36 飛竜
ソレルは、いつもの端正な執事服の上から厚手のケープマントを羽織っていた。腰のベルトには、植物の採集や魔物の解体を見据えた頑強なコンバットナイフを差し、手には使い慣れた愛用の杖を携えている。その佇まいは、有能な使用人であると同時に、未知の領域へ挑む熟練の探索者のようでもあった。
現在のネクロエリシュオンは、主であるナナシの尽力により、中級ユニットを複数召喚できるまでに国力を高めている。山の入り口には、今回の任務を支援するために呼び出された二体の『パイコーン』が、主の命令を忠実に守り待機していた。
パイコーン――それは、かつての名馬が死してなお、強靭な骨と魔力の炎を宿して蘇ったアンデッド・ホースだ。その背には、頑丈な荷車のような運搬用装置がくくりつけられている。
「……さすがに飛竜の巨体を独りで引きずって山を下りるのは、非効率ですからね」
ソレルは、冷気を帯びた山脈を見上げながら独り呟く。 この運搬ユニットの配置は、ナナシの指示によるものだ。ソレルの万能さを信頼しつつも、移動や運搬といった物理的な負荷を軽減し、彼が「素材の選定」と「安全確保」に全力を注げるようにという、合理的かつ細やかな配慮だった。
「さて。主様が望まれる素材。滞りなく回収に参りましょうか」
ソレルはパイコーンたちに待機を命じると、軽やかな足取りで山道へと踏み入った。 執事としての優雅さを失わぬまま、その姿は一瞬にして険しい岩影へと溶け込んでいった。
◇
道中、『ドラゴンキャッスル』で確認されていないであろう未知の花や薬草、そして奇妙な光沢を放つ鉱石をいくつか採取し、所持しているカバンへと手際よく収めていく。
魔物との遭遇もすでに経験していた。背中に堅牢な岩石状の甲羅を背負った、巨大な亀のような魔物だ。 後にケッパーからの報告で『ロックタイタス』ということが分かるその魔物は、ソレルにとってはさしたる脅威ではなかった。急所を一突きで仕留められたその巨躯は、すでに麓で待機させているパイコーンの荷馬車へと運び込まれている。
しかし、肝心の「本命」とはまだ距離があった。
「……飛竜の姿は、まだこれほど遠いですか」
ソレルは杖を突き、眩しそうに目を細めて遥か上空を仰ぎ見た。 雲が流れるさらに上、標高の高い山頂付近を、複数の影が円を描くように悠然と周回している。その翼の広げ方、滑空の軌道は、間違いなく主が求めていた飛竜のそれであった。
(予想よりも高い高度を飛行しているようですね。向こうから獲物としてこちらを認識し、襲いかかってきてくれれば手間が省けるのですが……)
地上の「豆粒」ほどにしか見えないソレルに対し、飛竜たちは未だ警戒の素振りすら見せない。 ソレルは一考すると、再び杖を握り直し、険しい急勾配へと足を踏み出した。
「おびき寄せるには、もう少しばかり視界に入って差し上げる必要があるようです」
執事服の裾を汚さぬよう注意を払いながら、ソレルは静かに、飛竜たちが支配する領域へと登り始めた。
山頂付近。空気が薄く、肺を刺すような冷気が肌を撫でる。陽光はいっそう眩さを増し、後方に広がるネクロエリシュオンの城は、もはや指先に隠れるほど小さくなっていた。
「……そろそろ縄張りの最深部でしょうか」
耳を劈くような羽ばたきの音と、野性味溢れる咆哮が周囲に木霊する。すると、群れの一角を成す一体の飛竜がソレルを視認した。
「ギャーオ! ギャーオッ!」
高く、鋭い威嚇の声。ソレルはその姿を真正面から捉えた。
(いささか好都合ですね。このままの速度で間合いを詰めていただければ)
冒険者ギルドの資料によれば、ワイバーン(飛竜)は体長15メートルにも達する巨躯を誇り、環境に応じてその鱗の色を変えるという。竜種の中では下位に分類されるものの、並の冒険者では傷一つ付けられないほど硬質な鱗を纏っている。その戦術は多彩かつ凶悪で、高高度からの質量を乗せた急降下体当たり、しなやかな尾による広範囲の薙ぎ払い、そして口腔内に練り上げられた高温の火炎ブレスを主戦力とする。
ギルドが推奨する討伐基準は「対空手段を持つ金等級冒険者の複数人編成」。また、その遺骸は鱗、牙、骨、血に至るまで希少価値が高いため、可能な限りすべてを回収することが推奨されている。
(……紳士の嗜みとして多少の斬撃を飛ばすことはできますが、専門的な対空手段はありません。初手で機動力の要である翼を封じるのが上策ですね)
ソレルは愛用の杖を軽く握り直し、冷静に戦況を組み立てた。
獲物を仕留める確信を持った飛竜は、重力に従って急加速し、弾丸のような速度でソレルへ体当たりを仕掛けようと急降下する。対するソレルは微塵も揺るがない。流麗な動作で仕込み杖を左手に構え、わずかに重心を落とした。
一見すれば工芸品のような杖。だが、その内部には鋭い「刃」が眠っている。ソレルは右手を杖の柄へと添え、その「時」を待った。
飛竜の巨体が迫る。風圧がソレルの髪を乱し、巨大な顎が目前にまで迫った、その刹那。
飛竜は、野生の勘か生存本能か――ソレルの放つ静かな、しかし濃密な殺気を察知した。激突の直前で強引に翼を広げて風を掴み、急上昇してソレルの頭上を掠め飛んだのだ。
「……おや。突っ込んできてくだされば楽だったのですが」
期待外れだとばかりにソレルが呟く。直後、高度を稼いだ飛竜が大きく口を開いた。喉の奥で魔力が爆ぜ、眩い光と共に高温の火球が放たれる。
空から降り注ぐ、逃げ場のない熱の砲丸。ソレルは仕込み杖の柄を握る手にわずかな力を込める。
眼前に迫る火炎の塊、激突の刹那。ソレルが左手に携えた杖を、無造作とも取れる動きで一閃させた。
音もなく放たれた一撃。 眩い光を放っていた火球は、まるで見えない断層に阻まれたかのように中央から真っ二つに裂け、ソレルの左右を掠めて背後へと流れていく。
直後、後方の岩壁に激突した火炎が凄まじい轟音と共に爆ぜ、爆風が山頂の大気を激しく揺らした。巻き上がった土煙と熱波がソレルのケープマントを大きく翻すが、彼は眉一つ動かさず、ただ静かに杖を構え直した。
これほどの衝撃と轟音が響き渡っているにもかかわらず、奇妙なことに、上空を周回する他の飛竜たちはこの戦いに全く関心を示していない。まるで、この一帯だけが世界の耳目から隔絶された「沈黙の戦場」であるかのように、彼らは遥か遠い山影へと翼を向けていた。
(他の個体も呼んでくれれば手間が省けたのですが……。まずは、この不作法な一体を確実に仕留めねばならないようですね)
一方、上空の飛竜もまた、自身の放った必殺の火球が、羽虫を払うかのような動作で退けられたことに困惑し、旋回を止め、空中で激しく羽ばたきながらソレルを睨みつけていた。
「……私がメイジであれば、雷を呼び寄せたり、あるいは冷気で翼を凍らせて質量を増やしたりと、いかようにも料理できたのでしょうが。若様も、なかなか人が悪い」
ソレルは小さく溜息をつき、肩をすくめた。魔術という便利な手札を持たぬ自分を、この高高度の戦場へ送り出した主への、それは親愛の情を込めた苦言だった。
「……致し方ありません。やはり、私は私らしく行くとしましょう」
ソレルが腰を落とし、仕込み杖の柄に指をかけたその時、空気が震えた。 上空の飛竜が胸を大きく膨らませ、肺の奥底から魔力を絞り出している。先ほどまでの牽制とは明らかに次元が違う――それは、山肌を削り取るほどの破壊を予感させる猛威の予兆だった。
グォォォォォ……ッ!
一瞬の静寂。 次の瞬間、放たれたのは先ほどよりも一回り、いや二回りも巨大な火炎の塊だった。太陽の光さえも塗り潰すほどに輝く火球が、周囲の酸素を食らい尽くしながら、暴力的な熱波を伴ってソレルへと肉薄する。
(――見えましたよ、その『道』が)
ソレルは、迫りくる絶望的な熱量を前にしても、瞳から理知の光を失わなかった。 彼が狙うのは火球の回避ではない。その中心部、魔力が最も凝縮され「固形」に近い圧力を生んでいる一点。
ソレルは爆発的な踏み込みで地を蹴ると、その火球の「芯」を目掛けて跳躍した。
(――今です)
火球が直撃する寸前、ソレルは精密な動作で杖の鞘を火球の「芯」へと斜めに滑り込ませる。激突の瞬間に発生する凄まじい爆圧。本来なら吹き飛ばされるはずの衝撃を、ソレルは超人的な均衡感覚で「上方向への推進力」へと変換。爆ぜる炎を足場にするかのように、空中でその圧力を一蹴りし、 爆炎の中から飛び出したソレルの姿は、飛竜の予想を遥かに超える高度まで跳ね上がる。
飛竜が驚愕に目を剥いた時には、ソレルはすでにその頭上。ソレルは空中で体をひねり、右手に持った仕込み刀を逆手に持ち替え、重力を味方につけ、弾丸のような速度で飛竜の背へと急降下する。
「ギ、ギャッ!?」
空中で静かに、しかし電光石火の速さで仕込み杖の柄が引き抜かれ。 現れたのは、一切の虚飾を廃した、薄氷のように研ぎ澄まされた細身の刀身。ソレルは急降下の勢いのすべてをその一太刀に凝縮し、飛竜の首筋へ流麗な一閃を叩き込む。
魔術的な余韻などない、純粋な物理的破壊の極致。 飛竜の硬質な鱗を紙のごとく裂き、巨大な頚椎を断ち切った刃が、一瞬でその命を刈り取る…。
「ギ、……ッ」
断末魔の声すら上げられず、飛竜の首が宙を舞い、 直後、頭部を失い、翼の制御を失った十五メートル級の巨躯が、重力に従って真っ逆さまに山肌へと叩きつけられる。
ズドオォォーン!!
山頂一帯を震わせる凄まじい衝撃。土煙と雪が舞い上がり、遅れて飛竜の胴体がどろりとした鮮血を岩肌に広げながら沈黙する…。
ソレルは、落下の衝撃を殺しながらその巨体の傍らに音もなく着地。 愛刀に付着した血を、まるで汚れたナプキンを払うかのように一振りで拭うと、静かに鞘へと納める。
「……さて。仕留めるまでは良かったのですが、あとはこの巨体を引きずって下山ですか」
舞い上がる砂塵の中で、ソレルは独り溜息をつく。 麓ではパイコーンたちが待っているとはいえ、ここから合流地点まで、山道を通ってこの数百キロの「土産物」を運ぶ作業は、いかに万能な彼といえども骨が折れる仕事である。
「若様にお喜びいただくためとはいえ……。帰ったら、少し良い茶葉を奮発していただかねばなりませんね」
ソレルはケープマントを整えると、ネクロエリシュオンに向けて下山した。




