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ホラー短編集

【夏のホラー2025】霧の橋

霧も、また水だ。見知らぬ声に導かれる、王道の怪談。だが、その声の正体が、優しさではなかったとしたら?

 その橋は、地元では「霧窪きりくぼの橋」と呼ばれていた。


 山奥の深い谷に架かる、古びた吊り橋。なぜか、一年中、そこだけ、ありえないほど濃い霧が晴れることがない。


「あの霧の中で道に迷うと、親切な声が、出口まで案内してくれるんだとさ」


 心霊スポット巡りが趣味の友人、ヨウスケが、興奮気味に言った。


「ただし、絶対に、声にお礼を言ったり、振り返ったりしちゃいけない。そうしないと、橋から突き落とされるんだって」


 俺、タカシは、くだらない、と鼻で笑った。どうせ、ただの言い伝えだ。


 俺たちは、その馬鹿げた伝説を試すために、夏の夜、その橋へと向かった。


 月明かりの下、黒いシルエットとなって浮かび上がる吊り橋は、確かに、不気味な雰囲気を漂わせていた。橋の入り口から、白い霧が、まるで生き物のように、ゆっくりと、溢れ出してくる。


「……行こうぜ」


 ヨウスケに促され、俺たちは、一歩、また一歩と、霧の中へと足を踏み入れた。


 ひやり、と、湿った空気が肌を撫でる。数歩も進むと、もう、何も見えなくなった。自分の手さえ、ぼんやりと霞んで見える。方向感覚が、完全に、狂っていく。


 川の流れる音が、谷底から、ごう、と響いてくるが、それも、分厚い霧に吸い込まれて、どこか遠くに聞こえる。


「お、おい、タカシ……どこだ?」


 すぐそばにいるはずの、ヨウスケの声が、壁の向こうから聞こえるように、くぐもっている。


「すぐ、ここにいる」


 そう答えた俺の声も、自分のものとは思えないほど、弱々しく響いた。


 やばい。これは、本当に、まずいかもしれない。


 恐怖が、じわり、と、背筋を這い上がってくる。


 その時だった。


『……こっちだ。まっすぐ、進め……』


 霧の奥から、声がした。


 男の声だ。穏やかで、静かで、不思議と、落ち着く声だった。


「で、出た! 案内の声だ!」


 ヨウスケが、歓喜の声を上げる。


 俺は、声のした方角を、必死で探った。だが、声は、どこからともなく、霧全体から、響いてくるようだった。


『……足元に、気をつけろ。板が、一枚、腐っている……』


 言われた通り、足で探ってみると、確かに、ぐらりと、沈む場所があった。


『……そうだ。うまい。あと、十歩ほど、まっすぐだ……』


 声に導かれるまま、俺たちは、夢中で歩いた。


 やがて、白い霧の向こうに、ぼんやりと、橋の出口が見えてきた。


 助かった。


 霧を抜け、アスファルトの固い地面を踏んだ瞬間、全身の力が、抜けていく。


「す、すげえ……本当に、助けてくれた……!」


 ヨウスケが、興奮した様子で、振り返り、霧に向かって、大声で、叫んだ。


「ありがとうございました!」


 やめろ、と、俺が叫ぶよりも、早く。


 霧の奥から、返事があった。


 だが、それは、もう、穏やかな声ではなかった。


 それは、驚きと、絶望と、そして、永遠に続くかのような、深い、深い、混乱に満ちた、声だった。


『……助かった? 出口は、どこだ……? なぜ、お前たちだけ……』


『……痛い。寒い。ずっと、落ちて……』


 瞬間、霧が、風に流されるように、さあっと、晴れていく。


 俺たちは、橋のたもとに、立っていた。


 ヨウスケは、ただ、呆然と、橋の下、遥か下の谷底を、見つめていた。その顔は、蝋のように、真っ白だった。


 俺も、恐る恐る、その視線の先を、追った。


 遥か下の、川辺の岩場に、何か、白いものが、転がっている。


 それは、砕け散った、人骨だった。


 俺たちは、理解した。


 あの声は、道案内などではなかった。


 あれは、何十年も前に、この橋から、足を踏み外し、落ちて死んだ男の、最後の、数秒間の記憶。


 ただ、その、死ぬ間際の、混乱した思考が、この霧の中に、エコーのように、ずっと、ずっと、響いていただけなのだ。


 俺たちは、導かれたのではない。ただ、運良く、出口にたどり着いただけ。


 そして、ヨウスケは、その、永遠に落ち続ける魂に、声を、かけてしまったのだ。


「……まだ、落ちてる……」


 ヨウスケが、うわごとのように、呟いた。


「あの人が、ずっと、落ちてくるんだ……」


 彼の瞳は、もう、俺を見てはいなかった。ただ、何もない、橋の下の闇を、見つめ続けていた。

善意だと思っていたものが、実は、悪意のない、ただの現象だった。それが一番、救いがなくて怖いよな。

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