黒百合侯爵家の十三人目
北へ向かう汽車は、ヴァルプルギス領の手前で止まった。
線路の先が雪崩に埋まり、復旧には三日以上かかるという。唯一の待合室には帰途を諦めた商人たちが集まり、駅員は暖炉へ薪を足しながら、こんな冬は十年ぶりだと繰り返していた。
エレノア・グレイヴは駅前で馬車を雇った。
御者は目的地を聞いた途端、毛皮帽の下で顔をしかめた。
「ヴァルプルギス館ですか」
「ええ」
「今夜は吹雪になります。山道は危険です」
「父の遺言が開かれるの。遅れるわけにはいかない」
御者はなおも何か言いたそうだったが、結局は黙って馬車を出した。
雪は昼過ぎから降り続けていた。
窓の外には、葉を落とした黒い森がどこまでも続いている。絡み合った枝々が灰色の空へ伸びる光景は、地中から這い出した無数の手のようだった。
エレノアは膝の上に置いた手紙へ目を落とした。
黒い封蝋には、百合へ絡みつく蛇の紋章が刻まれている。
黒百合侯爵家の紋章。
手紙が届いたのは三日前だった。
エレノア・グレイヴ令嬢へ。
父君アーヴィン・グレイヴ侯爵閣下が逝去されました。
閣下の遺言により、十二月十三日、日没後にヴァルプルギス館で遺言書を開封いたします。相続に関係するすべての者が立ち会う必要があります。
欠席した場合、相続権を放棄したものと見なします。
黒百合侯爵家顧問弁護士
セドリック・ロウ
父の死因も、葬儀の日程も記されていなかった。
最後に父の顔を見たのは十二年前だ。
十歳だったエレノアは、北塔の下に横たわる母マリアンヌの遺体を窓から見ていた。
雪の上に広がる赤い血。
不自然な方向へ曲がった腕。
風に揺れる金色の髪。
母は北塔から身を投げたのだと父は説明した。悲しみに耐えられなかったのだという。
けれど、母が何を悲しんでいたのかは、誰も教えてくれなかった。
その翌朝、エレノアは王都の寄宿学校へ送られた。以来、父から手紙が届いたことは一度もない。
やがて森が途切れ、丘の頂に七つの尖塔を持つ館が姿を現した。
ヴァルプルギス館。
四百年にわたり、黒百合侯爵家の人間が住み続けてきた城館である。
雪の中に立つ黒い館は、巨大な棺のように見えた。
「お嬢さん」
御者が振り返らずに言った。
「あの館では、夜中に十三回、鐘が鳴るそうです」
「時計が壊れているの?」
「いいえ。時計は壊れていないのに鳴るんです。十三回目を聞いた者は、次の冬を迎えられないとか」
「迷信ね」
「そう願います」
馬車が鉄門を通過した。
正面玄関に着くと、扉は内側からゆっくりと開いた。
ランプを手にした老執事が立っている。
「お帰りなさいませ、エレノアお嬢様」
「ハロルド」
執事ハロルドは、エレノアが幼い頃から侯爵家に仕えていた。
十二年前と同じ黒い礼服を着ていたが、その髪は真っ白になっている。頬は落ちくぼみ、以前より二回りほど小さく見えた。
「長旅でお疲れでしょう。お部屋を整えております」
「その前に、お父様の遺体を確認したいわ」
ハロルドの目がわずかに揺れた。
「ご遺体は地下の安置室にございます」
「案内して」
「それはできません」
「なぜ?」
「侯爵閣下のご意向です」
「死んだ人間の意向に、まだ従うの?」
「遺言書に記されております。開封が終わるまで、何人たりとも遺体を見てはならないと」
エレノアは老執事を見つめた。
「死因は?」
「心臓発作と伺っております」
「あなたは最期に立ち会ったの?」
「いいえ」
「なら、誰が死を確認したの?」
ハロルドは答えなかった。
館の奥から時計の音が響いた。
一回。
続いて二回。
重い鐘の音が、冷え切った玄関広間を震わせた。
エレノアは無意識に数えた。
十回。
十一回。
十二回。
そして、十三回目の鐘が鳴った。
御者の話を思い出し、玄関脇にある大時計を見た。
針は午後六時を指している。
「この時計、壊れているの?」
「いいえ」
「なら、なぜ十三回も鳴るの?」
ハロルドの顔から血の気が引いていた。
「分かりません。この時計は、十二回までしか鳴らないはずです」
背後で玄関扉が閉まった。
鈍い音が、巨大な棺に蓋をする音のように聞こえた。
晩餐室には、エレノアを含め十二人が集められていた。
長い食卓の中央には、黒百合が飾られている。
季節外れの花だった。
黒百合はこの地方にしか咲かず、冬には枯れる。それなのに花瓶の中の百合は、たった今摘んだばかりのように瑞々しかった。
食器は十三人分用意されていた。
「死者にも食事を出すのか」
エレノアの長兄アルバートが吐き捨てるように言った。
軍人である彼の胸元には勲章が並んでいる。目元は父に似て細く、口元には常に他人を見下すような笑みがあった。
「父上らしい演出だよ」
次兄のユリウスが静かに言った。
彼は聖職者の黒い服を着ていた。柔和な微笑を浮かべているが、卓上で組んだ指先は落ち着きなく動いている。
父の妹であるクラリッサは、扇の陰からエレノアを観察していた。その隣には、彼女の息子ノアが座っている。
父の後妻ベアトリスと、その連れ子リディアもいた。
ベアトリスは四十歳を越えているはずだが、病的なまでに白い肌を持ち、ひどく若く見えた。リディアは黒髪の少女で、年齢はエレノアより三つほど下だ。目を伏せたまま、誰とも言葉を交わそうとしない。
ほかには父の主治医ベネット、顧問弁護士セドリック、執事ハロルド、料理人のアレン、侍女頭モーラがいた。
全員が侯爵の財産、あるいは秘密に関わる者たちだった。
上座には誰も座っていない。
そこには銀の皿と葡萄酒の入った杯、父が愛用していた杖が置かれていた。
「十三人目は誰なの?」
ベアトリスが苛立たしげに尋ねた。
弁護士のセドリックは、空席へ目を向けた。
「侯爵閣下です」
室内から音が消えた。
「閣下の遺言書には、今夜の晩餐にご自身の席を用意するよう記されていました」
「悪趣味な人」
ベアトリスは胸元の真珠を撫でた。
「さっさと遺言を読みなさい。私はこんな館に泊まるつもりはありません」
セドリックが鞄から遺言書を取り出した。
黒い封蝋には、侯爵家の紋章が刻まれている。
彼が封を切ろうとした瞬間、館全体が大きく揺れた。
窓の外から轟音が響く。
床が震え、天井から細かな埃が落ちてきた。
料理人のアレンが外を見に行き、しばらくして雪まみれになって戻ってきた。
「谷に架かる橋が落ちました」
「なんですって?」
ベアトリスが立ち上がった。
「雪の重みで崩落しています。馬車も橋の向こう側です。今夜は館から出られません」
「別の道は?」
「春から秋なら、森を抜ける道があります。ですが、この吹雪では」
アレンが首を振った。
窓の外では白い雪が渦巻き、庭園の像さえ見えなくなっていた。
「閉じ込められたというわけか」
アルバートが鼻で笑った。
彼は上座へ手を伸ばし、父の杯を持ち上げた。
「死んだ父上に乾杯しよう」
「それは侯爵の杯です」
ハロルドが止めた。
「だから何だ。死者が飲むのか?」
アルバートは葡萄酒を一息に飲み干した。
直後、彼の顔から笑みが消えた。
銀の杯が床に落ちる。
アルバートは両手で喉を押さえ、椅子から転げ落ちた。
ベネットが駆け寄る。
アルバートの体は激しく痙攣し、唇が紫色へ変わっていった。
やがて動きが止まった。
ベネットが脈を確かめ、ゆっくりと首を横に振る。
「亡くなっています」
ベアトリスが悲鳴を上げた。
ユリウスは兄の遺体を見下ろし、胸の前で祈りの印を切った。
「毒です」
ベネットは杯の匂いを確認した。
「即効性の毒物でしょう。杯か葡萄酒に混ぜられていた」
「誰が入れたの?」
ノアが青ざめて尋ねた。
誰も答えなかった。
上座の酒瓶が倒れ、赤い葡萄酒が白い卓布を染めていた。
晩餐室の扉を叩く音がした。
一度。
二度。
ハロルドが扉を開けた。
廊下には誰もいない。
しかし、扉の外側に濡れた指で文字が書かれていた。
一人目。
「誰かが私たちを殺そうとしている」
リディアが初めて口を開いた。
囁くような声だった。
暖炉の火が大きく揺れた。
セドリックは震える手で遺言書の封を切った。
「この状況でも読むの?」
エレノアが尋ねた。
「遺言の内容が、アルバート様の死に関係している可能性があります」
セドリックは書面を広げた。
我が名と財産を求める者たちへ。
この館には、黒百合侯爵家を四百年間支えてきた罪が眠っている。
夜明けまでにその罪を暴いた者へ、爵位と全財産を譲る。
ただし、虚偽を述べた者、証拠を隠した者、館から逃亡した者には、相続の権利を認めない。
最後に残った者が、我が真の後継者である。
「最後に残った者?」
クラリッサが聞き返した。
「これ以上は記されておりません」
「まるで、私たちが死ぬことを知っていたような文章ね」
エレノアが言うと、ユリウスが兄の遺体から目を上げた。
「兄さんだけとは限らないよ」
その言葉で、全員が互いから距離を取った。
エレノアはアルバートの杯を布で包んだ。
「朝まで一人にならない方がいいわ。食べ物にも飲み物にも触れない。窓と扉を確認して、全員で同じ部屋にいるの」
「あなたが指図するの?」
ベアトリスが睨んだ。
「死にたいなら、好きにして」
エレノアは短く答えた。
床に小さな紙片が落ちていることに気づいたのは、その直後だった。
折り畳まれた紙には、幼い子どものような文字で一行だけ書かれていた。
お母様は、落ちたのではない。
エレノアは紙を握り締めた。
周囲を見回したが、誰も彼女に注目していなかった。
十二年前の記憶がよみがえる。
北塔から聞こえた母の悲鳴。
窓辺に立つ男の影。
雪の上に横たわる母。
あの夜、母の部屋には父以外の誰かがいた。
エレノアは一人で晩餐室を抜けた。
北塔へ続く廊下には、歴代侯爵の肖像画が並んでいる。
どの当主も、細い目と薄い唇を持っていた。服装や髪形は異なっているのに、同じ人間が何度も描かれているように見える。
第十三代侯爵ルシアン・グレイヴの肖像だけは、顔の部分を刃物で切り裂かれていた。
エレノアは絵の前で立ち止まった。
ルシアンは百五十年前の当主だ。冷酷な人物として知られ、反逆の疑いをかけられて処刑されたと聞いている。
「お嬢様」
背後にハロルドが立っていた。
「北塔へ行かれてはなりません」
「母は事故で死んだのではないのでしょう?」
ハロルドの顔がこわばった。
「どなたから、そのようなことを」
「答えて。あの夜、北塔には誰がいたの?」
「お部屋へお戻りください」
「母を殺したのは、お父様?」
ハロルドは視線を逸らした。
遠くから女性の悲鳴が響いた。
二人は声のした書斎へ駆けつけた。
ユリウスとノアが扉の前に立っている。
「中に誰かいる」
ノアが扉を叩いた。
「母上です。鍵がかかっています」
部屋の中から、何かが倒れる音がした。
ハロルドとユリウスが体当たりし、扉を破った。
書斎の床にクラリッサが倒れていた。
胸には侯爵家の紋章が刻まれた短剣が突き刺さっている。
窓は内側から施錠されていた。
暖炉の煙道は人間が通れるほど広くない。
隠れる場所もない。
完全な密室だった。
壁には血で文字が書かれていた。
二人目。
クラリッサはまだ生きていた。
エレノアが手を握ると、彼女は血を吐きながら顔を寄せた。
「あの子を、信じてはいけない」
「誰のこと?」
「あなたの兄は、侯爵の」
言葉は最後まで続かなかった。
クラリッサの瞳から光が消えた。
ノアが母親の名を呼び、遺体へすがりついた。
クラリッサの右手には、小さな銀色の鍵が握られていた。
鍵には十三という数字が刻まれている。
エレノアが立ち上がると、部屋へ入ってきたユリウスの袖口で銀色の糸が光った。
「叔母上まで亡くなるとは」
彼は悲しげに目を伏せた。
その指先には、細い切り傷があった。
エレノアは何も指摘しなかった。
遺体を寝室へ運んだあと、全員で館の出入口を調べた。
玄関と勝手口は内側から施錠されている。窓にも鉄格子があり、人間が出入りした形跡はなかった。
外部から侵入した者はいない。
犯人は、この館の中にいる。
銀の鍵が開けたのは、礼拝堂の地下へ続く扉だった。
エレノアはノアとリディアを連れ、石造りの階段を下りた。ハロルドには全員で待つよう命じられていたが、母の秘密を知る機会を逃したくなかった。
「母は何を知っていたのでしょう」
ノアは目を赤くしていた。
「だから調べるの」
「僕は爵位なんて欲しくありません。ただ母を殺した者を知りたい」
「この館では、それを他人に言わない方がいいわ」
エレノアが答えると、リディアが小さく頷いた。
地下墓所には、歴代当主の石棺が並んでいた。
第十三代侯爵ルシアンの棺だけが開いている。
中に遺体はなく、代わりに古い書類が詰められていた。
それは侯爵家の診療記録だった。
歴代当主の病歴。
妻たちの出産記録。
そして、子どもたちの出生証明。
エレノアは自分の名前を見つけた。
エレノア・グレイヴ。
母、マリアンヌ・グレイヴ。
法的父親、アーヴィン・グレイヴ。
実父、不詳。
ほかの記録も調べる。
アルバート。
ユリウス。
二人の実父の欄にも、不詳と記されていた。
侯爵の子どもとされていた三人は、誰一人として父の実子ではなかった。
「どういうこと?」
ノアが記録を奪うように取った。
「叔父上には、子どもを作れない事情があったのかもしれない」
リディアが言った。
「では、黒百合侯爵家の血筋は」
言葉の途中で、背後の扉が閉まった。
ランプの火が消える。
暗闇の中で、ノアが悲鳴を上げた。
何かがぶつかる音がした。
木の蓋が閉まり、続いて骨の砕ける音が響いた。
エレノアは床を這い、落としたランプを探した。
火打ち石を擦る。
小さな炎が戻ったとき、ノアはルシアンの棺の中で死亡していた。
首が不自然な方向へ曲がっている。
棺の内側には鉄製の仕掛けが施されていた。人間が中へ入ると蓋が閉まり、首を挟むように作られている。
「リディア?」
返事はなかった。
彼女の姿が消えている。
棺の側面に、白い文字が浮かび上がった。
三人目。
塗料ではなかった。
壁に埋め込まれた細い管から薬品が染み出し、別の薬品と触れることで文字が浮かぶ仕掛けだった。
殺人は衝動的なものではない。
ずっと前から用意されていた。
エレノアは床へランプを近づけた。
リディアの小さな靴跡とは別に、泥のついた足跡が残っている。
足跡は壁の前で途切れていた。
石板を押すと、壁の一部が音もなく動いた。
その向こうに細い通路がある。
使用人が目立たず館内を移動するための隠し通路だった。
犯人はこの通路を使えば、施錠された部屋へ出入りできる。
エレノアは通路へ入った。
途中で道が三つに分かれている。
床にリディアの髪飾りが落ちていた。
さらに進むと、礼拝堂の祭壇裏へ出た。
しかし、リディアの姿はなかった。
代わりに、祭壇の上へ一冊の本が置かれていた。
黒百合侯爵家の記録書だった。
最初の頁には、古い文字で一文が記されている。
当主は一人にあらず。名こそが当主である。
その意味を考えるより先に、悲鳴が聞こえた。
広間の階段下で、料理人アレンが倒れていた。
首の骨が折れている。
偶然の転落に見えたが、階段の上には細い鋼線が張られていた。
壁には四人目と書かれている。
その一時間後、侍女頭モーラが浴室で発見された。
浴槽の中で溺死していた。
手首と足首には、細い縄で縛られた痕がある。
鏡には五人目の文字が浮かんでいた。
続いて、主治医ベネットが姿を消した。
薬品庫の扉が内側から施錠され、中から煙が漏れ始めた。
扉を壊したときには、室内が炎に包まれていた。
ベネットは机の前で死亡していた。
その手には、焼け残った紙片が握られていた。
アーヴィン・グレイヴ侯爵は、先天的に子を残せない身体である。
六人目。
最初のアルバートには毒が使われた。
クラリッサは密室で刺された。
ノアは棺の罠によって殺された。
アレン、モーラ、ベネットにも、それぞれ異なる方法が用いられている。
同一人物による計画的な犯行にも見えるが、奇妙な点があった。
クラリッサの傷は、真正面に立った右利きの人間がつけたものだった。
モーラの手首には、左手で縄を結んだ特徴が残っていた。
そしてアレンの転落現場では、鋼線を設置した者とは別の足跡が見つかっている。
犯人は一人ではない。
あるいは、この館にいる者たちが、それぞれの目的で殺人を始めている。
生き残った六人は晩餐室へ集まった。
エレノア。
ユリウス。
ベアトリス。
戻ってきたリディア。
セドリック。
ハロルド。
「どこにいたの?」
エレノアはリディアに尋ねた。
「地下で誰かに襲われました。隠し通路へ逃げて、物置に隠れていました」
「誰に襲われたの?」
「顔は見えませんでした。でも、聖職者が身につける香油の匂いがしました」
皆の視線がユリウスへ向いた。
彼は穏やかな表情を崩さなかった。
エレノアは卓上へ銀色の糸を置いた。
「クラリッサ叔母様を殺したのは、あなたね」
「なぜそう思う?」
「書斎の鍵は古い。鍵穴から糸を通し、外へ出たあとで鍵を回せば密室を作れる。あなたの袖には、同じ銀糸がついていた」
「礼服の装飾だよ」
「あなたの指には切り傷があった。糸を強く引いた痕でしょう」
「それだけでは証拠にならない」
「叔母様は死ぬ直前、私の兄を信じるなと言った」
ユリウスの微笑が消えた。
「叔母上は、僕の出生を知っていた」
「だから殺したの?」
「僕は侯爵家の人間ではない」
「私もアルバートも同じよ」
「僕の父親は、王族だった」
ユリウスの告白に、セドリックが息をのんだ。
「母は王宮で侍女をしていた。侯爵は自分に子ができないと知り、王家の血を引く子どもを後継者にしようとした。だが父親である王弟が亡くなり、計画は不要になった。僕の出生が公になれば、母の名誉だけでなく、教会と王室を巻き込む醜聞になる」
「自分を守るために叔母様を殺したのね」
「叔母上は金と引き換えに秘密を売ろうとしていた」
「ノアも殺した?」
ユリウスは答えなかった。
代わりにリディアを見た。
「彼女の証言を信じるのかい? リディアは地下墓所で姿を消した。ノアを棺へ押し込めたのは、彼女かもしれない」
リディアが拳銃を取り出した。
両手で銃身を支えているが、指が震えていた。
「私には分かっている。あなたがノアを棺へ押した」
「いつから見ていた?」
「暗闇の中で私を捕まえようとしたでしょう。私は隠し通路へ逃げた。壁の隙間から、あなたがノアを棺へ入れるところを見ていた」
「だったら、どうして今まで黙っていた?」
「あなたが怖かったから」
「今は怖くないのかい?」
「今も怖い」
リディアは銃口をユリウスへ向けた。
「でも、誰も生き残らなければ、本当のことを話す人がいなくなる」
拍手が聞こえた。
閉ざされていた晩餐室の扉がゆっくりと開く。
杖をついた老人が入ってきた。
「見事だ、ユリウス」
アーヴィン・グレイヴ侯爵だった。
エレノアは椅子から立ち上がった。
父は記憶の中より痩せていた。
頬は深く落ちくぼみ、皮膚は蝋のように黄ばんでいる。それでも細い目だけは異様な光を宿していた。
「お父様」
「そう呼ばれるのは久しぶりだな、エレノア」
「なぜ生きているの?」
「私が死ななければ、お前たちは集まらない」
侯爵は上座へ座った。
そこは初めから、彼のために用意された席だった。
「アルバートを殺したのは、あなた?」
「杯に毒を入れたのは私だ。しかし、あれを飲むよう命じた覚えはない」
「同じことよ」
「違う。私は選択肢を用意した。選んだのはアルバート自身だ」
侯爵は死んだ息子に何の感情も抱いていないようだった。
「この一族は腐っている。妻たちは私を欺き、他人の子を産んだ。親族は財産を狙い、使用人は秘密を売った。すべてを一度、清算する必要があった」
「だから殺したの?」
「私は館に仕掛けを用意しただけだ。実際に殺し合ったのは、お前たちだ」
エレノアはユリウスを見た。
「すべての殺人を指示したの?」
「クラリッサとノアを殺したのはユリウスだ。アレンは私の命令で橋へ細工をしたあと、報酬を増やすよう要求してきた。モーラはベアトリスの宝石を盗んでいた。ベネットは私の診療記録を王都の新聞社へ売ろうとしていた」
「だから処分した?」
「相応の報いだ」
「モーラを殺したのは誰?」
侯爵はベアトリスを見た。
後妻の顔が強張った。
「違うわ」
「彼女が真珠の首飾りを盗んだと思い込み、浴室で問い詰めた。争っているうちに殺したのだろう?」
「口を塞ぐつもりなんてなかった!」
ベアトリスが叫んだ。
「少し懲らしめるだけだったのよ。あの女が抵抗するから」
「お母様」
リディアが青ざめた。
「では、階段からアレンを落としたのは」
侯爵はセドリックへ目を向けた。
顧問弁護士はその場に崩れ落ちた。
「彼が私を脅したのです。遺言書の内容を知っていることを公表されたくなければ、金を払えと」
殺人者は一人ではなかった。
侯爵はそれぞれに秘密と疑念を与え、自ら手を汚すよう仕向けた。
館という檻の中で、誰もが自分を守るために誰かを殺していた。
「母も、あなたが殺したの?」
エレノアが尋ねた。
侯爵はハロルドへ視線を向けた。
「答えてやれ」
老執事の顔から血の気が引いた。
「マリアンヌ様を北塔から突き落としたのは、私です」
エレノアの耳から、すべての音が遠ざかった。
「嘘よ」
「侯爵閣下に命じられました」
「あなただけは、母の味方だと思っていた」
「私はマリアンヌ様を愛しておりました」
ハロルドの目から涙が落ちた。
「そして、お嬢様。あなたは、私の娘です」
診療記録にあった実父不詳という文字。
寄宿学校へ送られたあとも、誕生日になると届いた差出人のない菓子。
幼い頃、ハロルドだけが向けてくれた無条件の優しさ。
すべてがつながった。
「なぜ母を殺したの?」
「閣下に知られたのです。マリアンヌ様は、あなたを連れて館から逃げようとなさった。閣下は、命令に従わなければ、あなたを殺すと」
「だから母を選ばなかったの?」
「私は、あなたの命を選びました」
「それで私を守ったつもり?」
「お恨みください」
「ずっと黙っていたのは?」
「真実を知れば、お嬢様は侯爵閣下へ復讐なさる。そうすれば、あなたまで罪人になると思ったのです」
エレノアは卓上のナイフへ手を伸ばした。
ハロルドは逃げなかった。
「お嬢様」
「その呼び方をしないで」
「申し訳ございません」
ナイフの刃が、ハロルドの胸へ入った。
驚くほど抵抗はなかった。
老執事はエレノアの肩へ手を置いた。責めるためではなく、慰めるためのようだった。
「生きて、ください」
ハロルドはそれだけ言い、床へ倒れた。
実の父親の血が、エレノアの両手を染めていた。
アーヴィン侯爵の笑い声が響く。
「やはり、お前が最も私に似ている」
「黙って」
「私はハロルドに、お前を殺せとは命じなかった。マリアンヌとともに館を出て行けと伝えた」
エレノアは侯爵を見た。
「何を言っているの?」
「だが、あの男は私を恐れた。命令を自分に都合よく解釈し、マリアンヌだけを殺したのだ」
「嘘よ」
「そうかもしれない。死者は反論できないからな」
エレノアの体が震えた。
自分が殺した男は、本当に母を殺したのか。
それとも侯爵の言葉を信じ、無実の父親を殺したのか。
もう確かめる方法はなかった。
銃声が響いた。
ユリウスが肩を押さえ、床へ倒れた。
リディアが拳銃を構えている。
「全員を殺して自分が後継者になるつもりだったのでしょう」
ユリウスは出血する傷を押さえながら笑った。
「君も同じだよ。そうでなければ、なぜ銃を持っている?」
「身を守るためよ」
「殺人者は皆そう言う」
ユリウスが突然、リディアへ飛びかかった。
二発目の銃声が鳴る。
弾丸はユリウスの胸を貫いた。
彼は床へ崩れ落ちた。
口元から血を流しながら、エレノアを見上げる。
「言った、だろう」
「何を?」
「君も、僕と同じだ」
ユリウスの目から光が消えた。
「娘に何をさせたの!」
ベアトリスが侯爵へ飛びかかった。
侯爵は杖の先を彼女へ向ける。
鋭い発砲音がした。
杖には小型の銃が仕込まれていた。
ベアトリスの額から血が流れる。
「お母様!」
リディアが母親へ駆け寄った。
侯爵は再び杖を向けた。
エレノアが叫んだ。
「やめて!」
二発目の銃声。
リディアがベアトリスの上へ倒れた。
リディアは胸から血を流しながら、エレノアへ手を伸ばした。
「逃げて」
その手はエレノアに届かなかった。
残ったのは、侯爵、エレノア、セドリックの三人だけだった。
「遺言の本当の意味を教えよう」
侯爵が言った。
「罪を暴いた者ではない。最後まで生き残った者が、私の後継者となる」
「あなたの血を引く者は、誰もいない」
「血など、初めからどうでもいい」
侯爵はエレノアの血に濡れた手を見た。
「私が求めたのは、愛を信じず、家族を憎み、生き残るためなら誰でも殺せる人間だ」
「私を、あなたと同じ殺人者にするために?」
「すでに、お前は実の父を殺した」
その言葉は、ナイフより深く胸へ突き刺さった。
セドリックが突然、燭台を倒した。
炎が卓布へ燃え移り、続いてカーテンへ広がった。
「こんな財産、誰が欲しがるものか!」
彼は出口へ走った。
その頭上から燃えた梁が落下する。
セドリックの姿が炎の向こうへ消えた。
煙が晩餐室を満たしていく。
それでも侯爵は逃げようとしなかった。
「さあ、エレノア。私を殺せ」
「殺せば、私が最後の後継者になる」
「そうだ」
「それがあなたの望みなのね」
「お前が私になる。黒百合侯爵家は、お前の中で続く」
「あなたの思いどおりにはならない」
「ならば私を残し、自分だけ逃げるか?」
侯爵は両腕を広げた。
「それができるなら、お前はまだ人間だ」
煙の向こうに、母の姿が見えた気がした。
ハロルドが倒れている。
リディアの目は開いたままだ。
アルバートも、クラリッサも、ノアも、ユリウスも、館へ来たときには生きていた。
侯爵が彼らに疑念を植え付けた。
欲望と恐怖を煽り、互いを殺すよう仕向けた。
この男を生かしておけば、同じことを繰り返す。
エレノアはナイフを握り直した。
そして、侯爵の胸を刺した。
一度。
二度。
三度。
侯爵は血を吐きながら笑っていた。
「おめでとう、我が娘よ」
「私は、あなたの娘ではない」
「血は違っても、魂は同じだ」
侯爵が息絶えた。
館の時計が鳴った。
一回。
二回。
炎に包まれた晩餐室で、時計は十三回目まで鳴り続けた。
夜明けだった。
三日後、救助隊が館へ到着した。
ヴァルプルギス館は半焼し、瓦礫の中から十二人分の遺体が発見された。
唯一の生存者となったエレノアは、侯爵の遺言をめぐり、相続人たちが互いに殺し合ったと証言した。
侯爵が生きていたこと。
館に殺人装置が仕掛けられていたこと。
自らが実の父親を刺したこと。
そのすべてを、彼女は語らなかった。
語ったところで、信じる者はいない。
新聞はエレノアを「黒百合館の悲劇から生還した令嬢」と呼んだ。
世間は彼女に同情した。
侯爵家の財産と爵位は、遺言に従ってエレノアへ継承された。
多くの者が、若く美しい女侯爵の誕生を歓迎した。
しかしエレノアは、王都へ戻らなかった。
館を修復し、そこに住み続けることを選んだ。
父が残した記録をすべて調べ、黒百合侯爵家の罪を世間へ公表するためだった。
館には新しい使用人を雇わなかった。
広大な建物で、エレノアは一人きりだった。
夜になると、廊下を歩く足音が聞こえた。
扉の前にハロルドが立っているように思うこともあった。
鏡を見ると、自分の背後にアーヴィン侯爵が立っていた。
振り返っても、誰もいない。
眠れば、母が北塔から落ちる夢を見た。
夢の中で手を伸ばしても、決して届かなかった。
半年後、館の書庫から古い帳簿が見つかった。
地下にある隠し部屋の存在を示す記録だった。
エレノアは壁を調べ、書棚の奥に隠された扉を発見した。
その先には窓のない小部屋があった。
壁一面に、歴代侯爵の肖像画が並んでいる。
初代から、父アーヴィンまで。
年代が大きく異なるにもかかわらず、全員が同じ顔をしていた。
細い目。
薄い唇。
左の眉の上にある小さな傷。
部屋の中央には、医師の記録が置かれていた。
アーヴィン候補、第一号。
顔貌修正、完了。
発声訓練、完了。
記憶教育、完了。
アーヴィン候補、第二号。
顔貌修正、完了。
発声訓練、完了。
記憶教育、未完了。
エレノアは何度も読み返した。
当主は一人にあらず。
名こそが当主である。
地下墓所で見つけた言葉の意味を、ようやく理解した。
黒百合侯爵家は、当主が死ぬたびに養子を選んでいた。
選ばれた人間へ同じ教育を施し、同じ仕草と話し方を覚えさせる。必要であれば顔まで変え、アーヴィン・グレイヴという人格を受け継がせる。
侯爵とは特定の人間ではない。
何代にもわたって継承されてきた名前だった。
背後で床板が鳴った。
エレノアが振り返る。
誰もいない。
机の上に、先ほどまでなかった封筒が置かれていた。
黒い封蝋。
百合へ絡みつく蛇の紋章。
十三番目の棺を開けよ。
そこで、最後の真実が待っている。
エレノアはランプを持ち、地下墓所へ向かった。
十二の石棺が並んでいる。
事件の犠牲者たちが納められた棺だった。
その奥に、新しい棺が置かれていた。
十三番目の棺。
蓋を開ける。
中に遺体はなかった。
代わりに一通の手紙と、小さな録音機が置かれている。
手紙はアーヴィン侯爵の筆跡だった。
エレノアへ。
お前がこれを読んでいるなら、すべては計画どおりだ。
館の火災現場から発見された遺体は十二人分。
あの夜、館へ招かれた者も十二人だった。
では、お前が晩餐室で刺し殺した私は、誰だったのだろう。
エレノアは息を止めた。
火災現場から発見された十二人の中には、アーヴィン侯爵とされた遺体が含まれていた。
しかし、招待された十二人のうち、生き残ったのはエレノアだけだ。
発見されるべき遺体は十一人分だった。
十二体目は侯爵だと思われていた。
では、晩餐室で刺した男が侯爵ではなかったとすれば、十二体目は誰なのか。
録音機が動き始めた。
雑音のあと、アーヴィン侯爵の声が流れた。
「黒百合侯爵は、一人ではない」
地下墓所の入口に、杖を持った男が立っていた。
暗闇に隠れ、顔は見えない。
「おめでとう、我が後継者よ」
死んだはずの侯爵の声だった。
エレノアは後ずさった。
「あなたは誰?」
「その質問に意味はない」
男が一歩だけ前へ出る。
ランプの光が、その顔の半分を照らした。
晩餐室で殺した男と、まったく同じ顔だった。
「あなたを刺したはずよ」
「お前が刺したのは、アーヴィン候補の一人だ」
「候補?」
「彼は忠実だった。自分の死によって後継者が完成するなら、喜んで命を捧げた」
「私を後継者にするために、全員を殺したの?」
「殺したのはお前たちだ」
「私は侯爵にはならない。すべて公表する」
「だからこそ、お前は失格した」
男が杖で床を叩いた。
地下墓所の扉が閉まった。
鉄の錠が外側から下りる。
エレノアは扉へ駆け寄った。
「開けなさい!」
足元から冷たい水が流れ込んできた。
壁の一部が開き、地下水が墓所へ注いでいる。
「後継者にするつもりではなかったの?」
「候補として試した。お前は十分に残酷だったが、過去を捨てられなかった」
「どういう意味?」
「真実を世間へ公表しようとした。黒百合侯爵に罪悪感は必要ない」
水が足首を越えた。
「最初から私も殺すつもりだったの?」
「お前が選んだ結果だ」
「何も選ばせていない!」
「ハロルドを刺したのは誰だ。晩餐室の男を殺したのは誰だ。あの夜、館から逃げず、財産を相続したのは誰だ」
「あなたが仕向けた!」
「それでも、刃を握ったのはお前だ」
水が膝へ達した。
エレノアは扉を叩き続けた。
「私はあなたとは違う!」
男は答えなかった。
「待って。母を殺したのは、本当にハロルドなの?」
足音が止まった。
「教えて!」
「ハロルドはマリアンヌを殺していない」
エレノアの手が止まった。
「何を言っているの?」
「彼はお前を守るため、罪を引き受けた」
「では、母を殺したのは」
「マリアンヌ自身だ」
「嘘よ」
「彼女は北塔へ呼び出された。そこで、侯爵家の秘密を知った。夫だと思っていた男が一人ではなく、同じ名と顔を持つ複数の人間だったと知ったのだ」
「それだけで母が死ぬはずがない」
「お前が次の候補に選ばれたことも知った」
エレノアの呼吸が止まった。
「お前を侯爵へ変えるため、記憶と人格を壊す計画が立てられていた。マリアンヌはお前を連れて逃げようとした。しかし、逃げ切れないと悟った」
水が腰へ達する。
「彼女は自ら命を絶つことで、事件を公にしようとした。だが侯爵家は事故として処理した。ハロルドは、お前まで殺されないよう沈黙した」
「なら、なぜ彼は自分が殺したと言ったの?」
「お前の憎しみを自分へ向けるためだ。お前が私を殺そうとすれば、確実に返り討ちに遭うと思ったのだろう」
エレノアは自分の手を見た。
あの夜、ハロルドは逃げなかった。
ナイフを向けても抵抗しなかった。
最後に、生きてくださいと言った。
彼は死ぬつもりだった。
エレノアに殺されることで、侯爵から彼女を守ろうとした。
「嘘よ」
声が震えた。
「お前は、自分を愛した唯一の人間を殺した」
扉の向こうで足音が遠ざかり始める。
「待って!」
エレノアは扉を叩いた。
爪が割れ、血がにじんだ。
「お願い。開けて」
返事はなかった。
水は胸へ達した。
助けを求める声が地下墓所に響く。
しかし、広大な館には使用人が一人も残っていない。
水面が顎に届くと、壁に白い文字が浮かび上がった。
十三人目。
その下に、さらに小さな文字が続いていた。
黒百合侯爵家に、後継者は必要ない。
必要なのは、次の侯爵だけである。
エレノアは十三番目の棺へよじ登った。
棺の底に小さな排水口がある。
指を差し入れ、必死に蓋を外そうとした。
爪が剥がれても構わなかった。
生きなければならない。
すべてを公表しなければならない。
ハロルドが守ろうとした命を、ここで終わらせるわけにはいかなかった。
排水口の蓋が外れた。
しかし水は抜けなかった。
穴の奥は石で塞がれている。
初めから、希望を持たせるためだけに作られた偽物だった。
ランプの火が水へ沈んだ。
暗闇の中で、エレノアは母の声を聞いた気がした。
十歳の頃、眠れない夜に歌ってくれた子守歌。
その隣にはハロルドがいた。
二人は笑っている。
エレノアだけが、遠く離れた場所に立っていた。
時計の音が響いた。
一回。
二回。
エレノアは最後まで数え続けた。
十一回。
十二回。
十三回。
冷たい水が彼女の顔を覆った。
最後の鐘が消えるより先に、水面へ一つの泡が浮かんだ。
泡は小さく弾け、消えた。
翌朝、王都中央銀行へ一通の命令書が届いた。
黒百合侯爵家の財産を十三等分し、それぞれ異なる孤児院へ預けられた十三人の子どもへ分配するという内容だった。
命令書には侯爵家当主の印章が押されていた。
署名は、エレノア・グレイヴ。
作成された日付は、彼女が地下墓所で死亡した翌日だった。
同じ日、王室へ黒百合侯爵家の廃絶を申請する書類が届けられた。
若き女侯爵が悲劇に耐えかね、自ら姿を消したものとして手続きは進められた。
ヴァルプルギス館は閉鎖された。
地下墓所からエレノアの遺体が見つかることはなかった。
十三年後。
王都の名門学院へ、十三人の少年少女が入学した。
出身地も姓も異なる彼らには、一つだけ共通点があった。
全員が、黒百合の紋章を刻んだ銀の指輪を持っていた。
入学式の夜。
十三人は誰に教えられたわけでもなく、学院の古い時計塔の下へ集まった。
中央に立った少年が、ほかの十二人を見回した。
その顔は、かつてヴァルプルギス館に飾られていた歴代侯爵の肖像と、恐ろしいほどよく似ていた。
細い目。
薄い唇。
左の眉の上にある、小さな傷。
「全員そろったね」
少年は柔らかく微笑んだ。
一人の少女が尋ねた。
「私たちは、ここで何をするの?」
「選ぶんだ」
「何を?」
「次のアーヴィン・グレイヴを」
少年は時計塔を見上げた。
鐘が鳴り始める。
一回。
二回。
十三人の子どもたちは、黒百合の指輪を掲げた。
十二回目の鐘が終わっても、誰もその場を動かなかった。
やがて、存在するはずのない十三回目の鐘が、王都の空へ鳴り響いた。
一人の少年が、その場に倒れた。
口元から白い泡を吐き、二度と動かなかった。
残った十二人は驚かなかった。
中央に立っていた少年が、倒れた者の指から黒百合の指輪を抜き取った。
「最初の一人だ」
十二人は一斉に微笑んだ。
遠く離れたヴァルプルギス館では、地下墓所の水面が小さく揺れていた。
水の底に沈んだ十三番目の棺は空だった。
エレノアの遺体も、侯爵の記録も、すでに持ち去られている。
棺の内側には、新しい文字が刻まれていた。
エレノア候補。
残酷性、適合。
忠誠心、不適合。
次回候補、十三名。
選定開始。
黒百合侯爵家は滅びた。
爵位も、領地も、名誉も失われた。
それでも黒百合は枯れていなかった。
一つの大きな花が潰された土の下で、十三の新しい根が互いを絞め殺しながら、静かに伸び始めていた。
そして誰も知らなかった。
十三人の子どもたちへ財産を届けた人物が、ハロルド・グレイヴと名乗っていたことを。




