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異世界 イルフェスト

主はお赦しになりますが、私は赦しません ――祈るだけでよいと言われた聖女は、弱き者を食い物にした悪徳司祭の懺悔を聞きに行く

作者: tomato.nit
掲載日:2026/06/04


 聖堂は、朝の光に満ちていた。


 高い窓から差し込む光が、白い石床に淡く落ちている。銀の燭台には夜明けの火が残り、祭壇には白百合と清水が供えられていた。


 その前に立つ聖女イレイナ・ハングレイスは、息を呑むほど清らかだった。


 白いヴェール。伏せられた睫毛。祈りの形に重ねられた両手。


 ただそこに立つだけで、朝の聖堂の空気まで澄んで見えた。


「孤児院へ送る毛布は、今週中に手配せねばなりませんな」


「薬も切らしてはなりません。子どもは冬の風邪をこじらせやすい」


 神官たちはもっともらしい顔で言葉を交わし、イレイナの前では自然と声を潜めていた。


 イレイナはただ静かに微笑んでいた。


「聖女様は、ただ祈っておればよいのです」


 肥えた神官は、丸い腹の前で指を組み、慈悲深そうな顔をした。


「孤児院へ送る毛布や薬の手配は、我々が責任を持って進めます。貴女は我々の言葉を神に届ける。それが、お役目です。金の話など、清らかな聖女様が触れるものではありません」


「はい」


 イレイナは、白いヴェールの奥で穏やかに微笑んだ。


「主の御心のままに」


 神官たちは満足げにうなずき、聖堂を出ていった。


 重い扉が閉まる。


 足音が遠ざかる。


 聖堂に、イレイナだけが残された。


 イレイナは、足音が完全に消えるのを待った。


 ばさり。


 白いヴェールが床に落ちる。


 伏せられていた睫毛がゆっくりと上がる。


 口元にはまだ聖女の微笑みが残っていた。だが、それは一息ごとに形を変えた。やわらかな弧は冷たく吊り上がり、慈悲を湛えていたはずの顔から、静かな獰猛さが滲み出る。


 穏やかだった笑みは、猟犬のような獰猛な笑みに変わっていた。


「ったく。ぐだぐだうっせぇな、ハゲどもが」


 イレイナは首元の飾り紐を緩め、舌打ちした。


「何が、金の話は清い聖女には無縁だよ。笑わせんな。この世は金だぜ、金。ガキの腹を膨らませるのも、熱出した婆さんに薬買うのも、冬越す毛布を運ぶのも、全部金だ」


 祭壇の上で、蝋燭の火が小さく揺れた。


「祈りで腹は膨れねぇ。神様だって、空っぽの鍋に祝福は盛れねぇよ」


 イレイナは指を二回鳴らした。


 柱の陰から、灰色の外套の男が滑るように現れる。


「お呼びですか」


「ギルドに流してる武器の状況はどうなってんだ。ちったぁ売れたのか」


「ええ。順調です。貴族の屋敷から押収した、邪教徒の祝福を受けたインゴットですが、少量であれば地金には最適です」


「けっけっけ。ざまあねぇな。雑魚の神に捧げた鉄なんざ、うちの冒険者どもに安く使われてなんぼだぜ」


 男は少しだけ目を伏せた。


「それと、孤児院の件ですが」


 イレイナの笑みが止まった。


「言え」


「冬越し用の毛布、薬代、小麦袋。すべて神殿からは支給済みになっています」


「届いてねぇんだな」


「はい」


「抜いたのは?」


「会計司祭バルド。先ほど聖堂にいた、丸い方です」


「あのデブか」


 イレイナは、床に落ちたヴェールを爪先で払った。


「証拠は」


「領収書の写し、倉庫番の証言、運搬人の帳面。すべて押さえています」


「別宅は?」


「買っています。孤児院の薬代が、暖炉付きの客間に化けました」


 イレイナは黙った。


 祭壇の前に置かれていた銀杯を手に取り、じっと見下ろす。


 やがて、笑った。


「神もあたしも舐められたもんだなぁ?」


 銀杯を祭壇へ戻す。


「いいぜ。耳揃えて返してもらう」



 その夜、会計司祭バルドは聖堂へ呼び出された。


 名目は、孤児院支援の感謝祈祷。


 バルドは上機嫌だった。


 白い法衣を着込み、脂ぎった顔に穏やかな笑みを貼りつけている。小太りと言うには腹が出すぎていて、腹に食い込む太い金鎖が、呼吸のたびに法衣の上から鈍く揺れた。椅子に座るたび木が軋んだ。


「聖女様も、ようやくお分かりになったようですな」


 バルドは祭壇の前で笑った。


「孤児院への支援は、神殿の格式を示す大切な務め。毛布も薬も、子どものために滞りなく回してこそ意味がある。貴女は祈り、我々が実務を行う。それが正しい形です」


「ええ」


 イレイナは、白いヴェールを被ったまま微笑んだ。


「本日は、主の御前で、支援への感謝を形にしたく存じます」


「もちろんですとも」


 バルドは満足げに頷いた。


 その時、聖堂の扉が開いた。


 入ってきたのは、孤児院の老修道女だった。続いて、咳をこらえる子どもを抱いた若い修道女。最後に、灰色の外套の男。


 バルドの目が、わずかに揺れる。


「……これは?」


「感謝は、多い方がよいでしょう?」


 イレイナは祭壇の前に立ったまま、穏やかに言った。


「孤児院を代表して、皆さまにお越しいただきました」


 老修道女は深く頭を下げた。


「聖女様。このたびは、お心をお寄せくださり――」


 そこで言葉が詰まる。


 乾いた唇が、続くべき礼の言葉を見失っていた。


 イレイナは静かに頷いた。


「では、まず確認いたしましょう」


 その声音は、あくまで柔らかかった。


「孤児院の冬用毛布。薬。小麦袋。薪。子ども用の靴。すべて、神殿からは支給済みになっていますね」


 聖堂の空気が止まった。


 バルドの笑みも止まる。


「……何のことでしょう」


「ええ。わたくしも、最初はそう思いました」


 イレイナは微笑んだまま、灰色の外套の男へ視線を送る。


「こちらが、毛布と薬の受領印です」


 書類が広げられる。


「そして、実際に金が流れた先がこちら。司祭様の別宅の暖炉、客間の絨毯、銀食器ですね」


「違う。これは、管理上、一時的に預かっただけだ」


「帳面は、そう記しています」


 老修道女が震える手で、胸元のロザリオを握った。


「子どもたちは、夜になると咳をします。薬が届いていれば、あの子たちは」


「黙れ!」


 バルドが叫んだ。


「孤児など、多少寒くとも死にはしません。薬がなくとも耐える者は耐えるのです」


「聖女様! この者たちは貴女を惑わせています。金のことなど、聖女様が触れるものではありません。貴女は、ただ祈っていればよいのです。我々の言葉を神に届けるのが――」


「ですから」


 イレイナは、ヴェールの奥で静かに微笑んだ。


「届けましょう」


 聖堂の奥で、火が揺れた。


「あなたの懺悔を」


 バルドが息を呑む。


 イレイナは祭壇の階段を降り、膝をつきかけたバルドの前に立った。


「祈りで腹は膨れません」


 やわらかな声音が、かえって聖堂を冷やした。


「けれど、罪はよく膨れるものですね。司祭様の暮らしぶりのように」


「せ、聖女様……」


「今なら、まだ主の御前です」


 イレイナは静かに見下ろした。


「ご自分の罪を認め、孤児院へ返すとおっしゃるなら、わたくしはその言葉を届けましょう」


 バルドの喉が上下する。


 祭壇の光を受けた聖女の顔は、あまりにも穏やかだった。


 縋るには、都合がよすぎた。


「わ、私は……」


 掠れた声が漏れる。


「ほんの少し、魔が差しただけで……今なら悔いております。返します。返しますとも。だから、どうか……どうか慈悲を」


「主はお赦しになります」


 その言葉に、バルドの顔がわずかに明るくなりかけて、止まった。


 イレイナは聖女の微笑みを浮かべたまま、バルドの前にしゃがみ込んだ。


 そして、その手を優しく包み込む。


「よくぞ、自らの罪をお認めになられました。立派です、司祭様」


「お、おお……当然だ。やはり、神は寛大であられる」


「ええ。神は」


 イレイナの指が、バルドの指輪に触れた。


 そのまま、もう片方の手がゆっくりとヴェールへ伸びる。


 ばさり。


 床に白が落ちた。


 伏せられていた眉が、ゆっくりと上がる。


 その口元には、もう聖女の笑みはなかった。わずかに吊り上がった唇の端に、鋭い八重歯がのぞく。


「でも、あたしは赦さねぇけどな?」


 包み込んだ手のまま、青い宝石の指輪を引き抜く。


「なっ……!」


 指輪が、祭壇の階段へ転がって乾いた音を立てた。


「祈るだけの聖女如きに、こんな真似が許されるはずがない!」


 バルドが喚く。


 イレイナは、転がった指輪を一瞥した。


「ああ、ないぜ?」


 その声には、もう聖女の温度は欠片もなかった。


「これは、あたしの領分だ」


「まずは、毛布代」


 イレイナは立ち上がると、そのままバルドの首元へ手を伸ばした。


 太い金鎖を引き抜く。


「や、やめっ」


「薬代」


 次に腰の鍵束。


「それは神殿の」


「小麦袋」


 懐の金貨袋。


「返せ!」


「薪代」


 最後に、神殿会計司祭の印章。


「それに触れるな!」


「子ども用の靴」


 ひとつ剥がしては、祭壇の階段へ置く。


 まるで供物でも並べるみたいに、イレイナの手つきは丁寧だった。


 バルドの顔は、置かれた数だけ醜く歪んだ。


 バルドは身をよじった。


「やめろ! 私は司祭だぞ! このような扱いが許されると思っているのか!」


「だったら祈れよ」


 イレイナは笑った。


「祈って腹が膨れるか、てめぇで試してみろ」


 最後に、灰色の外套の男がバルドの法衣の飾り紐を解いた。


 白い法衣が乱れ、丸い腹が情けなく揺れる。


 祭壇の階段には、司祭の威厳よりよほど重たそうな私物が並んでいた。


 老修道女だけが、涙を拭いていた。


「バルド司祭。神殿会計職を剥奪。別宅、装飾品、隠し金、全部差し押さえ。孤児院に戻す。足りねぇ分は、てめぇの親族に泣きつけ」


「そんな、そんなことをすれば、私は」


「泣けよ」


 イレイナは祭壇を見上げた。


「主に届くようにな」




 翌朝。


 孤児院に、荷馬車が三台届いた。


 毛布。小麦袋。薬箱。薪。干し肉。子ども用の靴。


 子どもたちは歓声を上げた。


 老修道女は泣いていた。


 イレイナは、白いヴェールを被り直し、穏やかに微笑む。


「主の恵みです」


 子どもたちは、信じた。


 修道女も、たぶん信じたかった。


 灰色の外套の男だけが、荷馬車の陰で小声で言った。


「司祭様の別宅、思ったより高く売れましたね」


「主の恵みだろ」


 イレイナは、干し肉をかじりながら答えた。


「聖女様」


 小さな子どもが、イレイナの袖を引いた。


「お祈りしたら、また毛布、来る?」


 イレイナは一瞬だけ黙った。


 それから、しゃがみ込んで、子どもの目を見る。


「祈っとけ」


 子どもは、こくりとうなずく。


 イレイナは、にっと笑った。


「あたしはちゃんと聞いてるからよ」


 子どもは、よく分からない顔で笑った。


 イレイナも笑った。


 聖女イレイナ・ハングレイス。


 祈りを神に届ける聖女。


 そして、泣き叫ぶ声も神に届ける、異例の聖女である。


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― 新着の感想 ―
本物の聖女ってたぶんこういう人だよね…!!どこからでも金をむしり取ってくる人。強い宗教人って結局こういう人なのよね…
素晴らしいシスターだな 教会一つに1人欲しい
ザ必殺聖女★
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