第八話
とある国の王子様。
敵対する帝国の上級貴族達と渡り合うべく、遠く離れた中立都市へとやって来た、心に筋金が何本も通っている男の中の男。ちょっと機嫌を損ねただけで母国が火の海になる状況で、しかし帝国貴族達に媚びへつらわず、その悪意をひらりひらりと躱して見せながら、王族の気品を損なう事なく余裕を持って微笑む………。
なあ、あんた。
これだけの話を聞いた時、あんたの頭に浮かぶ王子イメージはどんな感じだ?
すらりとした均整の取れた肢体に、愁いを帯びた瞳を持つ美男子。
どうだ、当たりか?
まあ多少はずれたにせよ、ハンサムである事に代わりはねえだろ。違うか?
あんたはどうだか知らないが、俺はまずそう思ったよ。何しろ俺は赤毛だの、その親戚らしいニコニコ野郎だの、あのクソアマだのを知っている。どいつもこいつも中身は俺以下の変態どもだが、見てくれだけは恐ろしく整ってるんだ。血を長く保つ結果だよ、中身も見かけもな。それについちゃ色々と思うところがあるが、まあ今は置いておこう。とにかく、ただの貴族ですらああなんだから、その親玉みたいな王族ってやつはきっと、男だろうが女だろうが一目会った瞬間にナニが臨戦体勢に入っちまうような、そんなご面相をしてるに違いねえ。俺はそう思っていた。
しかし、現実はいつだって人間を裏切る。
良い方に、なんて事は滅多にない。大抵やつは悪い方に転ぶ。壊さなくても良い幻想を木っ端微塵にぶち壊す。
「ユキゴドリス様。お久しぶりでございます――――」
馬鹿みたいに豪華な大広間。
その中心で威風堂々と椅子に腰掛けるオーロス王国第二王子に、赤毛は優雅に頭を下げていた。俺はそれを赤毛の斜め後ろで眺めながら、残酷な現実に歯を食いしばって耐えていた。
王子はそう、控えめに言って豚だった。
もとい、人間の形をした豚……違うな。いい加減認めなければならない。あれは豚じゃなくて人間だ。
はっきり言おう―――王子はデブだった。しかも平民レベルのデブじゃねえ。王族レベルのデブだった。デブキング、いや、デブキングプリンス。腰掛けている椅子はやつが座っているからこそ小さく見えるが、実際は普通の男が氏五人は優に腰掛けられるくらいの大きさだ。それがブヒブヒの代わりにギシギシと悲鳴を上げる。
「フィオナ・セリアード! 久しぶりだ。五年ぶりか? また一段と美しくなったな」
現実は更に鞭を振るう。
王子様の声が紛れもない豚のようだったからじゃないぜ、むしろその逆だ。ああ、男の俺でも聞き惚れちまうような良く通る渋い声だった。もし目の見えない女がそれを聞けば、名前を呼ばれだけでも虜になっちまっただろう。そんな悲しくも美しい声で、王子様は続けなすった。
「しかしお前が一人で来たという事は……ふむ」
肉の奥に埋もれた緑色の小さな瞳が、妖しい光を放った。腫れぼったいピンクの唇が、ゆっくりと弧を描いていく。それはまさしく、傲慢なる権力者の笑みだった。
「――――何やらやらかす気なのだな。大使とは名ばかりに、見捨てられた第二王子でしかないこの私を利用して、一体何を始める気なのやら。戦でも始めるのかね……?」
ああ、鞭はトゲ付きだったらしい。
王子様、メチャクチャ切れ者じゃねえか。そりゃあ何の問題も起こさずにこの都市で生活しているって時点で、俺なんかとは比べられないほどの頭を持ってるってのは十分想像のつく話だが。にしたって酷い話だろ。あとは見た目さえ良ければ、人並みに痩せてさえいれば完璧だったのに。これじゃただのプリンスキングデブだ。ん、違った。プリングデブ、いや、デブリンスだったか……?
まあ何だって良い。どの呼び名にせよ、呼んだらすぐさま処刑だもんな。王子様はユッキー程度にしておけばいいさ。
しかし、だ。一目見て赤毛の魂胆を見抜くとは………俺、やばいんじゃねえか?
瞬間、尿意が俺の股間を駆け抜けた。
正体がばれるのを怖れた俺は、とっさに機転を利かして彫像の真似をする事にしたよ。
タイトルはこうだ。
〝トイレ、貸してください〟
「いいえ、ユキゴドリス様。私は戦を始める気など毛頭ありませんわ。私は殺し合いというのを、とても無益なものだと考えていますし。それにもし万が一、私が力を振るう機会が訪れたとしても……」
尿意とは無縁らしい赤毛は、歌うようにそう告げた後、純粋無垢を体現したかのような可憐な笑みを浮かべた。
俺はもちろん、王子様もおそらく、赤毛の本性がその見た目とは真逆であることを知っていたのだろう、くすりと笑うその声を聞いた時、全身が無意識にびくりと震えていた。
「それは一方的な殺戮になるでしょうね。ユキゴドリス様もそうじゃなくて――――?」
クスクスクス。
頬を赤く染め、青い瞳をきらきらと潤ませながら、赤毛は可笑しそうに笑った。
……なあ、あんた。
夜空に三日月が浮いているのを見た事がないか。それを見て、まるで夜が笑っているみたいだと思った事はないか。
このとき俺が見た三日月は、夜じゃなく夕暮れの空に浮いたやつだったんだろうな。血のように赤く染まる空でくすくす笑う三日月さ。嘘みたいに聞こえるだろうがな、俺はその時、塵一つ落ちてない病的なまでに清潔な大広間で、生臭い血の臭いを確かに嗅いだ気がしたんだよ。慣れたはずの俺でさえ、思わず吐きそうになるほどの濃いやつさ。早くここを離れろと、遅漏の本能だかボケ気味の守護霊だかが耳元で口うるさく騒いでいたよ。まあ、一言で言えばあれだ―――――最低の気分だった。
多分、それは王子様も同じだったんだろうな。
「―――まあ、良い。お前の求めには出来る限り応えてみせるさ」
王子は血の気の引いた顔を何度かひくつかせた。多分笑おうとして失敗したんだろう。だがまあ客観的に言うのであれば、それは豚がエサに毒を盛られて痙攣している様にしか見えなかった。
当の王子は顔をしかめたが、俺はそれを見たお陰で胸のむかつきが幾分か引いていた。無意識に、しかしがっちりと剣の柄を握りしめていた利き手を引きはがせるくらいには、余裕を回復する事が出来たのさ。俺は王子様に生ゴミを差し入れてやりたい気分だった。もちろん感謝の印だぜ?
「ふふ、ありがとうございます。ユキゴドリス様」
王子は自分の名前を呼ばれるのを嫌がったみたいだった。誰よりもこの赤毛には呼んで欲しくなかったんだろうな。解る。解るぜ。俺も呼ばれる度に、ナニを冷たい手で鷲掴みにされるような気分を味わってるんだからな。
いい年した野郎二人を笑い声だけでびびらせる赤毛は、小さく丁寧に頭を下げて見せた。
「さしあたっては今晩泊まる部屋を用意していただけますか」
ほっと息をついたのは二人。
もちろん俺と王子様さ。
不死の軍団とか、帝国を一瞬で吹っ飛ばす爆弾とかを予想していただけに、案外普通の要求で良かった良かった。
はは、一国の王子と野良傭兵が同じ立場でものを考えるんだから、人生ってわからねえな。なあ、そう思うだろ、ユッキー?
俺の労いの心はしかし王子には届かなかったらしい。油の切れた蝶番のように、王子はぎこちなく頷いて見せた。
「……ああ。そのくらいならおやすいご用だ。何人分用意すれば良いかね?」
「一つで結構です。騎士グーデルは私の部屋で待機しますので」
「解った。すぐに取りはからおう。おい、誰かおらぬか―――――」
それは風のように吹き抜けた。
あまりにも自然すぎて、俺は一瞬、頭の上の麦わら帽子が風に浚われたのに気づけないほどだった。
だから俺は、振り返り、飛ばされた帽子を拾いに行こうとしたんだ。大事な大事な俺の身体の一部だよ。安眠と名付けた最後の聖域だったんだよ。でもな、俺が天高々と手を挙げて、異議を申してるよりも早く、侍女がぺこりと頭を下げやがったんだ。
「お部屋までご案内します」
終止符さ。
俺は帽子を取りには戻れなかった。
それだけ。
それだけの話なのさ。
「それでは、ひとまずこれで失礼します。ユキゴドリス様」
「ああ。夕食の席でまた会おう。料理長の腕は中々のものだ。期待してくれて良い」
「はい。楽しみにしておりますわ」
話が進み、そして終わった。
王子は席を立つと、その外見からは想像もつかない素早さで大広間を後にする。
そして俺は孤独に愛された。
「では、こちらへ」
侍女の声が俺の首に縄をかける。抵抗も出来ずに引きずられるその気分は、きっとこれから慣れて行かなきゃいけないんだろうさ。俺は運命の奴隷に選ばれたわけなんだから、この先は何度だってこんな絶望を味わう羽目になるんだ。
赤毛の後ろをとぼとぼと歩く俺の姿はそう、鳴かない豚なんていうもんじゃなかった。鳴こうと思えば誰よりも雄々しく鳴けるけど、今は鳴かないだけだ、耐えて見せているだけだ……なんて、そんな格好いいもんじゃなかったんだよ。
「――――あなた。先ほど私に斬りかかろうとしましたね。部屋に着き次第お話があります。覚悟しておいてください」
赤毛が前を向いたまま小声で、しかしはっきりとそう呟いた。
俺の心は去勢された。
鳴けない豚。それが俺だった。