表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

町田さん

作者: ちか

 私が今も時折、夜中に目を覚まして思い出すのは、町田さんの笑顔だ。

 少しだけ恥ずかしそうに歯を見せ、目尻に細かい皺を寄せて「いやいや、たいしたことじゃないですよ」と言うときの顔。町内に住む誰もが、その笑顔に救われた経験が一度はあっただろうと思う。


 

町田さんは五十代半ば。背は低く、少し腰が曲がりかけていたけれど、いつも小ぎれいにしていた。シャツの襟はきちんとアイロンがかけられていて、靴も磨かれている。

 奥さんを数年前に亡くしたと聞いていた。子どもはいない。だから独り暮らしのはずなのに、寂しさや荒れた雰囲気はまるでなく、むしろ家の前はいつも花が整えられ、塀は白く塗り直されていた。


 町内会の掃除があると、必ず一番に出てきて、泥の詰まった側溝に膝まで手を突っ込んでさらってくれる。

 ある年の大雨の翌日、道路に散乱した枯れ枝を片付けるときも、率先して働いた。誰も気づかないような細かい枝まで拾い集めて、袋いっぱいにしていた。


 それだけじゃない。町田さんが“いい人”だと誰もが思っているのは、ちょっとした場面での気遣いのせいだ。

 たとえば、買い物帰りに荷物を持ちすぎて困っていたおばあさんを見れば、当然のように家まで運んでいく。

 夏休み、虫取り網をなくして泣いている子どもがいれば、自分の物置から一本出してきて「使いなさい」と渡す。

 冬の寒い日には、郵便屋が凍えた手でポストに手紙を入れていると、さっと出てきて缶コーヒーを差し出す。


 私は一度、自分でも驚くほど町田さんに甘えたことがある。

 夜遅く帰宅したとき、玄関の電球が切れていることに気づいた。真っ暗な中で鍵を探すのに苦労していたら、翌日の夕方には新しい電球が取り付けられていた。誰がやったのかと思えば、やっぱり町田さんだった。「ああ、余ってたのがあったからね」と、笑って言った。

 そんなふうに、さりげなく人の困りごとを解決してしまう人だった。


 だから、町内で彼を悪く言う人は一人もいなかった。

 むしろ「町田さんのようになりたい」と口にする人さえいた。

 それほどまでに、町田さんは“いい人”だったのだ。



 三月の初めだったと思う。まだ風は冷たく、夕方には吐く息が白くなるような頃だ。

 私はスーパーで買い物を済ませ、両手に袋を下げて帰る途中で、町田さんに出会った。


 最初は、いつもの笑顔だった。

 だが、よく見ると、その両腕には大量のペットボトルが抱えられていた。五十本はあっただろう。すべて空で、ラベルはきれいに剥がされていた。カラカラと不規則に音を立てながら揺れている。


「こんばんは、町田さん」

 私は声をかけた。


「こんばんは。いい日ですね」

 町田さんは笑って、軽く会釈をした。


 そのまま彼は、近くの公園へと入っていった。私は何となく気になって、数歩あとをつけた。

 公園の奥は街灯もまばらで、昼間でも薄暗い場所だ。町田さんはそこへ入り、地面にペットボトルを並べはじめた。

 円を描くように並べ、さらにその内側に三角形を作り、また円を重ねる。見たこともない模様。彼はひどく真剣な表情で、一本一本を丁寧に置いていった。


 背筋に冷たいものが走った。声をかけようか迷ったが、結局できなかった。スーパーの袋を抱えたまま、私は小走りでその場を離れた。


 次の日。

 町田さんの庭に、大きな穴がいくつも掘られているのを見た。スコップで掘り返した土が山のように積まれ、穴の中に彼が何かを埋めている。

「おはようございます」と声をかけたが、町田さんは気づかないふりをした。私のほうを一度も見ずに、黙々と作業を続けていた。


 噂はすぐに広まった。

「最近の町田さん、ちょっと変よ」

「夜中に庭を掘り返してるらしいわ」

「でも、あの町田さんだし……」


 誰もがそう言って、深くは追求しない。これまでの“いい人”の印象が強すぎて、不信感を口にすることさえ後ろめたく思えるのだ。

 私もまた、その一人だった。


 けれど、異変は日ごとに強まっていった。


 ある夜、窓の外から大声が聞こえた。誰かと口論しているようだった。

 驚いて窓を開けると、道の真ん中に町田さんが立っていた。誰もいない暗闇に向かって怒鳴り、笑い、何かを諭すように手を振っている。

 その手には、あの空のペットボトルが握られていた。


 

 さらに別の日。買い物袋いっぱいに生肉を抱えて帰る姿を見かけた人がいた。「何に使うんですか?」と恐る恐る尋ねたら、町田さんはにっこり笑って「……あの子らが喜ぶから」と答えたそうだ。

 その話を聞いたとき、私はぞっとした。あの子ら? 子どもはいないはずなのに。


 少しずつ、町田さんの輪郭が崩れていく。

 “いい人”の仮面の下から、何か得体の知れないものがにじみ出しているように思えた。


もう放っておけない、と思った。

 町田さんの異変は、近所の誰もが知っているのに、誰も正面から触れようとしなかった。「でも、あの町田さんだし」と言って、自分の心に言い訳をしている。私も同じだった。


 けれど、ある晩、家の前の道を通る町田さんを見たとき、決定的に感じた。

 両手にスーパーの袋を提げ、そこから赤黒い肉がこぼれ落ちそうになっている。町田さんは気づかず、あるいは気にせず、にやにやと笑いながら歩いていた。

 そして、ふと立ち止まると、空へ向かって話しかけたのだ。

 「……もう少し待ってて。今度はうまくいく」

 そう囁くように言い、誰もいない暗闇に頷いて見せた。


 その瞬間、私は背筋が凍った。これはもう普通じゃない。

 このままでは取り返しがつかないことになる。そう直感した。


 次の日、私は寺を訪ねた。町内で唯一「そういうもの」に詳しいと噂されている住職に会うためだ。

 古い木の扉を開け、線香の匂いの漂う本堂で、私はこれまでのことをすべて話した。町田さんの優しさ、そして少しずつ壊れていった様子を。


 住職は長いあいだ黙って聞いていた。私の声が震えていたのかもしれない。言葉を吐き出すたびに、胸の奥に冷たい石が沈んでいくようだった。

 やがて住職は、合掌をほどき、低く言った。


「……その人は、人ではありません」


 私は耳を疑った。

「どういうことですか? 町田さんは、ずっと私たちに良くしてくれて……昨日だって、挨拶してくれました」


 住職は目を閉じ、深く息をついた。

「人は、人ならざるものに憑かれることがあります。念や怨み、あるいは長い年月の淀み……。それに呑まれると、人の形を保ちながら、人ではなくなってしまうのです」


 私は唖然とした。

 理解できない。だが、胸のどこかでは、その言葉が恐ろしいほど腑に落ちる感覚もあった。

 あの夜の笑み。誰もいない闇に向かっての会話。「あの子らが喜ぶ」という意味不明な言葉。すべてがひとつに繋がった気がした。


「……助けられないんですか?」

 自分でも情けないほど弱々しい声で尋ねた。


 住職はしばらく考え込み、そして首を横に振った。

「手を出せば、あなた自身が呑まれてしまいます。……残念ながら、戻ることは難しいでしょう」


 私は言葉を失った。

 けれど、それでもどこかで信じていた。町田さんは“いい人”なのだ。まだ間に合うかもしれない。


 そう思いたかった。


あの日から、町田さんの姿を見るのが恐ろしくなった。

 でも、目を背けることもできなかった。あの人は、私の町内に確かに存在していたのだから。


 ある晩、夜風に吹かれながら家の前の道を歩いていると、ふと気配を感じた。

 闇の中に立つ町田さん。肩はかろうじて人の形を保っているが、何かが違う。目の奥に光はなく、表情は笑っているのに口元が不自然に引きつっていた。


 私が立ち止まると、町田さんもこちらを見た。

 しかし、その視線はどこか遠くを見ているようで、私の存在を完全には認識していないように見えた。

 それでも、にやりと笑い、空っぽのペットボトルを手にして、こう言った。


「……来るな、こっちに来るな」


 その声は町田さんの声だ。だが、どこか低く、硬質で、機械的な響きが混じっていた。

 私は息を呑み、足を止めた。


 その夜、町田さんは家々を巡るように歩いていた。

 ゴミ捨て場の周りを何度もぐるぐる回り、そこに捨てられた古い人形や壊れた椅子の破片を拾い、並べては呟く。

 「まだ……まだだ……」

 言葉の意味は分からない。だが、胸に不吉な空気が重くのしかかる。


 次第に、町田さんの行動は狂気じみていった。

 日中でも誰かを無視して話しかけ、答えが返らないと小さく舌打ちをする。

 買い物に行っても、精肉売り場で何かをつぶやきながら肉を袋に詰め、誰にも渡さず歩く。

 町田さんの周囲には、次第に奇妙な沈黙が生まれ、人々は近づかなくなった。


 ある夜、私は意を決して町田さんの家を遠巻きに見た。

 庭は、まるで祭壇のように変わり果てていた。穴がいくつも掘られ、土の上にはペットボトルや小さな人形、古い衣服の切れ端が散乱している。

 町田さんは穴の前に立ち、両手を空に向けて何度も繰り返し祈るように呟いていた。

 「もう、戻らない……もう、戻らない……」


 その瞬間、私は凍りついた。

 住職が言っていたことを思い出す。

 ――「念や恨みが積もると、人は人の形を保てなくなる」

 目の前の町田さんは、まさにその状態だったのだ。人のようで人ではない。心も形も、私たちの知っている町田さんではない。


 翌朝、町田さんの家は静まり返っていた。庭には掘られた穴が残り、町田さんの姿はどこにもなかった。

 近所の人に尋ねても、誰も知らない。

 町田さんは、文字通り“消えてしまった”のだ。


 あの夜、庭で何をしていたのか。

 どこへ行ったのか。

 誰にも分からない。


町田さんが消えてから、町内の空気は微妙に変わった。

 普段なら通りを歩く子どもたちの笑い声も、少し抑えられている。誰も口に出さないけれど、皆が「あの人はどうなったのか」と思っているのだろう。


 私はもう一度、住職を訪ねる決心をした。

 どうして町田さんが“人ではなくなった”のか、そして、あの夜の庭で一体何が起きていたのか、知りたかった。


 本堂に座る住職は、穏やかな表情のままだったが、その目には疲労の色がにじんでいるように見えた。

 私は静かに尋ねた。


「町田さんは……どうしてああなったんですか。人ではないって、どういう意味ですか」


 住職はしばらく目を閉じ、息をついた。

 そして低い声で言った。


「人は、誰でも念や恨み、後悔や怒りに囚われることがあります。普通はそれらを自分の中で処理して、日常の中で薄めていく。

 しかし、強い念が長く積み重なると、人の心を、人の体を、少しずつ変えてしまうことがある。

 町田さんは……そういうものに呑まれてしまったのです」


 私は黙って聞いた。言葉が出なかった。

 住職は続けた。


「昔の町田さんは確かに、いい人でした。人を助け、周囲を思いやる……だが、人間が背負いきれない念や恨みが、彼を変えてしまった。

 ……もう戻すことはできませんでした」


 私は小さく息を吐いた。

 理解はできた。けれど、胸の奥底で納得できない自分もいた。あの笑顔、あの優しさは本当に消えてしまったのだろうか、と。


 住職は私の手を軽く握り、最後に言った。


「知っておいてください。人が変わってしまうことは、誰のせいでもありません。ましてや罰でもない。

 ただ、念や恨みは、静かに、そして確実に人を変えてしまう。町田さんもまた、その犠牲の一つです」


 寺を出ると、町内は夕暮れに包まれていた。

 私の目には、普段と変わらない住宅街が広がっている。だが、どこか冷たい空気が漂っているように感じられた。


 町田さんは今、どこにいるのだろう。

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ