町田さん
私が今も時折、夜中に目を覚まして思い出すのは、町田さんの笑顔だ。
少しだけ恥ずかしそうに歯を見せ、目尻に細かい皺を寄せて「いやいや、たいしたことじゃないですよ」と言うときの顔。町内に住む誰もが、その笑顔に救われた経験が一度はあっただろうと思う。
町田さんは五十代半ば。背は低く、少し腰が曲がりかけていたけれど、いつも小ぎれいにしていた。シャツの襟はきちんとアイロンがかけられていて、靴も磨かれている。
奥さんを数年前に亡くしたと聞いていた。子どもはいない。だから独り暮らしのはずなのに、寂しさや荒れた雰囲気はまるでなく、むしろ家の前はいつも花が整えられ、塀は白く塗り直されていた。
町内会の掃除があると、必ず一番に出てきて、泥の詰まった側溝に膝まで手を突っ込んでさらってくれる。
ある年の大雨の翌日、道路に散乱した枯れ枝を片付けるときも、率先して働いた。誰も気づかないような細かい枝まで拾い集めて、袋いっぱいにしていた。
それだけじゃない。町田さんが“いい人”だと誰もが思っているのは、ちょっとした場面での気遣いのせいだ。
たとえば、買い物帰りに荷物を持ちすぎて困っていたおばあさんを見れば、当然のように家まで運んでいく。
夏休み、虫取り網をなくして泣いている子どもがいれば、自分の物置から一本出してきて「使いなさい」と渡す。
冬の寒い日には、郵便屋が凍えた手でポストに手紙を入れていると、さっと出てきて缶コーヒーを差し出す。
私は一度、自分でも驚くほど町田さんに甘えたことがある。
夜遅く帰宅したとき、玄関の電球が切れていることに気づいた。真っ暗な中で鍵を探すのに苦労していたら、翌日の夕方には新しい電球が取り付けられていた。誰がやったのかと思えば、やっぱり町田さんだった。「ああ、余ってたのがあったからね」と、笑って言った。
そんなふうに、さりげなく人の困りごとを解決してしまう人だった。
だから、町内で彼を悪く言う人は一人もいなかった。
むしろ「町田さんのようになりたい」と口にする人さえいた。
それほどまでに、町田さんは“いい人”だったのだ。
三月の初めだったと思う。まだ風は冷たく、夕方には吐く息が白くなるような頃だ。
私はスーパーで買い物を済ませ、両手に袋を下げて帰る途中で、町田さんに出会った。
最初は、いつもの笑顔だった。
だが、よく見ると、その両腕には大量のペットボトルが抱えられていた。五十本はあっただろう。すべて空で、ラベルはきれいに剥がされていた。カラカラと不規則に音を立てながら揺れている。
「こんばんは、町田さん」
私は声をかけた。
「こんばんは。いい日ですね」
町田さんは笑って、軽く会釈をした。
そのまま彼は、近くの公園へと入っていった。私は何となく気になって、数歩あとをつけた。
公園の奥は街灯もまばらで、昼間でも薄暗い場所だ。町田さんはそこへ入り、地面にペットボトルを並べはじめた。
円を描くように並べ、さらにその内側に三角形を作り、また円を重ねる。見たこともない模様。彼はひどく真剣な表情で、一本一本を丁寧に置いていった。
背筋に冷たいものが走った。声をかけようか迷ったが、結局できなかった。スーパーの袋を抱えたまま、私は小走りでその場を離れた。
次の日。
町田さんの庭に、大きな穴がいくつも掘られているのを見た。スコップで掘り返した土が山のように積まれ、穴の中に彼が何かを埋めている。
「おはようございます」と声をかけたが、町田さんは気づかないふりをした。私のほうを一度も見ずに、黙々と作業を続けていた。
噂はすぐに広まった。
「最近の町田さん、ちょっと変よ」
「夜中に庭を掘り返してるらしいわ」
「でも、あの町田さんだし……」
誰もがそう言って、深くは追求しない。これまでの“いい人”の印象が強すぎて、不信感を口にすることさえ後ろめたく思えるのだ。
私もまた、その一人だった。
けれど、異変は日ごとに強まっていった。
ある夜、窓の外から大声が聞こえた。誰かと口論しているようだった。
驚いて窓を開けると、道の真ん中に町田さんが立っていた。誰もいない暗闇に向かって怒鳴り、笑い、何かを諭すように手を振っている。
その手には、あの空のペットボトルが握られていた。
さらに別の日。買い物袋いっぱいに生肉を抱えて帰る姿を見かけた人がいた。「何に使うんですか?」と恐る恐る尋ねたら、町田さんはにっこり笑って「……あの子らが喜ぶから」と答えたそうだ。
その話を聞いたとき、私はぞっとした。あの子ら? 子どもはいないはずなのに。
少しずつ、町田さんの輪郭が崩れていく。
“いい人”の仮面の下から、何か得体の知れないものがにじみ出しているように思えた。
もう放っておけない、と思った。
町田さんの異変は、近所の誰もが知っているのに、誰も正面から触れようとしなかった。「でも、あの町田さんだし」と言って、自分の心に言い訳をしている。私も同じだった。
けれど、ある晩、家の前の道を通る町田さんを見たとき、決定的に感じた。
両手にスーパーの袋を提げ、そこから赤黒い肉がこぼれ落ちそうになっている。町田さんは気づかず、あるいは気にせず、にやにやと笑いながら歩いていた。
そして、ふと立ち止まると、空へ向かって話しかけたのだ。
「……もう少し待ってて。今度はうまくいく」
そう囁くように言い、誰もいない暗闇に頷いて見せた。
その瞬間、私は背筋が凍った。これはもう普通じゃない。
このままでは取り返しがつかないことになる。そう直感した。
次の日、私は寺を訪ねた。町内で唯一「そういうもの」に詳しいと噂されている住職に会うためだ。
古い木の扉を開け、線香の匂いの漂う本堂で、私はこれまでのことをすべて話した。町田さんの優しさ、そして少しずつ壊れていった様子を。
住職は長いあいだ黙って聞いていた。私の声が震えていたのかもしれない。言葉を吐き出すたびに、胸の奥に冷たい石が沈んでいくようだった。
やがて住職は、合掌をほどき、低く言った。
「……その人は、人ではありません」
私は耳を疑った。
「どういうことですか? 町田さんは、ずっと私たちに良くしてくれて……昨日だって、挨拶してくれました」
住職は目を閉じ、深く息をついた。
「人は、人ならざるものに憑かれることがあります。念や怨み、あるいは長い年月の淀み……。それに呑まれると、人の形を保ちながら、人ではなくなってしまうのです」
私は唖然とした。
理解できない。だが、胸のどこかでは、その言葉が恐ろしいほど腑に落ちる感覚もあった。
あの夜の笑み。誰もいない闇に向かっての会話。「あの子らが喜ぶ」という意味不明な言葉。すべてがひとつに繋がった気がした。
「……助けられないんですか?」
自分でも情けないほど弱々しい声で尋ねた。
住職はしばらく考え込み、そして首を横に振った。
「手を出せば、あなた自身が呑まれてしまいます。……残念ながら、戻ることは難しいでしょう」
私は言葉を失った。
けれど、それでもどこかで信じていた。町田さんは“いい人”なのだ。まだ間に合うかもしれない。
そう思いたかった。
あの日から、町田さんの姿を見るのが恐ろしくなった。
でも、目を背けることもできなかった。あの人は、私の町内に確かに存在していたのだから。
ある晩、夜風に吹かれながら家の前の道を歩いていると、ふと気配を感じた。
闇の中に立つ町田さん。肩はかろうじて人の形を保っているが、何かが違う。目の奥に光はなく、表情は笑っているのに口元が不自然に引きつっていた。
私が立ち止まると、町田さんもこちらを見た。
しかし、その視線はどこか遠くを見ているようで、私の存在を完全には認識していないように見えた。
それでも、にやりと笑い、空っぽのペットボトルを手にして、こう言った。
「……来るな、こっちに来るな」
その声は町田さんの声だ。だが、どこか低く、硬質で、機械的な響きが混じっていた。
私は息を呑み、足を止めた。
その夜、町田さんは家々を巡るように歩いていた。
ゴミ捨て場の周りを何度もぐるぐる回り、そこに捨てられた古い人形や壊れた椅子の破片を拾い、並べては呟く。
「まだ……まだだ……」
言葉の意味は分からない。だが、胸に不吉な空気が重くのしかかる。
次第に、町田さんの行動は狂気じみていった。
日中でも誰かを無視して話しかけ、答えが返らないと小さく舌打ちをする。
買い物に行っても、精肉売り場で何かをつぶやきながら肉を袋に詰め、誰にも渡さず歩く。
町田さんの周囲には、次第に奇妙な沈黙が生まれ、人々は近づかなくなった。
ある夜、私は意を決して町田さんの家を遠巻きに見た。
庭は、まるで祭壇のように変わり果てていた。穴がいくつも掘られ、土の上にはペットボトルや小さな人形、古い衣服の切れ端が散乱している。
町田さんは穴の前に立ち、両手を空に向けて何度も繰り返し祈るように呟いていた。
「もう、戻らない……もう、戻らない……」
その瞬間、私は凍りついた。
住職が言っていたことを思い出す。
――「念や恨みが積もると、人は人の形を保てなくなる」
目の前の町田さんは、まさにその状態だったのだ。人のようで人ではない。心も形も、私たちの知っている町田さんではない。
翌朝、町田さんの家は静まり返っていた。庭には掘られた穴が残り、町田さんの姿はどこにもなかった。
近所の人に尋ねても、誰も知らない。
町田さんは、文字通り“消えてしまった”のだ。
あの夜、庭で何をしていたのか。
どこへ行ったのか。
誰にも分からない。
町田さんが消えてから、町内の空気は微妙に変わった。
普段なら通りを歩く子どもたちの笑い声も、少し抑えられている。誰も口に出さないけれど、皆が「あの人はどうなったのか」と思っているのだろう。
私はもう一度、住職を訪ねる決心をした。
どうして町田さんが“人ではなくなった”のか、そして、あの夜の庭で一体何が起きていたのか、知りたかった。
本堂に座る住職は、穏やかな表情のままだったが、その目には疲労の色がにじんでいるように見えた。
私は静かに尋ねた。
「町田さんは……どうしてああなったんですか。人ではないって、どういう意味ですか」
住職はしばらく目を閉じ、息をついた。
そして低い声で言った。
「人は、誰でも念や恨み、後悔や怒りに囚われることがあります。普通はそれらを自分の中で処理して、日常の中で薄めていく。
しかし、強い念が長く積み重なると、人の心を、人の体を、少しずつ変えてしまうことがある。
町田さんは……そういうものに呑まれてしまったのです」
私は黙って聞いた。言葉が出なかった。
住職は続けた。
「昔の町田さんは確かに、いい人でした。人を助け、周囲を思いやる……だが、人間が背負いきれない念や恨みが、彼を変えてしまった。
……もう戻すことはできませんでした」
私は小さく息を吐いた。
理解はできた。けれど、胸の奥底で納得できない自分もいた。あの笑顔、あの優しさは本当に消えてしまったのだろうか、と。
住職は私の手を軽く握り、最後に言った。
「知っておいてください。人が変わってしまうことは、誰のせいでもありません。ましてや罰でもない。
ただ、念や恨みは、静かに、そして確実に人を変えてしまう。町田さんもまた、その犠牲の一つです」
寺を出ると、町内は夕暮れに包まれていた。
私の目には、普段と変わらない住宅街が広がっている。だが、どこか冷たい空気が漂っているように感じられた。
町田さんは今、どこにいるのだろう。