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黒ノ聖夜 BLACK SANCTION  作者: さわやかシムラ


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黒ノ聖夜 BLACK SANCTION16

 申請用紙にペンを走らせる音が、静まり返ったフロアに響く。

 住所、氏名、閲覧目的。目的欄には、当たり障りのない言葉を選んで埋めた。


 用紙を受け取った職員は、奥のデスクにいる上司らしき人物と何かを話し込んでいる。

 チラチラとこちらに向けられる視線。

 良子は気づかないふりをして、手帳のページを整える動作を続けた。緊張で膝の内側に力が入り、太ももがじわじわと固まっていく。


 長い沈黙の後、職員が戻ってきた。その手には、黒いファイルが一冊、握られていた。


「……上に確認しました。今日は『閲覧のみ』で、仮の許可が出ました」


 事務的な口調だが、その声は先ほどよりも低い。良子は「ありがとうございます」と短く礼を言い、ファイルを受け取った。


 重い表紙をめくる。

 黒塗りの箇所が目立つ。個人名や、担当者名、口座情報の類が黒塗りされているようだ。

 だが、全てを隠すことはできていない。

 良子の指が、年度別の契約一覧を滑り落ちていく。


 五年前の五月。

 パンデミックの混乱がピークに達していた時期。


 項目:感染症対策資材一式(パーテーション板、卓上シールド、ビニールカーテン等)

 金額:三億四千万円。


 その横にある『契約相手方』の欄を見た瞬間、良子の指が止まった。


『株式会社 キヨタサプライ』


 心臓が早鐘を打つ。キヨタサプライ。昨日、倉庫街で訪れた、あの廃墟のような倉庫の会社だ。


 昨日の倉庫で見つけたメモには『支払 羽村先生 あとで精算』とあった。

 清田の弟さんの話によれば、この書き方であれば羽村先生個人での支払いに間違いがなさそうだった。

 つまり、資材の代金は羽村院長が私財で支払っている。

 それなのに、ここにある公文書では、市が同じ資材について『キヨタサプライ』に三億円以上を支払ったことになっている。


 商品は一つ。支払いは二つ。


 羽村の金で買った物を、市がもう一度買ったことにする。

 ――典型的な架空発注の形に、見える。


 そしてその金を受け取ったはずの『キヨタサプライ』は、兄が行方不明になり、経営破綻状態にある。

 三億四千万円は、キヨタサプライという幽霊を経由して、誰かの懐に消えたのだ。


「……じゃあ、このお金はどこへ行った?」


 良子はさらにページをめくる。

 単なる横領ではない。この街で動いた『もっと大きな金』があるはずだ。

 感染症対策費の次のページ。

 翌年度の予算計画の中に、桁違いの数字が並ぶ項目があった。


 事業名:『新市立病院建設事業』

 請負業者:『柘植(つげ)建設株式会社』


 その社名を見た瞬間、良子の脳内で散らばっていたパズルのピースが、恐ろしい音を立てて嵌まり込んだ。


 ――羽村院長は、この不正に気づいて反対したのではないか?

 あるいは、旧病院を取り壊して新病院を建てること自体に異を唱えたのかもしれない。


 邪魔になった羽村院長は消された。

 そして、その死因を「病死」として処理し、診断書を書ける人間が一人だけいる。


 ――朝倉院長。


 以前のインタビューでの彼の言葉が蘇る。

『公式には持病の悪化という表現に統一させていただいています』


 背筋が凍り付くようだった。

 羽村の死を偽装した朝倉は、見返りとして新病院の院長の椅子を手に入れたのではないか。

 市は架空発注で裏金を作り、その金を原資に、あるいは賄賂として『柘植建設』へ流し込み、巨大な公共事業を推し進めた。


 役所、病院、建設会社。

 この街の「権力」が三位一体となって仕組んだ、死体の上に成り立つ錬金術。


 良子の唇が震えた。

「……見つけた」

 これが『奇跡の街』の種明かしだ。

 もしそうであれば、どこかに羽村が調べた不正の証拠資料が残されているかもしれない。

 もちろん、既に闇に葬られている可能性もあるが――。


 良子は震える手で、手帳に『柘植建設』の文字と、相関図を殴り書きする。

 これ以上、ここにいてはいけない。

 背中に突き刺さるような視線の数が増えている気がした。


 ファイルを閉じ、カウンターへ返す。

「ありがとうございました」

 努めて冷静に、笑顔さえ作って見せたつもりだったが、職員は無表情のまま動かなかった。

 その目が、まるで監視カメラのように冷徹に良子を見据えている。


 良子は逃げるように庁舎を出た。


 外の空気は冷たいはずなのに、首筋には嫌な汗がまとわりついている。

 冬の空が高く、遠い。

 良子はマフラーに口元を沈めると、速足で歩き出した。


 早くホテルに戻って、データをまとめなければ。いや、一度東京のデスクに連絡を入れるべきか――。


 思考が空回りする。

 もし自分の推理が正しければ、相手はこの街そのものだ。

 たかだか一人のしがない記者が、生きて帰れる保証などどこにもない。


 アスファルトを見つめて歩く良子の背中に、誰かの視線がへばりついているような気がした。

 振り返っても、誰もいない。

 ただの被害妄想かもしれない。けれど、一度芽生えた恐怖は、心臓の音を嫌なリズムで早めさせた。


◆◆◆◆◆


 ホテル・ルミナリエが見えてくる頃には、日は傾きかけ、色あせたピンク色の外壁が夕焼けに染まり始めていた。

 元ラブホテルを改装したというこのホテルは、一階部分が吹き抜けの駐車場になっており、その奥にエントランスがある構造だ。


 良子は逃げ込むように、駐車場の薄暗いスペースへと足を踏み入れた。

 宿泊客の車はまばらだ。コンクリートの柱の影を抜け、自動ドアへ向かおうとした時だった。


 一台の車が、行く手を塞ぐように停まっていることに気づく。

 黒いワンボックスカー。

 スライドドアが、中途半端に開いていた。


 ――見たことがある。

 ホテル・ルミナリエの窓から見下ろした時に、夜の街を走っていたあの車だ。


「え?」


 疑問符が言葉になる前に、視界が暗転した。

 背後から伸びてきた太い腕が、良子の口元を乱暴に塞ぐ。

 薬品の匂い。革手袋の感触。

 悲鳴を上げようとしたが、喉の奥で押し殺された。


「ん、ぐっ――!」


 抵抗する間もなく、体ごと車内へ引きずり込まれる。

 車内から伸びた別の腕が、良子の足首を掴んだ。

 重いドアが閉まる音。外の光が遮断され、エンジン音が腹の底に響く。


 薄れゆく意識の中で、良子は思った。

 ああ、やっぱり。

 この街は、まだ『病気』にかかったままだ――。


◆◆◆◆◆


 冷たいコンクリートの感触で、良子は目を覚ました。

 頭が割れるように痛い。

 体を起こそうとして、手足が自由に動かないことに気づく。

 背中に通された長い鉄パイプに、手首と足首が結束バンドできつく固定されていた。


 (かび)臭い匂い。埃っぽい空気。

 薄暗い空間に、天井の高い鉄骨が見える。

 どこかの倉庫だ。


「……っ、」


 呻き声を上げ、身じろぎした時だった。

 視界の隅に、転がっている「何か」が映った。


 人間だ。

 男が一人、同じように後ろ手に縛られ、床に倒れている。

 作業着姿の、中年の男性だ。

 眼鏡が外れて床に落ちており、口元には殴られたような痕がある。


「……え?」


 見覚えがある。

 昨日、キヨタサプライの倉庫を訪ねた時に対応してくれた、あの男性だ。

 行方不明になった社長の弟で――。


 清田、さん……?

「んん、ん……!」


 声を出そうとした良子は、口元をタオルできつく縛られていたことに気付いた。

 それでも必死に声をあげようと喉を鳴らしたが、声が届いていないのか男はぴくりとも動かない。どうやら気絶しているようだった。


 昨日、「片付けを手伝ってくれてありがとう」と穏やかに笑っていた人物が、今はゴミのように床に転がされている。


 良子の背筋に、冷たいものが走り抜けた。

 ここは、あのキヨタサプライの倉庫だ。


 彼らは、証拠を見た良子だけでなく、この場所を管理している彼も消そうとしているのか。

 それとも、彼も何か「見てはいけないもの」を見つけてしまったのか。


 静まり返った倉庫に、風で建物がきしむ音だけが響いていた。

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