第十二話
「憲兵って、思ったよりも仕事熱心なんですね。もう朝ですよ」
「証拠は一つも残しちゃまずいからな。当然なんだろうよ。むしろ俺たちが見つからなかった事の方が奇跡だ」
「奇跡なんかじゃなく、ただの一つの結果に過ぎませんよ。彼らは屋敷の内側のみに気を取られ、木の上に誰かいるとは思わなかっただけ。暗くて視界が悪かったというのも、要因の一つでしょう。大した事はありません」
「マジでお前可愛くねえな。日頃の行いが良かったんですね、くらい言えよ」
「いくら善行を重ねたところで神は応えてはくれません。それに私の日頃の行いは決して良くはありませんし」
「……なんだか家に帰りたくなってきた」
「私はホテルを探してシャワーを浴びたいですね」
「俺は身体と心を休めたいな。誰かさんのお陰でボロボロなんだぜ、実はよ」
「神に会ったら伝えておきますわ」
「………」
俺たちが木から下りることが出来たのは、空が白くなり始めた頃だった。
飛び移った木が高く、そして枝が頑丈だったお陰で、何とか捕まり続ける事が出来た。が、もちろん容易な事ではない。小柄な赤毛はともかく、大男じゃないにしろ、立派な成人男性であるところの俺は、それはもう大変だった。
庶民や理解できない、偉大な芸術家連中が制作した奇怪なオブジェ。
太い枝の間に手足を引っかけ、身体を広げた俺は、そういった存在になりはてていた。後数時間下りるのが遅かったら、俺も後世に名を残す芸術家の仲間入りをしていたかも知れん。
でもまあ、俺が目覚めるよりも憲兵達が引き上げる方が幾分早かったわけだが。
「狂うって案外難しい事なんだな」
「何か言いまして?」
「いや。何でもねえよ……」
広大な焦土と化した大使館を一瞥もせずに後にした俺たちは、宿を探して廃墟のようにひっそりとした町の中を歩いていた。犬の鳴き声すら聞こえず、耳に入るのは俺たちの足音ばかりである。
歩く俺たちに会話と呼べる会話はない。
本来なら今後の予定について可及的速やかに話し合うべきだが、俺も赤毛も寝不足と疲労で頭が働かなかった。
赤毛は見た目こそいつも通りだが、その声には覇気、もとい狂気がない。心なしかその青い瞳も曇って見える。所詮十歳ちょっとの小娘、体力が底を尽きかけているのだろう。俺は頭こそ回らないが、身体の方はまだまだ無理が利く。いつかの戦場じゃ、眠りながら剣を振るったもんさ。それに比べればこの程度、酒に酔った女を押し倒すくらい造作もねえ事だ。
ああ、そういや最近そっちもご無沙汰だ。誰か凍えた俺の心を温めてくれよ……。
「早くしろ! 急がないと間に合わなくなるぞ!」
豊満な女体に思いをはせていた俺は、突然耳に飛び込んできたその怒鳴り声に、咄嗟に赤毛を抱き寄せていた。
剣を引き抜きながら、慌てて五感を研ぎ澄ませる。
「グーデル様。申し訳ありませんが、路上で押し倒されるのは趣味じゃありませんの。ホテルについてからにしてください」
「趣味じゃねえのは俺様の方だ!」
盛りのついたガキにうんざりするような目でこちらを見た赤毛に、俺は思わず腹の底から怒鳴っていた。
いや、俺は寛大でクールな男だぜ?
勘違いしないでくれ、キレやすい方じゃねえんだ。でもまあこの時は寝不足でよ、理性の方がちょっとばかしがさついていたんだよ。
だからまあ、その、なんだ。
怒鳴り声にはちょっと殺気が混じっちゃたりしていてな。
「ヒ、ヒィィィ! ど、どうか、お、お許しください!」
悲鳴だよ。
しかし赤毛のじゃないぜ。
やつはうるさそうに顔をしかめた後、俺に抱かれているのを良いことに、そのまま身体を預けて目を閉じやがった。聞こえてくるのはネ、イ、キ!
「テメエエエ! 良いご身分だな、アア!? 寛大でジェントルマンな俺も、さすがにキレるぜ畜生! オラ、額を地面にこすりつけて許しを請え! 私は卑しい豚です、あなた様のクソを喰って生きるクソ豚です、どうぞクソとお呼びくださいってなァ!」
「ヒッ、わ、私は卑しい豚です! あなた様のクソを喰って生きるクソ豚です! どうぞクソとお呼びください!」
「良い調子じゃねえかクソクソクソ! 豚なら豚らしく悲鳴を上げて見せろ! 下手クソならこの場でそん首切り落とすぞコラァ!」
「ブ、ブヒイイ! ブヒッ、ブヒヒッ! ブヒィィィ!」
「もっと鳴け! テメェのクソさ加減を世界に知らしめろ! そんでもってその次はよォ」
「……グーデル様。眠れません。静かにしてください――――あら、そちらの男性は何をなさってるんですか?」
「あアァ!? 決まってんだろ、こいつはクソだからクソに決まってんだろ! ほら、ケツ出してクソを放り出して見せろよ―――――って、あれ………?」
人生でトップテンに入るほどの良い笑顔を作り、朝焼けに染まる薄桃色の空に剣を振り上げたところで、俺はようやく正気に返った。腕の中の赤毛を見下ろし、赤毛が訝しげに見つめる方向へと視線を投げた。
そこには見知らぬ中年ハゲが一人、朝日を背に負い、凄まじい形相でズボンのベルトに手をかけていた。
凍り付いたように動かない男と目を合わせ、俺は首を傾げた。
「ひょっとして、お楽しみの最中か……?」
「あんたがやれって言ったんでしょーがッ! あんたがッ!」
「そうだっけ」
赤毛に目をやると、頷きが一つ返ってきた。俺もまた頷きを返し、高く振り上げていた剣を腰の鞘に戻した。
「さ。宿を探そう。どこが良いかなあ?」
「ちょっと待てエエエイ!」
赤毛の肩を抱き、歩き出そうとしたところで、ハゲが俺を呼び止めた。自分に優しく、他人にヨロシクを密かなモットーにしている俺は、無視する事なく後ろを振り返り、寛大な笑みを浮かべて頷いてやったよ。
「安心してくれ。俺は被害者だ」
「何を言ってるんだ!? さっぱりだ! さっぱり解らんぞ! 安心も出来ないしあんた、被害者じゃないだろ! 十割超加害者じゃないか!」
「おいおい。落ち着けよ。こちらのご令嬢が気分を害しておられる」
「面白い見せ物ですわね」
「……ほら、彼女もこう言ってる」
「あ、あんたらなあアアア――――――!」
朝日を浴びて光り輝くハゲの頭から、白い湯気がいくつも上がっていく様は、ああ、ガキの頃教会で見た宗教画を思い出したよ。天へと続く道。確かそんなタイトルだった。
そのあまりの荘厳さに、宗教心がないはずの俺が思わず十字を切りそうになったところで、路地から人影がいくつか飛び出してきた。
「あ、あなた! 良いから行きましょう!」
「そうだよお父さん! 急がないと兵隊さん達がやってきちゃう!」
ハゲより幾らか若い感じの女と、ハゲと女を足して二で割ったような面をしたガキだった。
ん? ああ。
大丈夫、ガキはハゲじゃなかったよ。将来は知らんがね。
え? 聞いてない?
「う、そ、そうだった! 急ごう! 荷物は持ったか!」
二人の言葉を聞いたハゲは、今まで怒りで赤くしていた顔を、今度は緊張と恐怖で青くしやがった。
一瞬で怒りを忘れたって感じのその光景に、俺の鈍っていた頭が微かに反応した。
「ええ!」
「うん!」
「それじゃ行こう!」
今まさに背を向けて走り出そうとしたハゲの喉元に、俺は一瞬で鞘から引き抜いた剣の切っ先を突きつけた。
悲鳴を上げる親子の顔を順に睨み付けながら、俺はドスの利いた声で囁いた。
「お前達は何をそんなに焦ってるんだ。どこに向かおうとしている――――答えろ」
脂ぎった喉の皮膚を薄く切り裂くおまけ付き。痛みは大したことないが、その効果は抜群、ハゲは売春宿の客引きみたいにせわしなく舌を動かし始めた。
「せ、戦争が始まるからです! わ、私達はこの町から脱出しようと!」
「……戦争?」
顔をしかめた俺に代わって口を開いたのは、傍らの赤毛だった。ハゲを睨む青い瞳は、いつものようにギラついている。
「それはどこから手に入れた情報ですか?」
「ど、どこも何も、連合の大使館警備兵と、帝国の治安維持部隊が、ついさっき、ええ、ついさっきですよ! 和平記念広場でやりあってたじゃないですか!」
「――――あなたは目撃でしたんですか、それを」
「見ちゃいないけど、音は聞いたよ! 見た人間だって何人も知ってる! ここいらじゃもうほとんどが人が町を出たんだ! ああ、あんたらがどっち側の兵隊か知らないが、荷物ならあげるから私達を見逃してくれ!」
ガキが泣き始めたのを聞いて、ハゲはとうとう耐えきれなくなったらしい。喉を先ほどよりも深く切り裂かれるのも構わず、ぱっと荷物を放り出すと家族二人の肩を抱いてあっという間に走り去ってしまった。
ハゲの剣幕にというよりも、ハゲが口にした内容に圧倒されたていた俺は、逃げる連中を呼び止める事もせずに呆然とその背を見送った。
「始まりましたね。予想よりも早かったですが」
淡々とした赤毛の言葉に我に返る。
あり得たはずの未来。
しかしこんなにすぐにやって来るとは思っていなかった現実。
朝に抱かれる人気が一切存在しない町の中で、自分がどう行動すべきか一瞬解らなくなっていた俺は、ただその事実を声に出さず呟いた。
平和が終わり、戦争が再び始まった―――――。