第五話
何はともあれ。
胸の内で疼く熱き良心(歯に衣を着せなければ自暴自棄)に身を任せれば、気は割と楽になった。
こなすべき課題は明確だからだ。
物好きなロリコン野郎に追いつき、そいつをぶちのめし、そして赤毛をぶちのめす。簡単だろ?
あ、いや違った。
赤毛はぶちのめしちゃいけなかった。ん、いけなかったか……?
まあ良い。
取りあえず馬だ馬。
影も形も既に見えないが、野郎の行き先は大体予想がつく。予想に従って俺も馬を走らせりゃ、いずれはやつのケツに追いつくだろう。
何、理由が聞きたい?
はあ。
んな事あんまり重要じゃねえだろ。
まあ俺は寛大だ。
俺の素晴らしい才覚を妬んだ野郎に後ろから刺されそうになった時も、衛兵に突き出したりはしなかったしな。尻に縦笛を突き刺して手足縛って教会の屋根の上に放置しただけさ。屋根の上の気まぐれ楽士は、それはもう寂しげな音色を響かせていたよ。気まぐれにな。
ああ、野郎の行き先だったな。
これはまあ何というか職業柄なんだがな、塀で囲まれた町だの何だのに入る時、俺は逃走ルートと避難場所を先に見つけておくんだ。
いざって時のためさ。
傭兵の命が軽いってのは前に話しただろ。俺たちは後ろ盾なんてないし、いつ何がどうなるか解らんのだ。長く生きたきゃ自分の身は自分で守らなきゃならんのさ。
それでここ、帝国の広大な領土の内の一つ、ギホリ……あー、まあ名前は忘れたが、とにかく割と大きな都市なんだ。そんでまあ、つい何年か前まで現役の要塞だったせいで防備は笑っちまうほどに堅牢でよ、衛兵だのと事を構えずに脱出したけりゃあルートは大まかに言って一つしかないんだよ。
食糧自給率を少しでも上げるために開かれた農地。作業の障害になるって事で、馬鹿高い塀の一部が撤去されてるわけだ。
衛兵はいるにはいるがヨボヨボの爺さんが二三人だけ。
防備が薄いのにはもちろん理由がある。山に接してる上に、街道に出るためには毛深い女の股間並みに生い茂る森林地帯を抜けなければならないからだ。敵対国の兵隊だの盗賊だのが突入を試みるのは厳しい。俺もこの間ちょいと覗いてみたが、結構命がけの行軍になりそうだった。
俺にとっての一時的避難場所、何か人目につかないことをやりたい連中にとっての隠れ場所も、その農地周辺になる。人気は少ないし廃屋もそれなりにある。
野郎が赤毛をその場で殺さなかったのを考えると、その行動はぼちぼち慎重であると考えて良い。出来る限り落ち着いた場所で事に及びたいはずだ。赤毛に何か別の価値があったとしても、貴族のご令嬢を攫ったわけだから、町中に潜伏したいとは思わないだろう。帝国を回しているのは貴族なのだから。
とはいえ、白昼堂々攫った事を鑑みれば、余裕はそれほどないのかも知れない。自信があるのか、あるいは高いリスクを背負うほどに焦っているのか……。
とまあ色々と考えながら馬を走らせている内に、町並みは消えて代わりに広大な農地が現れた。
青い空と緑の大地。
そこを走る一本の道。
と、心和む風景が広がっている。頬を撫でる風も爽やかの一言に尽き、ふと幼い頃の記憶が蘇る。あの頃は俺も純粋だった。物乞いがいれば蹴りをくれてやったし、美人がいればスカートを捲り上げてやった………ろくなもんじゃねぇ。
汚れない自分を捜して赤ん坊の頃の記憶をねつ造しようとしたところで、道の先浮かぶ黒点が目に入る。
「お、あれはひょっとしたらひょっとするか?」
手で輪っかを作りそれを覗き込む。
するとぼんやりとだが、微かに赤いものが見えた気がした。見間違いの可能性だって十分あるが、取りあえずここまでやったのなら邪神もカンベンしてくれるはず。俺のケツの穴はまだヴァージンでいられるだろう。
馬の腹を蹴って速度を更に上げる。
十秒も経たぬ内に点が大きくなり、それが邪神の所望品である事をはっきりと認識した。
「しかし、一体何をもたついてんだ……?」
馬の速度に大きく差がない限り、普通は追いつく事など出来はしない。一頭に二人乗っているとは言え、赤毛は大した重さじゃないだろうし、こんなにみるみるうちに大きくなるって事は……ああ、なるほど。
「放しなさい! 放せっ! この××××!」
風に乗って届いた可憐な声は、この俺がげんなりするほどに下品な言葉を形作っていた。
……何だろうな。実は俺、無駄足だったんじゃねぇか……?
俺のため息が聞こえたのか、暴れる赤毛とそれを取り押さえようとしている男が、同時にこちらを振り返った。
赤毛が目を輝かせ、歓声のようなものを上げる。が、そっちは既に意識から切り離した。
もちろんうざったかったのもある。だがそれ以上に、突然余裕がかき消えたからだ。後数秒で訪れるその瞬間に向けて五感を極限まで研ぎ澄ませるのに、有り体に言えば俺は必死だった。
なぜかって?
野郎だよ野郎。
あの帽子を目深に被ったその男だ。振り向いたそいつの視線がやばかったからだよ。だからこそやつが赤毛を地面に放り出し、馬を走らせたままくるりとこちらに向き直るなんていう離れ業を見せつけてきたときも、俺はぎょっとしたりはしなかった。
遂に二頭の馬が重なった。
男が懐に手を入れたのと、俺が腰の鞘から剣を引き抜いたのはほぼ同時だった。
一瞬後。ザザザと音を立てたのは俺の足裏だ。乾いた作業路の砂がこすれ合う、その音だった。
俺はくの字に曲げた膝に力を込め、ゆっくりと身体を起こした。
「―――――はっ。化け物かよ……」
視線の先、作業路の彼方に消えていくのは馬に乗った男の影だ。
俺の傍らにはさっきまで乗っていた馬が蹄で土を蹴っているが、今さらこいつを駆ったところで追いつけはしない。馬も御者の腕もあちらが上だ。先ほどと違って暴れる赤毛というハンデも、もうないのだから。
「ひどい扱いだわ。全く……」
どす黒い怒りを声に滲ませたのはもちろん赤毛。身体についた土や砂を払いながらこちらに近寄ってきた。どうやら怪我はないらしい。走る馬から放り出されてこれだという事は、投げた野郎が上手く調節したからに違いない。
それを知っているのか知らないのか。女は俺の前に立つと、何事もなかったかのようににこりと笑いやがった。
「グーデル様。まずは助けていただいた事を感謝いたします。出来ればもう少しだけ優しくして欲しかったですが」
「うるせーよ」
何て厚かましい。
と言うか、攫われかけた女ってもっとこう、童女のように泣きわめいたりするもんじゃないのか。
まあ、こいつには想像もつかんけど。
「ですが、さすがはグーデル様。何がどうなったのかは良く解りませんでしたが、あの男の右腕がこうして地面に落ちている以上、先ほどの戦闘は見事勝利なされたのですね」
血まみれの肉塊を見下ろして、女は笑みを一層深めた。
こいつ、ひょっとしてそれがふわふわの子犬にでも見えているのか。
赤毛があの男のように、馬に乗ってどこかへ消えてくれる事を割と本気で望みながら、最近驚くほどに仲良くなった溜め息の野郎を、俺は口から吐き出した。
「取りあえずあれだ。さっきのは俺の負けだ」
「え? どうしてです? グーデル様の腕は二本ともちゃんとついていますが」
「そういう話じゃねえよ。これ見ろこれ」
俺は手に残った軽いそれを何度か振って見せた。
するとさすがの赤毛もようやく理解できたらしい。青い瞳が丸くなる。
「あ………折られたんですか。剣を――――」
「そういうこった。やつは後ろ向きで馬を操りつつ、不自然な体勢のまま短剣を振るい、そして俺の剣を叩き折った―――いや、打ち砕いたわけだ」
馬の勢いも利用した俺の会心の一撃は逆に利用されてしまった。
やつは剣と剣がぶつかる瞬間にタイミングと重心をずらし、こちらの勢いを殺しつつ、剣の脆い角度に己の短剣を滑り込ませてきた。
俺もそれに気づいたからこそ、馬の背から飛び降りる事で剣の軌道を無理矢理変更し、切っ先でやつの腕を切り落とした。だがまあ飛び降りたのは、そのまま突っ込んでいれば剣どころか俺の首が飛んでいたからでもある……。
「野郎が馬を止めて攻撃を重ねてきていれば、俺は道の真ん中でいつまでもひなたぼっこさ。ったく……」
やつが退いたのは右腕を失ったからか?
いや、そうじゃないだろう。
野郎の目は蛇の目だった。おそらく俺というイレギュラーが生じたため、冷静に計画を練り直すことにしたのだろう。あれほどの手練れだ、こんな頭のおかしい貴族の娘などいつでも狩れるはずだから。
しかし何より恐ろしいのはすぐに見切りをつけた事だ。
町中で攫うなどという危険を冒してでも手に入れた女を、あっさりと放り出し、己の右腕などには一切の未練を残さず立ち去ったのだ。あの鮮やかな逃走は俺の姿を見てすぐに決断しないと出来ない。あれほどの腕を持っていながら決しておごらないとは――――ああ、やつもこの女と同じくらい狂ってやがる。
「取りあえず詳しい話を聞いてやる。俺も目をつけられただろうしな」
はは。
こうなりゃあもうヤケだ。
とことん付き合ってやろうじゃねえか。
「そうですか。ありがとうございます。ですがグーデル様」
「ん、何だ?」
辟易ってのを顔に浮かべながら赤毛を見下ろせば、
「最初から私、貴方が引き受けてくれるって確信していましたわ」
傲慢をそこに見る羽目になった。
……ホント良い性格してるぜ、こいつ……。
こうして俺は気狂い共と踊り始めたわけだ。