34 軽い運動
村長の家を後にし、セレーナは「調査」という建前を維持しながら、村の外へと足を踏み出した。 のどかな陽気とは裏腹に、彼女の神経はかつてないほど鋭敏に研ぎ澄まされていた。
(……やりづらいわね。監視されている可能性を考えると、迂闊に『氷鳥』は飛ばせない)
セレーナは手元の地図にペンを走らせるふりをしながら、思考を巡らせる。 最優先すべきは、先ほど遭遇した二人の「従者」の戦力分析だ。
(特に、あの桃色の髪のアニス。一見ただの少女だけど、あの身のこなしは本物よ。……もし戦いになったら、どう転ぶか分からない。白金級の私が負けるとは思いたくないけれど、あの底知れなさは……。それにエキナシア。彼女の言葉がどこまで真実かも不明だし、何より恐ろしいのは、あんな規格外の『従者』が、あの城にあと何人控えているのか見当もつかないことよ)
もし、あのような個体が軍団を成しているのだとしたら、一国の冒険者ギルド程度で太刀打ちできる相手ではない。
セレーナは村の周辺から、王国側の境界に広がる「オルカ大密林」へと調査の足を伸ばした。鬱蒼と茂る緑の深淵。本来なら魔物の巣窟であるはずのこの場所も、今は不気味なほどの静寂に包まれている。
(……境界線、ね。向こうが勝手に主張しているだけだとしても、どこまでを『ネクロエリシュオン』の領土だと考えているのか、あの子たちに聞いておくべきだったかしら)
かつては「空白の地」や「王国と帝国の緩衝地帯」として放置されていた場所が、未知の国家に塗り替えられている。セレーナは時折立ち止まり、魔物の気配が途絶えている不自然なポイントを記録していく。
(やはり、不自然だわ……。王国の外、ネクロエリシュオン側のオルカ大密林には魔物の気配が少なすぎる。意図的に間引かれているのか、あるいは…)
鬱蒼と茂る樹々が遮る視界の先、セレーナはさらに思考を深く沈める。
(このまま進めば帝国へ出るけれど、もしあの国が帝国と国交を結び……ましてや軍事同盟なんて結ばれたら、王国にとっては最悪のシナリオね。あんな規格外の『従者』たちが帝国の軍勢に加わるなんて、想像もしたくないわ。……一刻も早く、ジークハルト候にこの事実を伝えなければ。形だけの調査はもう十分、早急にここを離れるべきね)
数日の滞在という約束を反故にしてでも、今すぐ「氷鳥」を放つか、自らアイゼンフェストへ跳ぶべきだと決断した、その時。
「おやぁ? もお帰っちゃうんですかー?」
湿り気を帯びた密林の静寂にはおよそ似つかわしくない、間の抜けた、しかし心臓を掴むような声が奥の方から聞こえてくる。
セレーナが鋭く視線を向けた先、ゆっくりとこちらに歩いてくる、つい先ほど村長の家で別れたはずの桃色髪のメイド――アニスだった。
セレーナの手が、無意識に腰の剣へと伸びる。
「あはは、そんなに警戒しないでくださいよー」
アニスはツインテールを揺らし、悪びれる様子もなくニコニコと笑っている。
(……この短時間で追いついて、しかも先回りしたっていうの? この娘……本当に何者なの?)
「さてさて、調査はもう終わりです? それとも……どこか別の場所へ『お急ぎ』だったりしますー?」
アニスの瞳が、楽しげに、しかし獲物を逃さない捕食者のような光を湛えてセレーナを射抜いた。
アニスは、自身の頬に人差し指を当てて困ったように小首をかしげる。
「実を言うと、私最近、甘いものばっか食べててちょっと太っちゃったんですよねー。だから……冒険者様に、軽い運動に付き合ってほしいなーって」
ふわりとした口調。
だが、言い終わるか終わらないかの刹那。 アニスは背負っていた巨大な両刃斧を、重さを感じさせない速度で引き抜いた。風を断ち切る鋭い音が響き、白銀の刃がセレーナの頭上から振り下ろされる。
ドォォォォンッ! と、大気が震えるような衝撃音が密林に轟いた。
セレーナは一瞬の判断で懐の宝石の付いた短剣を抜き放ち、斜め前方へ踏み込みながらその一撃を受け流す。金属同士が激しくぶつかり合い、火花が二人の間で散った。
「なかなか物騒な挨拶ね。……こっちが本性かしら?」
「あはは、ジョークですよ、メ・イ・ド・ジョーク。言ったじゃないですか、ただの『運動』だって」
至近距離。斧の重圧を両手で支えながら、アニスは不敵に微笑んだ。彼女はそのまま斧の重さを利用して独楽のように体をひねり、周囲の樹々ごとセレーナをなぎ払おうと回転運動に移行する。
その異常な腕力と遠心力。まともに受ければ白金級といえど無傷では済まない。 セレーナは咄嗟に右足のつま先で地面を鋭く叩いた。
「――『地形変化・泥沼』!」
瞬時にアニスの足元の土がドロリとした粘土状の泥沼へと変化する。不意に足場を奪われたアニスは、完璧だった回転の軸をわずかに狂わせ、バランスを崩しかける。
その一瞬の隙を、セレーナは見逃さない。 彼女は後方へ大きく跳躍して距離を取ると、空中で指を弾いた。
「――『短距離転移』」
次の瞬間、セレーナの姿が陽炎のように揺らぎ、完全に消失した。視覚情報だけでなく、熱量、音、そして魔力の気配さえもが、まるで最初からそこに誰もいなかったかのように密林から消え去る。
辺りは、まるで初めから戦いがなかったかのような、不気味なまでの静寂に包み込まれた。
「……あーあ。無傷で逃げられちゃいましたよ。結構本気で挑んだのになー」
一人残されたアニスは、泥濘に埋まった足をひょいと引き抜き、斧を肩に担ぎ直した。
◇
密林の外、街道から大きく外れた岩場に、セレーナの姿が唐突に現れた。 だが、彼女はそこでも足を止めない。
息を軽く乱しながらも、彼女はさらに数度の短距離転移を繰り返した。
ようやく、堅牢な城壁を誇るアイゼンフェストの影が視界に入った頃、セレーナは転移を止め、岩陰に身を隠して大きく息を吐く。
(ここまで来れば、ひとまずは安全かしらね……)
一対一なら勝機はあったかもしれない。だが、あの金髪の医者、そしてまだ見ぬ「主」の存在。あの城には、アニスと同等か、あるいはそれ以上の「異常」が潜んでいる可能性が高い。
「……アイゼンフェストに留まるのも危険ね。まずは情報を整理して王都へ届けないと」
セレーナは城塞都市の門をくぐることなく、その外周から一気に空へと舞い上がった。 目指すは王国の心臓部、王都アレクサンドリア。
(ジークハルト候……。あなたの懸念は、最悪の形で的中していたわ。平和な農村のすぐ隣に、世界を塗り替えかねない『奈落の底』が開いている)
風を切り進むセレーナの瞳には、かつてないほどの焦燥と決意が宿っていた。彼女が運ぶこの報せが、王国を、そして大陸の情勢を大きく揺るがすことになるのは明白だった。




