれから現れる者をどう対処するか。」
その落としどころが決まらないまま、ただ時間は無為に流れ議会は進むに任されている。
「『世界を救うに足る勇者現われ、仲間とともに旅立ちて、やがて世界を救うだろう』か。預言者め。この期に及んで厄介な予言を進言するなど。」
新たに口を開いた男の言う予言。これが今此処に集まる男達、評議員達の頭を悩ませている原因であった。
およそ数ヶ月ほど前、一人の男が勇者として名乗りを上げ、この王都に現われた。その男を推薦してきたのは辺境の伯爵だったが、その男は勇者の証たる聖剣を携えていた。その男は王都の貴族や議員たちの後押しで勇者として祭り上げられ、王国に残っていたなけなしの騎士達とともに戦線へと旅立っていったのである。
しかし、此処にきて王城に仕える一人の預言者がとある予言を国王へと伝えたのだった。
『世界を救うに足る勇者現われ、仲間とともに旅立ちて、やがて世界を救うだろう』という、先の勇者を送り出した国の意思をひっくり返すような予言を。
お陰で勇者誕生の祭典で盛り上がっていた王都や、それを推し進めた評議会は面子をつぶされたとして、今も苦虫を噛み潰したような顔でこうして議会を続けているのである。特に、その勇者を推薦した伯爵など良い面の皮だ。勇者が二人、ならばまだ特に問題は無いが、どちらが本物でどちらかが偽物、などという風評が流れては、政敵にしてみれば絶好の攻撃機会になってしまう。預言者側でも新たな派閥が出来かねない。なので議会の意思としては、新たな勇者の誕生などなんとしてでも阻止したいのである。
「……私は認めんぞ。あんな胡散臭い預言者の言葉なぞ……」
密室で開かれる議会。この日も内容は進むことなく、大した収穫も無いままに閉幕となった。
――――――――
世界は滅亡の危機に瀕している。しかし、それは辺境の開拓村で生きている少女、アシュリーにとってはまるで関係の無いことだった。
その時の少女にとって最も気にしなければならなかったのは、いかにして意地悪な叔母一家の機嫌を損ねないように日々の糧を得るか、という一点だけである。
アシュリーは、まだ国内が安定していた頃にとある商家の娘として生を受け、何不自由無くとまでは行かないまでも、それなりの生活を送っていた。
しかし、そんな生活も国内の混乱に伴ってあっさりと終わりを告げた。永らく続いた争いが人々の不安を煽り、やがて彼女達が住んでいた都市部にも大きな混乱が訪れたのだ。
アシュリーの家は、暴動のどさくさ紛れに火を放たれて焼け落ちた。その騒動のさなかに両親も死亡。遺されたのはアシュリーとその兄と姉。寄る辺の無かったアシュリー達は開拓地に移り住んだ叔母一家を頼りに身を寄せることになる。
しかし、その叔母がこれまた最悪だった。元々アシュリーたちの父親と不仲であった叔母は、その子供たちである子供達に対しても辛辣だったからだ。
自身の子供には愛情を注ぐが、アシュリー達には満足な衣食住すら与えない。寝所は納屋、衣類は使い古された襤褸着、食事も最低限と言う環境で、日中は開拓の為の農作業、夜間は内職と朝な夕なと働かされる日々が続く。
子供であっても立派な働き手。それを最低限の世話だけでひたすら働かせれば、その分だけ家計に余裕は出る。その余裕は叔母夫婦とその息子にだけ回され、アシュリー達はまるで奴隷のような扱いの中で暮らしていた。
そんな中、極貧の生活にもやがて変化が現れる。それは少女の兄が15になった頃だった。開拓村には胡散臭い行商人の男が現通っていたのだが、その日は収穫物や製作物を手に取り値踏みしていくと、最後にアシュリーの兄を見た。そしてアシュリーの叔母と何かしら交渉し、それが終わると、男は荷物と一緒に兄も連れていった。その時の叔母の手に、いつもよりも多い金子が握らされていたのを見たアシュリーは、その時兄が売られたのだと言うことを理解した。
更に翌年、今度は姉が15になった。兄の時と同じく、胡散臭い行商人が値踏みし、叔母と交渉。そして連れていかれた。叔母の手にはやはり多目の金子があったが、今回は叔母は金額に納得が行かない様子だった。
そして、姉が売られてから2年、ついにアシュリーも15になった。次はいよいよわたしの番なのか、と彼女は覚悟も決めた。姉が売られるまでに村の男達から受けていた仕打ちを、彼女は目の当たりにしてきたので覚悟自体はずっと前から出来ていた。
結果として、アシュリーは、姉よりも若干上乗せされた値がつけられ、いつもの胡散臭い商人に売られることになった。アシュリーの叔母はしきりに生娘であることを強調して値を吊り上げていたが、彼女は自身の価格に興味は無い。言われるままに、商品の証である首輪を付けられ、荷馬車に詰まれると手足に枷もはめられる。
なおも白熱した交渉を重ねる二人を見ながら、アシュリーは一人、檻の中で村から出られることに安堵し、自由を夢見て馬車の幌の隙間から空を仰いだのだった。
――――――
わたしを乗せた馬車は、開拓村を出て、森の中の街道を進んでいく。馬車には御者を務める胡散臭い商人、その周囲を護衛の傭兵達が囲むようにして徒歩で付き従っている。
村を出てから何日かが経ち、この狭苦しい幌馬車の一角に詰め込まれたままの旅にも何とか慣れてきた。周りの傭兵たちはその長旅ももうじき終わるのだと口々に言いながらも浮かれ始めている。漏れ聞こえてきた情報を統合するなら、歩兵に合わせれば凡そ2日程の位置なのだとか。わたしはまだ見ぬ王都にどのような世界があるのかと心が躍った。もっとも、王都に着いたらわたしは奴隷にされるのだから、当分は自由など無いだろうけど。
わたしの首には売り物である証拠である首輪が付けられたままである。奴隷になるという運命は変えられないだろう。
商隊と傭兵の一行はやがて森を抜けると、見通しの良い草原へとたどり着いた。どうやら、そこで一夜を明かすらしく、皆いそいそと野営の支度を始める。
日も暮れた頃、野営地の真ん中では火が焚かれ、それに伴って食べ物の匂いも漂ってきた。そしてしばらくした頃、傭兵の一人が椀に入った食事を入れてくれた。見慣れた胡散臭い商人ではなく、馬車の横を随伴していた傭兵の青年だった。
「旅の途中だもんで、こんな粗末なもので悪いが食べてくれ。」
運ばれた料理は、水から煮込んで作られた干し肉のスープにオートミールを加えたものと、キャベツのピクルスが添えられた物だった。長旅では保存性や携行性の都合で簡素なものになりがちなのだが、わたしにとっては何よりにも代え難い内容だった。味はお世辞にもいいとは言えないようで、馬車の外では相変わらずうんざりした様な話し声が聞こえている。この旅ですっかりお馴染みとなったそんな粗末な食事は、わたしにとっては何よりのご馳走だった。。火の通った食事なんて旅に出るまで何ヶ月も食べた記憶が無い。塩漬け酢漬けとはいえ、肉も野菜もある食事に喉が鳴るのがわかる。わたしは料理の濃い味付けも気にせず一気に食べきった。
空腹が満たされると心に余裕も出てきたのか、身体を伸ばして寝そべる。ここ数年ではまず味わうことの無かった贅沢を満喫しているような気がする。あの叔母一家に引き取られてからというもの、食事は生の芋や葉野菜が殆どで、食後もすぐに内職をやらされていた。兄が売られた後は高く売れるようにと多少の改善がされたが、今までの食事の量が増えただけ。生の芋と屑野菜である。たまのご馳走といえば。時々やらされていた家畜の堵殺と解体で出た臓物や血くらいだろうか。こうでもしないと命の危機だったということもあるが、満足に処理されていない臓物や血などは好き好んで食べるようなものではないとだけ言っておく。
そんなわたしの様子を、料理を持ってきてくれた傭兵の男はあきれた顔をして眺めていたが、関係ない。わたしがいる馬車の荷台は、半分以上が道中で仕入れてきた商品で埋め尽くされており、わたしはそこから出られない。食事を摂ってしまえば後はやることなどあるはずも無く、日が沈んだら寝るしかないのだ。
こうして横になって寝られる、満足な食事ももらえる、仕事もしばらくはない、そんな束の間の安息を教授するように、やがてわたしは眠りに落ちていった。
――――――――
「……ん? 何?」
真っ暗な馬車の荷台の中、月明かりが差し込み、わたしは目を覚ました。仕切り布を誰かが空けたようだ。何かあったのかと身を起して目を凝らすと、不意に口をふさがれた。
「……静かに。声を立てるなよ?」
深夜の来訪者はわたしの口を片手でふさぎながら、もう片方の手でわたしの腕を押さえつける。月明かりは逆光になっている為、その顔は良く見えない。しかし、こんな夜更けに現われる来訪者の目的など、考えるまでも無い。わたしはその意図を察して口を手で塞がれたまま声を出して叫んだ。
「騒ぐな……! いい加減我慢の限界でな……なぁに、お互いちょっと気持ちよくなろうってだけなんだからよ。大人しくしときゃすぐに終わるって。それとも、もっと大勢呼んで欲しいってか?」
騒げばもっと集まるぞと脅され、おとなしく黙る。仕方なく抵抗せずに力を抜き、男に身を任せた。どうやら男は商隊の護衛のようだった。商品に手をつけてお楽しみといきたいらしい。
男はわたしを組み伏せたまま、半端に服を捲し上げ、肌をさらさせる。
「へへ、傷物にはすんなって言われてるからよぅ。代わりにこっちを頂いてやるよ。初物なんだってな? しっかり楽しませてもらうぜ……」
下卑たにやけ顔をにらみつけながらも、わたし半ばあきらめて男に従う。
――――――――
護衛の男が少女と荷馬車を離れたころ、近くの茂みで商隊を窺う影があった。もしもこのとき、護衛の男が野営地を離れなければ、行商隊を取り仕切る胡散臭い承認の男が商品である少女へのお手付きを許さなかったら、あるいは少女が荷馬車で抵抗していれば。その後の結末に若干の変化があったかもしれない。もっとも、この惨劇は防げていたかは定かではないかもしれないが。
それは突如起こった。本来なら上役が見張りをしているはずの場所を、急遽叩き起こされ見張りを替わらされた若手の傭兵が不機嫌そうにあたりを見回っているときだった。
「……ったく、糞隊長め。自分ばっかりいい思いしやがって。」
起されたときは野獣か夜盗でも出たかと身構えたが、起こしに来た隊長の顔を見てそれは無いと判断した。何のことはない。見張りを自分に押し付けて、本人はお楽しみというわけだ。お零れでもあればそんな急な交代でも我慢できるが、そんな殊勝な性質でもないことくらい、この若手の傭兵にもわかっている。もっとも、先に相手をした奴等に散々汚された後で回ってきたところで嬉しくも何とも無いのだが。
「大体、こんな見通しのいいところで何を見張れってんだよ。」
火の傍で草原の遥か遠くを見晴す若者。夜は更けているが、月明かりが辺りを照らしていることもあり、この日はかなり遠くまで見張らせた。振り返って後ろを見れば日中抜けてきた森が見える。
「どうせヤるなら、焚き火の傍で皆でヤればいいものを……」
こっそりと荷馬車へと入り込む上役の様子を見て、他の連中にわけてやるつもりはないことがこの若者にもわかる。
「これじゃ、お零れは無しか……っと?」
ふと何かが動いた気がして、再び草原のほうへと目をやる。松明をかざし、より遠くを見晴らせるよう構えた。
「……ありゃ……狼か?」
まだ距離があり、シルエットくらいしかわからないが、そこにはゆっくりと歩む狼らしき影。
「一頭だけってことははぐれか。少し様子見で近づいてきたら射掛けるか。」
どうすべきか一人つぶやくと松明を立て、弓を構える。
本来狼というのは群れを成す獣である。それが一頭だけで行動している場合、離れたところに群れがいるか、この若者が言うようにはぐれかのどちらかである。そして本来なら、いるかもしれない群れを警戒して他の人員にも声を掛けるべきだったのだが。しかし、ここしばらくの旅の中で野獣や夜盗などが出たことなど唯の一度も無かった。このことがこの青年を油断させていたのである。
「アレくらいなら何とでもなるさ。なにより、隊長さんが誰も起すなって言ってたしな。」
弓に矢を番え、弦を引かずに狙いを定める。まだ遠い、早く早く、もっと近くへ、そんな風に狼を見張る。そしてしばらくすると狼は歩みを止めこちらを向いた。その瞬間。
「……え?」
傭兵の若者は地面に臥していた。なにが起きたのか。目の前には灰銀の毛皮。そして、左肩には焼けるような痛み。
「う……うわぁぁぁぁぁぁ……!」
その若者は既に捕食されていた。草原の遥か遠く、弓の射程よりさらに離れた、その先から。その狼は一足飛びで彼めがけて飛び掛ったのだ。
「何事だ!?」
「おい、なんだありゃ!?」
「狼……なのか?」
若者の悲鳴を聞いて、天幕から他の傭兵や商人たちが次々と出てくると、そこには異様な光景が広がっていた。狼、というには余りに大きすぎる、灰銀の毛皮を纏った獣に一同はたじろぐ。そして、その隙をこの獣は見逃さない。
「ぐあっ……!」
若い傭兵の上から一瞬で、今度は商人の一人に飛び掛っていた。飛び掛られた当人も、周囲で身構えていた者達も何が起こったのかその瞬間にはわからなかった。そして、何が起こっているのかを認識できたものから一斉に逃げ出す。まさに蜘蛛の子を散らすといった様相で、辺りにバラバラに逃げ惑う人々。こうなると、この狼にとってはもはやそれは獲物ですらない。一人一人確実に仕留めていくだけである。
「畜生! よくも!」
何とか最初の惨劇の場から逃げおおせた傭兵の一人が槍を構えて狼へと立ち向かう。しかし、この狼にとって、その程度の武装は脅威にはならない。放たれた突きを難なく躱すと、お返しとばかりに喉元へと食いつき、その首を噛み千切った。
狼は一通り辺りの人々を噛み殺すと、今度は一台の馬車へと目を向ける。狼の鼻と耳はそこにも獲物がいる事がわかると、最初の一撃の様に一気に飛び掛った。
――――――――
「な……なんなんだありゃ……」
娘の僅かばかりの抵抗を抑え込み、ようやく組み伏せたところで、今度は野営地から悲鳴が上がった。全く、さあこれからというときに何だって言うんだ。
傭兵の男はそんなことを考えながら顔を上げた。そして幌の隙間から見えた外の光景に、傭兵の男は戦慄した。外では、今まさに自身率いる傭兵隊が、たった一頭の狼に蹂躙されているところだったのだ。
「まさかあれは……魔獣?……何でこんなところに……?」
男は外で暴れまわる巨大な灰色の狼に覚えがあった。それは男が『戦線』周辺にいたという、別の傭兵から聞いた話だった。『戦線』から這い出てた、尋常ならざる獣達の話。ありえないほどの巨体を持つ物、あるいは魔法を放つ物、形容しがたい姿を持つ、もはや獣かどうかさえも怪しい物、そういった未知の生物を総称して魔獣と呼ぶ。そんな話だった。
目にも止まらぬ速さで、野営地を一頻り蹂躙した灰色の巨大な狼は、やがてその脚を止めると、傭兵の男とアシュリーのいる馬車へと視線を向ける。
「!? よせ……やめろ……!」
男は幌の隙間越しに狼と目が合った瞬間、そこから後ずさりする。しかしそこは狭い馬車。逃げる場所など何処にもない。すぐに反対側の幌に背が付き、男はそこで恐怖に震えるしかなかった。
外にいる狼もまた、見つけた獲物を逃す気は無い。そんな男の僅かな逃避も許さないと言わんばかりに、即座に馬車へと飛び掛かった。厚手の皮で作られた幌は、鋭い爪であっさりと切り裂かれ、切り裂かれた幌の間から突っ込まれた狼の大顎は、傭兵の男の上半身を人噛みで食いちぎっていた。
骨を砕きながら男の上半身を咀嚼しながら、そのまま顔をアシュリーのほうへと向ける狼。
「やめて……こないで……」
アシュリーもまた狼と目が合い、その姿に恐怖したあと後ずさりする。無駄な足掻きと分かっていても、自身どころか大人の体格でも一噛みでしとめてしまうようなその巨体の恐怖には抗えなかった。
一瞬の後、永遠とも思える時間が流れた後、狼はアシュリーへと飛び掛かり、彼女の左肩から上半身の半分を食いちぎっていた。
「いやだ……こ……んな……」
少女の最期の囁きは、誰にも聞き入れられることは無く、彼女もまた狼の糧と成り果てるしかなった。
2016/6/18 改訂しました。