黒ノ聖夜 BLACK SANCTION18
暗い暗い――真っ暗な世界。
音のない世界。
突き刺すように肌を貫く冷たさが、まるで全身を氷の鎖で縛りつけるように、クロウの身体を蝕んだ。
それは、かつて自由を奪われ、暗闇に閉じ込められていた頃の――自分自身の遠い記憶と重なる。
闇の向こうに揺らぐ光に――クロウはそっと手を伸ばした。
だが、指先は重い水圧に押し戻される。
届かないその光が、どんどん遠ざかっていって。
クロウは水底へと落ちてゆく。
意識が、黒い泥の中へと溶けていく。
目を閉じようとしたその時――全身に強い衝撃を受け、現実へと引き戻された。
◆◆◆◆◆
XX市に入って五日目の朝。
市内を分断する川のほとりで、クロウは乱暴に引き上げられた。
そして、勢いのまま河川敷の砂利の上へ放り捨てられた。
「ガッ、ごぼッ……! げほっ、げほっ!」
肺に溜まった泥水を吐き出す。喉が焼け付くように熱かった。
「大丈夫っすか、あんた。夜中に水泳なんて無茶にもほどがあるっす」
頭に皿を乗せた全身緑色の生き物――『河童』が呆れた顔で、体育座りをしてクロウを眺めていた。
「だれも、好きこのんで、泳いで、ねぇ……がはっ」
クロウは喉の奥にこびりついた水を吐き出すように、繰り返し咳をした。
しばらくして、ようやく呼吸が落ち着いてきたクロウは、口元を袖で拭い、河童に顔を向けた。
「すまん、水底から引き揚げてくれたんだよな。助かった。ありがとうな」
「おお、常識おぼえてきたっすね。相撲するっすか?」
空気相手に張り手をかます河童に、クロウは愛想なくひらひらと手を振った。
「あ、そうだ」
クロウは虚空へ無造作に手を突っ込んだ。
空間が陽炎のように揺らぎ、そこから白い『サンタの袋』を引きずり出す。
商店街で買ったまましまい込んでいた『きゅうり』を取り出して河童へと放り投げた。
「こんなもんしかねぇけど、とりあえず詫びの代わりだ」
河童は目を輝かせて大喜びで飛びついた。
「おお! またくれるなら、何度でも水底でおぼれていいっすよ」
「勘弁してくれ」
クロウは苦笑いを浮かべ、肩をすくめた。
そして、河童に別れを告げると、河川敷の階段を上り大通りへと移動した。
クロウは空を睨みつけた。
「タケル……待ってろよ。すぐに、ハーメルンのクソ野郎の首根っこ掴まえて、助けてやるからな」
それからクロウはずぶ濡れの身体を引き摺って、街の中心部へと足を運んだ。
一歩進むたびにアスファルトの上に黒い染みを作った。
水を吸った革のジャケットは鉛のように重く、動くたびにギュッ、ギュッ、と不快な音を立てて身体を締め付けた。
冬の冷気が濡れた肌を刺すが、歩くのをやめるわけにはいかなかった。
クロウの脳裏に一つの名前が浮かぶ。
タケルが『幽霊先生』を見た時に叫んだ名前――羽村。
クロウはズボンからスマホを取り出す。
「チッ、水没したか? ……最近の機種は防水性能上がってるって話だが、どうだ」
一抹の不安を覚えながら、端末横のボタンを押した。
液晶画面に光が灯り、ほっと胸を撫でおろした。
「よしよし、さすがにこれはクラウスに請求しづらいからな」
ブラウザを立ち上げて「XX市 羽村」で検索をかけてみた。
検索結果に現れたのは『市立病院 羽村院長(故)』の文字。
次に「XX市 市立病院」で検索をかける。
マップ上に、新市立病院と旧市立病院が表示された。
「……(故)、ねぇ。ちゃんと『幽霊』やってんじゃねぇか」
クロウは口角を吊り上げる。
死人が徘徊しているというなら、ピカピカの新病棟より、死の匂いが染みついた場所がお似合いだ。
なにより、羽村が院長だったのは旧市立病院時代。
クロウはさらに検索を続ける。
ネットで調べた限り、新市立病院は朝倉というやつが院長らしく、羽村の思い入れがあるとも思えない。
何より、子供を何人も隠しておくなら、人の目がある現役の病院より『廃墟』の方が都合がいいはずだ。
「さすがにこれはビンゴでしょ」
クロウは迷うことなく、「廃病院」となっている旧市立病院を目指すことにした。
旧市立病院の所在地をマップのアプリで確認する。
XX市のひときわ高い丘の上にあると、ピンが指し示していた。
ルート案内に任せて向かうだけの簡単な話――だったはずなのだが。
三時間ほど経過して、クロウは己の甘さを悔いていた。
どうやっても辿り着けないのだ。
坂を登りきったはずが、気づけば元の交差点に戻っている。目印にしていた看板が消失する。
まるで狐につままれたような感覚。いや、もっと質の悪い「迷路」だ。
「くそったれが!」
サンタの家、天狗の洞。
『幻想の者の隠れ家』には、招かれざる者は、入ることどころか『そこにある』と認識することすら許されない。
入ることができるのは中へと招かれた者か、幻想の者の『認識改変』の影響を受けない者か。
どちらにしても、旧市立病院は羽村が住み着くことにより、不可侵のエリアと化してしまったらしい。
やり方を変えねばならない。
クロウは砂を噛むような顔で、一度街の中心部へと引き返すことにした。
考え事がまとまらないまま、クロウは闇雲に道を歩く。
解決策が見つからないまま、時間だけが無慈悲に過ぎてゆく――。
ふと見上げれば、空は既に朱色に染まり、カラスが鳴きながら巣へと帰っていく時刻になっていた。
額にシワを寄せ、何かを睨みつけるようにして歩くクロウの脇を、一台の黒いワンボックスカーが猛スピードで通り過ぎてゆく。
その瞬間。排気ガスに混じって、不協和音のような強烈な違和感がクロウの神経を逆撫でした。
死への恐怖と、ドロドロとした悪意。そして微かにまとわりつく――あの無鉄砲な女記者の気配。
何かに引っ張られるように、クロウは勢いよく後ろを振り返った。




