第二話
「ご依頼とか言われてもな……」
その赤毛から目を逸らして、俺はため息をついたわけだ。一発で酸欠になりそうなやつさ。その時の俺が最高とは言い難い気分だった事は、きっとあんたにだって解ると思う。
「まずはお話を聞いてください」
食い下がる女が面倒くさい?
ああ、いや。それはもちろんそうだ。
何しろ俺をグーデルと呼んだんだ。それだけで誰の関係者か解るってもんだ。
だがな、赤毛の女よりも先によ。
「――――こ、のクソアマが………!」
こいつだよこいつ。
女の後ろに立つ男。顔を腐りかけのトマトみてぇにしたバップだ。
野郎、寂しい頭の天辺から尻の毛に至るまで怒りに支配されているらしく、女しか目に入ってなかった。
俺の事なんて眼中にない。
有り難い事だ。
何しろ奴に話しかけられるって事はつまり、奴の下水溝よりひどい息を顔に浴びせられるって事だ。
ひょっとしたらガチで死ぬんじゃねえか?
まあとにかく、その危険はないわけだ。奴は俺の事なんて見向きもしていないわけだし、
「あら貴方。まだいたんですか」
赤毛をふわりとたなびかせ、バップを振り向いた女。
ああ、嫌な予感がしたぜ。
「申し訳ありませんが、ベイン様とお話ししてる最中です。お話が終わった後も、貴方と話す意志も時間もございませんので、どうぞお引き取りください」
当たりだ。
当たったのに嬉しくねえ。
最高のため息ってやつをつくために深く息を吸い込んだところで、バップの首に乗っかったトマトが先に弾けちまった。
「………皮を剥ぎながら犯してやる――――」
馬鹿げた話だがな。
俺にはバップのその押し殺した声がよ、処女が初恋の男に恥じらいながら告白するような風に聞こえたんだ。
途端に頭にそれが思い浮かんじまった。
可愛らしいピンク色のエプロンドレスを着たバップの姿だ。頭には特大のリボン、顔には下手くそな最悪の化粧だ。手をナニの前でもじもじさせながら、けばい色のルージュを引いた唇をぱくぱくさせんだ。
ちゅきでちゅ―――ってな。
「あははははははははははははは!」
最高だった。
最低だった。
そして最悪だったわけだ。
「テメェ――――ベイン………」
野郎の両目が始めて俺を見た。
そして何よりあれだ。
―――死ぬほど臭かった。
「臭っ……!」
いけねえ。
声に出しちまった。
でもあれだ。仕方ねぇよ。だって本当に臭いんだぜ?
俺は久しぶりに故郷の便所の臭いを思い出したね。
すげぇんだ。
親父が卒倒した事だってあんだぜ?
寝ぼけてたらしくてな、鼻を使わず口で息をしなきゃならん事を忘れてたんだ。
親父はしばらく家に入れてもらえなかったよ。
「先ほどから私も思っていましたが、確かにひどい臭いですね。ひょっとしてご病気か何かですか?」
赤毛の女が俺の言葉に頷き、鼻を覆いながら心配そうに尋ねた。
さあ問題だ。
日曜学校の道徳の授業風に言うとこうだ。
―――そう言われてバップ君はどのような気分になったでしょうか……?
「――――――」
答えはカンタン。
言葉が出ないほどにカンカンになりましたとさ。
え?
喋らない代わりに何をしたかって?
そりゃもちろんあれだ。
「……貴方。剣なんか引き抜いて、一体どういうつもりですか」
女の質問。
それだけ聞けば、女がどうしようもない馬鹿だって事になるが、どうやら馬鹿は馬鹿でも物の解る馬鹿だったらしい。野郎が剣の柄に手を伸ばした時点でさっと飛び退き、うまい具合に椅子に座る俺の後ろに回り込んだのよ。
「おいおい。挑発だけしといて後は人任せってのはいただけねえな。自分でカタつけろよ」
試しに首をひねって説教をくれてみるが、
「挑発はしておりません。あちらが勝手に勘違いされただけです。危険を感じたのでそれを回避するべく行動を取っただけです」
「……そうかい」
毅然と言い返されちゃあ、ため息しかつけねぇ。
まあ言いたいことは山ほどあるが、バップはじりじりこっちに寄ってきてるし、奴を怒らせた責任の一部は俺にもあるわけだ。
「仕方ねえなあ……」
何とかしねえと。
つってもその〝何とか〟って奴を俺は二つしか知らないんだよな。
一、説得。
んー何だ。無理じゃないか?
バップ、お前全然臭くないよ、せいぜい豚小屋くらしか臭わねぇよ……とか言ったところで聞くわけないし、解ると思うが俺も口が上手い方じゃない。後ろの女は論外、火に火薬だ。バップも泣いちまうかも知れん。
第一、奴は完全にきれているかも知れんが、冷静さは失っちゃいないんだ。怒りのままに俺に飛びかかったりせず、間合いを少しずつ殺しながらこちらの隙をうかがっているんだからな。冷静にきれてる―――冷静に殺そうとしているわけだ。既に腹をくくってる。
説得は無理。
ならやっぱり、もう一つしかない。
「戦うのですか――――」
「まあな」
ちらりと顔を上げれば、女が真剣な顔で俺を見ていた。
俺は驚いたぜ。
何しろ女の青い瞳は怯えなんてものとは無縁で、好奇心でいっぱいだったのさ。
好奇心つっても、毛が生えかけのガキが武器だの殺し合いだのに抱くような、奇妙なきらきらした幻想じゃねえぞ?
女のそれは例えるなら獣の涎だ。
一週間ぶりの獲物を目の前にした肉食獣だ。べたべた視線でそれを見つめながら、やがて頬張る事が出来るだろう血と肉の味に喉をゴクリと鳴らす獅子の色だ。
何より不気味なのが、興奮に支配されながらも、そのくせ氷のように冷徹な理性を奥の方にしっかり忍ばせてやがるところだ。
さっぱりした事実だ。
俺はそれを手に入れた。
剣片手ににじり寄ってくるバップよりも、ちょっと強く抱きしめただけで壊れそうな背後の女の方が―――――やばい。
「立ち上がって剣を抜かないと。もうすぐそこですよ」
俺はため息をついたよ。
女がこの酒場にやってきてから何度目かな。あんた数えてるか?
まあとにかく、俺はため息をついてやれやれと首を横にふった。首のついでに手首も振った。
「え――――――――あ………」
女の呆然とした声を聞きながら、俺は空っぽになった左手で皿から肉を拾い上げた。そのまま口に放り込み、油でべとべとした指を親指から順に舐め上げた。
下品?
フォークを使え?
まあ俺は確かに上品とは言い難いし、どちらかと言えば下品な部類に入るだろうよ。
でもよ、食事くらいは人らしくナイフとフォークを使うぜ?
ただ、そういった道具がない時は素手で鷲掴みだ。
つまりそういう事だ。
「へえ………」
藁でこさえたみたいなもしゃもしゃした肉を何とか飲み干した頃に、後ろで女が何度か頷く気配がした。
「不足はないようだわ――――」
ちらりと女の顔を盗み見ると、女の瞳はじっとバップを―――その眉間にフォークを生やした男の死体を見つめていた。
例の涎まみれの瞳で、だ。
「………取りあえず話だけは聞いてやるから、そこに座れ」
俺は口の中だけで舌打ちをして、自分の正面を指さした。
解るだろ?
いや、解らないか?
俺だけが解ったのか?
「有り難うございます」
可憐としか言えない笑顔を浮かべ、優雅な仕草で椅子に腰掛けた女。
こいつはきっと狂ってる―――俺はその時、確かにそう思ったんだよ。