第七話
「宿はどうすんだ? 先に決めとかなくて良いのか?」
「これから向かう先に用意してもらいますから、大丈夫です」
「向かう先って……なんつったか、ユキ……ユキゴ……」
「ユキゴドリス。ユキゴドリス・センダック、オーロス王国の第二王子です。彼が住まう大使館が私達の目的地です」
「オーロス……道理で変な名前なわけだ」
朝から昼に変わる陽の光の中、俺たちはサウダルーデの雑踏をかき分けていた。
ああ、うんざりするほどの人の数だ。右を見ても人、左を見ても人。いねえのは上と下だけだ。息が詰まるどころか、下手するとケツの穴まで詰まりかねない。そんな感じさ。
大陸広しと言えど、これほどの人間がごった返すのはサウダルーデくらいだろう。理由をいくつか説明しようとすると、一番最初に挙げるべきなのはもちろん〝中立都市〟であるというその事実だ。
聞き覚えのない名前だろう?
今じゃどこにも存在しないものだからな。でもまあ、昔は結構にあったのよ。この手の都市だの国だのは、基本的に大規模な戦争が一段落した頃に出てくるんだ。つっても平和な時分ってわけじゃねえからな、そこんとこしっかり覚えとけよ。
サウダルーデの誕生は、俺と赤毛が訪れたその日からさかのぼる事だいたい十年前ってとこだ。
そう、その通り。
帝国と連合国が停戦条約を交わした年のことだ。これからはケンカなんかせずに、仲良くやりましょーねって、まあ表向きはそんな感じ。その象徴としてつくられた都市がサウダルーデなんだよ。でも言ったとおり、そいつは表向きの話であって本意じゃない。
牽制だよ牽制。
停戦の最たる理由となった大飢饉。大陸全土を襲ったそいつに、連合国も帝国も兵糧の確保が出来なかった。攻めるのも攻められるのもやばいわけだ。そこで条約を交わし、平和の象徴と謳いながらつくった都市に、双方の人質だの何だのを押し込めた。国力を回復するまでの均衡維持装置というのが、この町の存在意義さ。互いの腕にはめた手錠と言えば解りやすいか。相手が殴れないと解っても、安心は出来ない。人間ってのは悲しいもんで、自分が優位じゃないと落ち着かないんだからな。
でもまあ、たくましいのも人間さ。
地盤にどういう理由があるにせよ、今まで交流を禁じられていた敵国の文化が、一カ所に集まるんだ。治安が徹底されているから、様々なものの安全は保証されている。結果としてやる気に満ちた商人どもがこぞってサウダルーデにやってきた。凄いもんさ。何せ今まで儲けていたのは国営の武器工場ばかりで、連中の出番はほとんどなかったんだからな。念願叶った商人達は、怒濤の勢いで都市の中核を形成していった。
するってーと当然、一般人が来始める。価格競争のお陰で物価は安いし、異文化も楽しめる。良いことずくしさ。居住を希望する民間人が多すぎて、抽選が何度も行われたくらいだからな。ここに住んでる連中は皆、活力に充ち満ちているのよ。だからまあ、この人混みもいつもの事で特別なもんじゃねえんだ。
でもあれだ。
俺にとっては特別なわけで。
「グーデル様。警戒されているのは解りますが、もう少しお顔を和らげてもらえませんか。通行人の方々が怯えています」
「ああ、そうかい」
怯えさせてんだよ。
そうすりゃちっとは歩きやすくなるからな。何なら下半身を露出してやっても良い――――マジでやったら殺されるな、俺。
「……ヤメテおいてやるよ」
「ええ。その方がよろしいですね―――ああ、そうだ」
赤毛は突然足を止め、俺の姿を頭の天辺から足の先まで眺め回した。その目つきはまるで、食材の値段を冷酷に見比べる主婦みてえな、息の詰まる恐ろしいやつだった。ここだけの話、ナニがきゅって縮こまったよ。
「ちょっと寄り道しましょう。着いてきてください」
行き先はもしかして奴隷市場ですか――――。
思わずそう尋ねそうになったが、下手に刺激して現実になってもらっては困るんで、いつでも逃げ出せるように身体の重心を落としながら、女のその目立つ赤毛を追いかけた。
ヘタレ、だと……?
うるせーよ、バカ。
俺はそう、裸だった。
いや。心がどーのとか、そういう比喩じみたやつじゃない。そのままの意味だ。俺は裸、全裸だった。
俺が自分から脱いだわけじゃねえ。
脱がされたんだよ。
身長を何だのを測られた後に、服を全て脱ぐように命令された。
おっと、断っておくが赤毛に言われたわけじゃねえぜ? ひょっとすると勘違いしたかも知れないが、背中と胸の区別もつかないような貧相な体つきのガキと、ヨロシクやる気は毛頭ねえんだからな。第一、ナニがたたねえ。
俺に服を脱げと言ったのは見知らぬ女だ。その眼鏡の奥から俺を見る二つの目は、ああ、まるで蟻の行列か豚の交尾を眺めるような感じだったよ。この俺が思わず愛想笑いを浮かべちまったくらいさ。
俺は観念した。
だから服を脱いだ。それだけの話だ。
ああ、そうだな。さっきは否定したが、心の服も一緒に脱いだんじゃないかな。誇りとか尊厳とかいう名前の、脱いじゃいけないやつだったのかも知れん。まあ、全てがもう手遅れだった。
お袋。俺は今から豚になる………。
「まだですか」
「もうちょっとだ……」
「早くしてください」
カーテンの向こうから急かす赤毛の声が飛んでくる。
さあて、俺の値段はいくらだったんだろうな。声は怒っても喜んでもいないから、きっと妥当なところだったんだろう。
卑屈な笑みを顔に浮かべ、俺は先ほど渡された服を手に取ると、いそいそとそれを身につけ始めた。
これからの俺に相応しい服装。
俺を悪く思ってないやつが見れば、この悲劇を嘆くだろう。涙を流すやつだっているかも知れない。俺を悪く思ってるやつは正反対に、喜び勇んで唾を吐きかけるだろうな。ふふふ………。
「まだですか」
「ああ、もう終わった。今行く」
俺は目尻に浮いた涙を拭い、新世界に繋がるその白いカーテンを開けた。
さあ、地獄の日々の始まりだ。
これから何度も嘆く事になるだろう。だから今だけは笑ってやろうじゃないか―――――。
「何か悲しい事でもあったのですか、グーデル様。いや――――騎士グーデル」
「……なあ、おい」
「何でしょうか、騎士グーデル。あと、私を呼ぶときは〝主様〟か、フィオナ様にしてください。それから〝俺〟ではなく〝 私〟と」
「ええ――――それは困るよ……」
「気色の悪い声で言っても駄目です。ほら、もう少しで着きますから背筋を伸ばして胸を張ってください。顔もちゃんと引き締めて」
「ははは………」
俺は笑った。
死を目前にした老人のように。
俺たちを乗せて走る馬車がそれに同情するように、ガタガタと悲しげな音を立てた。俺は何でもないよと首を振り、微笑みを浮かべたまま窓の外へと視線を流した。
夕日に燃える町並み。
窓枠に区切られた黄昏の世界は、まるで一枚の絵画のようにも見える。胸の奥を疼かせるはずのその儚さは、しかし俺には届かない。この心には届かない。俺の視線に映るのは黄昏ではなく、窓硝子に反射した自分の姿だった。
見知らぬ男だと。
現実を認めたくない心がそう囁く。が、そこで哀しげに微笑むのは紛れもないこの俺である。
身につけるのは灰色と黒を基調とした騎士の衣装。派手ではないが格調の高さが一目でわかる装飾、しかし羽根のように軽く動きやすかった。
腰に下がる剣は重すぎず軽すぎず、その上恐ろしいほどの切れ味を持った業物で、上等な革をまかれた柄は、握れば肌に吸い付くような安心感を与えてくれる。
ブーツですらハンマーで叩いても大丈夫なほどに頑丈なくせに、履き心地は冗談のように柔らかいという謎の代物。
ああ、髪に至っては上品に切りそろえられ、綺麗に撫でつけられていた。何の手も入れてない灰色の瞳すら、いつもより高貴な色を放っている様だった。
赤毛の台詞が記憶の底から這い上がってくる。
―――グーデル様には私の騎士になってもらいます。よろしいですね。
「冗談じゃねえ……」
連れて行かれた先は奴隷市場よりもひどかった。
上級貴族御用達の店、店、店。
しかもあの女、品物値段なんて見もしないし聞きもしないんだぜ?
紙に書かれた会計をちらりと見るとよ、服を買った時点で既に、俺が一生働いても稼げないほどの額が目に飛び込んできた。仰天して口が呼吸を止めちまったもんで、あやうく俺は尻で息をする最初の人間になるところだったよ。マジでやばかった。
まあな。
俺も大人だ。
その上心が広い方だから、話が解らないでもない。小国とは言え、相手は行く行くは王になるかも知れない王子様だ、貧相な傭兵を連れて行くわけにはいかない。解る。解るぜ。すっごくな。だからそう、普通なら連れていないだろ? 置いていくだろ? 宿でも酒場でも門の外でも良い。待てと言われたら忠犬よろしく、じっと赤毛の帰りを待ってるさ。
……騎士になれ?
おいおい。
おいおいおい、だ。
いかれ具合も大概にしろよ。俺は農村の出な上に、卑しい傭兵様だぞ? その俺を、だ。ちょっと庭の隅でタチションでもしようとナニを出しただけで、槍で突き殺されちまう大使館に連れて行く……?
論外だ。
そう思うだろ?
膀胱がぱんぱんになっても、俺が歯を食いしばって滝のように股間を襲う尿意に耐えて見せたとしても、だ。
やばいぜ。
赤毛が自分の騎士だと言い張って見せても、俺が傭兵だと解ればアウトだ。赤毛は大丈夫だろうが、俺は間違いなく豚の餌になる……。
お、落ち着け。
まだそうなると決まったわけじゃねぇんだ。騎士っぽい演技を上手くしてみせりゃあ、王子様だって気づかねえさ。そうだ、そうしよう。生きるために、明日を掴むために、俺は今から騎士グーデル様になる―――――!
「グーデル。そろそろ着きます。準備なさい」
「赤毛テメエ、呼びつけとは何様のつもりだコラ………コラ………」
引きつった俺の顔をじっと見つめた赤毛は、何度か無言で瞬きした後、
「人前では出来る限り黙ってなさい」
「はい。そうします……」
時を置かずして馬車が大きく震え、窓の外の景色が動かなくなった。
お袋。俺は今から豚になる――――――
鳴かない豚に、俺はなる。