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砂漠

作者: 浦平魯都

 靴底に溜まった砂利が蹠を不快に刺激してくる。首筋を伝う汗飛沫をハンドタオルで拭いながら、自動販売機の前に立ち、右手の人差し指を彷徨わせていると、

「ふふ、めっちゃ悩むやん」

と後方で先輩が苦笑している。いつまでも己の迷いと共に膠着状態にある訳にはいかないので、こうなったら運試しだと目を瞑って勢いよくボタンを押す。ぴ、と音がなって、目を開けると、私は抹茶ラテのボタンを選択していた。先輩が待機しているので、急いでボトルを取り出し首元に当てる。首元には太い血管が走っているので、熱るからだを効果的に冷ますには首を冷却するのが最善の手段。新入生だった私に対して、先輩は大げさな身振り手振りを交えつ丁寧に説明してくれた。独特なぎこちない動作に思わず変なタイミングで吹き出してしまい、微妙な雰囲気に包まれたのも、懐かしい記憶だ。

 私と入れ替わるように自販機の前に立った先輩は熟れた動きで硬貨を投入し、三段目の右から二列目に配置された檸檬味の炭酸水のボタンを押す。がたん、と無愛想に吐き出されたボトルを屈んで取り出す先輩。半袖体操服なので、彼女の細長い脚部は夏陽に照らされ思わず目を背けてしまうような輝きを放っている。生微温い唾が頬に溜まる。

「ちゃんと飲まないと脱水になっちゃうよ、後輩ちゃん。それに、あんまり首冷やしすぎると自律神経に影響あるとか。知らんけど」

 清涼飲料水が先輩の手の中で碧く煌めいている。この夏空を反射しているのだろうか。彼女は蓋を開けてボトルを口につけ傾ける。波打つ先輩の喉に汗粒が光っている。まるで泡立つ碧空を飲み込んでいるみたいだ。

 先輩のあとに続くようにして、体温で少し温まった抹茶ラテを飲み干す。程よい甘さと苦さが渇いた喉を潤す。仰いだ空は、雲ひとつ無く、暴力的なまでの青さを見せびらかしている。恐いくらいに、青い。

「後輩ちゃん、まだ遊ぶ?」

「先輩は受験勉強で大変なのでは」

「後輩ちゃんのためなら夏季長期休暇の一日くらいくれてやるよ。一日なら取り返せる」

 軽やかな仕草でぴょんと飛び跳ねる先輩。微妙に明るい色に染まったポニーテールがやわらかく揺れる。一日なら取り返せる。その言葉が胃に強く響く。少しだけボトルの底に余った炭酸水に、無数の泡沫が音も立てず浮かんでは弾けている。

「先輩、個人的には遊んでくれるのも嬉しいんですけど、ちょっとだけ、話したいことがあるんですけど、大丈夫ですか?」

「話? どうした恋愛相談か?」

「残念ながら違います。何ていうか、とある女の子の物語みたいなことなんですけど」

「とある女の子の恋愛相談?」

「どうしてそう恋愛脳なんですか先輩は」

「そりゃあ華の女子高生、最後の一年くらいは羽目外したいじゃん」

「私としては、最後の一年間くらい二十四時間三百六十五日きっちりと落ち着きを持って行動してほしいですけどね」

「あははっ、それもそうだね」

にかりと前歯を光らせて笑う先輩。相変わらず子どもみたいに素直でおちゃらけた表情に、少し安心する。

「んで、少女の話だっけ。後輩ちゃんが作ったお話みたいな感じ?」

「まあ、そう捉えてもらって構いません」

「なるほど。後輩ちゃんの話ってあんまり想像できないな」

「まあ、とりあえず、そこのベンチにでも座りませんか? ちょうど木陰ですし」

 私は公園の入り口付近にある木製の青いベンチを指差した。貝殻のような形をした黄色い木漏れ陽が揺蕩っている。

「そうだね、この猛暑で立ち話もあれだし」

  

※ 

 

少女が初めて砂漠を目にしたのは、彼女が中学一年生になった年の秋だった。彼女はどこか神経質な性格で、人間関係の歪み、あるいはそれに類するものに対して過剰なまでに敏感だった。同級生や先輩の表情、仕草、言葉とそれらを発音する際の抑揚のひとつひとつまでもが、少女の心臓を鋭く引き裂き、彼女は疲弊していった。

「私、あの子のこと好きじゃないんだよね」

「誰とでも仲良くするなんて理想論だよ」

「だって、私たちは友達だから」

 少女に降りかかる文字列の雨は、彼女の理性の箍を緩め、自意識を奪っていった。

 本を読んでいる時、彼女は紙の端で左手の人差し指を切った。傷口から血が滲み出す。しかし痛みは感じない。その指が自分の指だと認識できない。少女は、既に正気を保つことができなくなっていた。

「もう黙ってよ!」

 少女は粗雑に机に拳を叩きつけ、そのままの勢いで立ち上がった。同級生は彼女を不審そうに見ている。しかし、彼女の眼中に彼等は存在していなかった。少女の呼吸は段々と荒くなる。視界が点滅していく。呼吸のペースは次第に速まり、過呼吸気味になる。心臓の鼓動がうるさいほど鳴り響いている。

 苦しい。痛い。息が、できない。

 

突然、彼女は静寂に包まれた。

 

恐る恐る目を開けると広大な砂漠が視界に広がっていた。見渡す限りの砂が無限に敷き詰められている。夢、ではない。太陽は青白い光を放ちながら、ゆったりと虚空へと昇っていく。砂丘の向こう側から凍てつくような白い風が吹き過ぎていく。鮮明な砂粒の感覚が、優しく少女を抱き締めている。月面を想起させるその孤独な光景は、彼女にとって平穏という語を体現するものだった。

 やがて、乳色の朝焼けが砂漠を飲み込み、少女は透き通るような空気で深呼吸したを。肺を満たす砂の香りが鼻を抜ける。彼女は正常な呼吸を取り戻していた。次第に砂漠の輪郭線は薄くなり、ペールの色彩はぐちゃぐちゃと変貌していき、気がつけば、そこはまだ教室の真ん中だった。

 その日以降、少女は広大な砂漠を夢想することで荒くなる呼吸を落ち着かせる癖がついた。眠りに就く前に、彼女はやわらかな砂を何度も思い出した。現実の疲労も悪夢も、砂漠の砂がすべて掻き消してくれた。呼吸を整え元の世界へ還る。その習慣は彼女を強く砂漠に縛りつけた。彼女が中学校に通う日数は

次第に減っていった。

 秘密基地とも隠れ家とも理想郷とも違う、その砂漠を容するための最適な言葉は国語辞書を開いても見つけることはできなかった。最初からそんな言葉は存在していなかったのか、単に発見できなかったのか、形容することは野暮なのだと言われているのか。

 その砂漠は私を守ってくれているのだ。その感覚が私を強くしてくれるのだと、少女は信じて疑うことはなかった。


 少女は高校受験をするように促され、言われるままに私立高校に入学した。中学時代の同級生はほとんどいないし、いたとしても善良な人たちで、ありがたいことに不登校時期について特に何か口に出すこともなかった。彼女は感謝こそしていたが、自分の居場所はすべてを抱擁する砂漠だけだと信じていた。

 ある春の日、少女はいつものように授業を終え、帰路に就こうとしていた。昇降口に着き靴を履き替えようとしていたその時、彼女は無視できないほど大きな看板が校門付近に設置されていることに気がついた。まだ少女の中にあった好奇心の残滓が、彼女の脚を動かした。看板には「女子サッカー部新入部員募集中」と書かれていた。少女は何を考えたのか興味本位だったのか、サッカーの練習場である第二運動場に足を運んだ。

 第二運動場は巨大な砂場、あえて喩えるのであれば、砂漠のような光景だった。砂が敷き詰められた殺風景な場所。その真ん中に、ひとりの女子生徒と思しき人物がいた。サッカーボールでドリブルの練習をしている。彼女の他には、誰もいない。ただひたすらにボールを蹴り続ける彼女の姿は、傍から見れば孤独そのものだったかもしれない。しかし、少女の瞳には、不思議な煌めきを放つ孤高の存在が映っていた。ボールを蹴る度にやわらかく揺れるポニーテールが、体操着を湿らす汗が、この乾いた砂漠を支配しているのだ。そんな感覚に惹き込まれていった。

「あれ、もしかして新入生?」

 ぼうっと油断していると、早速新入部員に飢えているであろうその先輩女子の瞳に捉えられた。少女は内心慌てながらも平静を装い毅然とした態度で駆け寄る先輩を迎える。

「あの看板なんだけどさ、実を言うと、女子サッカー部なんてないんだよ本当は。何なら男子もないけど。部員が私ひとりだから」

 先輩女子は申し訳無さそうにそう告げた。普段なら、面倒くさがりな性格の少女はここで引き下がるところだ。しかし、彼女は毎日第二運動場に通い続けた。たったひとりで誰かに褒められる訳でもなく練習し続ける彼女に、奇妙な感情を抱きながら。

「暑いときは首元冷やすのが一番だよ。飲み物かなんかのボトルでも良いから」

 サッカーの練習を本格的に始めたある日、先輩女子は身振り手振りを交え大袈裟に解説してくれた。運動をしていなかった私でも知っているような初歩的な内容だった。その不自然な仕草や振る舞いが、容姿端麗な彼女には何処か不釣り合いで、なんだか愛おしく思えた。

 少女が入部してから一年経過したが、結局女子サッカー部の部員はひとりも増えず、部活動としての資金はびた一文も貰えなかった。それでも、少女と先輩はふたりぼっちで、ボールを蹴り合い、磨いて、自販機に飲み物を買いに行き、ちょっと休憩したらまた走り出す。中学時代は毎日のように汗をかく生活なんて想像できなかったが少女も、知らず知らず先輩と過ごす放課後が待ち遠しくなっていた。

 先輩が遠くの大学に総合型選抜で入学することになったと伝えてくれたとき、少女は速まる動悸を必死に隠しそうとして、伝えたかった言葉もすべて忘れてしまった。

 またひとりぼっちだ。そんな感覚が彼女の肌を余計に湿らせた。

 何処か気まずい雰囲気の中、いつものようにサッカーをし続けた。終わりにするタイミングを見失って、夕暮れ時が過ぎて、宵闇が辺りを包みこんでも尚ボールを蹴り続けた。靴下の中に砂が混じっても、足を滑らせて膝から血が滲み出しても、少女は先輩とのサッカーをやめようとはしなかった。下着までぐっしょりと濡れそぼって、額から眼に流れ込む汗を両腕で拭いながら、少女はふと空を見上げた。

 真っ青な西の空に、真っ白な三日月と金星がぶら下がっていた。綺麗だと思った。純白の砂に包まれて悠久の静寂に浸りながら、罵詈雑言ばかりの教室から逃げていたあのとき、少女は現実から瞳を背け続け、誰の言葉も信じようとしなかった。今、私の前に広がるその景色は、この瞬間まで眼にしてきたどんな現実の光景よりも、美しく思えた。


 見上げれば、たったふたりだけの青空が世界を満たしていた。

 彼女が砂漠を見ることはなくなった。彼女の眼の前には、熱く煮えたぎるような一面の砂と、丸い影を地面に落とすサッカーボール、そして、思わず見惚れてしまうような黒髪のポニーテールを揺らしながら、私に大きく手を振ってくれる、大好きな先輩が、確かに、そこにいた。

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