01
沖縄県。
人口およそ百二十万人、面積およそ千二百キロ平方メートルを誇る沖縄本島を中
心に構成された日本の県で、その人口密度は今や、世界最大級である。
本土から魔神十一体を乗せてやってきた悪魔の船は、沖縄本島をぐるりと右回り
に迂回して、最南端である糸満市へと上陸した。
そして彼らが林間学校と銘打って拠点にしたのは、海沿いの大きなリゾートホテ
ルだった。
大きなプールが備え付けられている、まさしくリゾートなホテルだ。ホテル内に
は海外向けと思しき売店があり、外貨との両替スペースまである。端から端までゆ
うに一キロはあろうかという敷地に、備え付けられたたくさんのレストランやビュ
ッフェコーナー。リゾートゆえの交通の不便を補うように準備された大量のレンタ
カーに、一人一人に割り振られた豪華すぎる個室。外から見える景色はエメラルド
グリーンの水平線で、いくら眺めても飽きる気がしない。
きっと普通に泊まると、一泊十万円は下らないだろう。取り立てて裕福な家庭で
育ったわけではない私は、その豪華さに唖然としたものだ。
とはいえ、魔神達の存在を忘れるほど気が抜けているわけではない。
彼らは極めて危険な存在だ。つい昨日、この道中でさえ世界が滅びる瀬戸際まで
追い込まれたのだ。この先何があっても不思議ではない。結局どうして難を逃れる
事が出来たのか、未だによく分かっていないけれど……とにかく世界が滅ぼされる
わけにはいかない。何を置いても、彼らを暴走させないように気を付けよう。
とはいえ、休息は必要だ。たとえ束の間であっても、自分を追い込み過ぎるのは
よくない。今だけでもリラックスしよう。
まとめ役である黄泉丘三途璃に渡された鍵を回し、割り振られた個室へ入る。無
駄に用意されたツインベッドの一つに荷物を放り投げ、窓際に置かれた柔らかいソ
ファーに身体を埋める。預けた体重ごと呑み込もうとするソファーに身を任せて、
エメラルドのビーチを見つめる。そのカラフルな様相に、似たような色合いの瞳を
盛った明智知英の姿を想起して、慌ててかぶりを振った。やれやれ、こういうのを
ワーカーホリックって言うんだっけ。一人の時くらい、責務を忘れないと駄目じゃ
ないか。
とはいえ……一度切り替わった頭はそう簡単に元に戻らない。忘れようとすれば
するほど、先の事を不安に思う気持ちが強くなって、頭から離れない。
仕方がない。仕事をしよう。
スマホを手に、ホットラインに掛ける。旅の行き先は話してあるから、この電話
に出るのは……案の定、私の贔屓にしている政府の人間、黒服だった。
『夢路さん、生きてますか?』
「……何とか無事です。危うく世界を海に沈められそうでしたけど」
『やはり魔神の仕業でしたか。昨日の一晩で、海抜の低い地域が大損害を受けたよ
うですよ。世界規模の被害ですと……考えたくもありませんな』
「じゃあ忘れましょう。それよりあなた、沖縄にいますか?」
『……ええ。政府の命令でもありますので』
「……あなたも大概、危険な役回りですね」
『お互い様でしょう。ちなみに竹中はいませんよ』
「……誰ですか?」
『ほら、背の高い……』
「ああ、ノッポですか」
あの男、そんな名前だったのか。多分秒で忘れると思う。気にもしない。
「……まあいいです。本土に残っているならそれはそれで、役に立つかもしれませ
んし」
『ところで今、あなた方はどちらへ……?』
黒服の問いに答えた。その様子だとどうやら、三途璃さんは本当に政府に行き先
……というか旅程を伝えていないらしい。きっちりした彼女の性格から考えると、
単なる手落ちとは思えない。きっと彼女の中で、教師はこのロールプレイには根本
的に不必要なものなのだろう。
ホテル名と住所を伝えると、彼は近くまで向かうと言ってくれた。
『しかし、よく魔神が十一人も泊まれる宿が見つかりましたね』
「……多分この近所の方達、認識阻害を受けています。モモさんの『天色眼鏡』で
髪と眼の色を誤魔化されて、魔神だと認識されていないみたいですよ」
『ふむ……それはまあ、不幸中の幸いですね。いざという時の人払いが難しい一方
で、パニックを懸念せずに済みます』
「……それも杞憂だと思いますよ。この近所の方々、魔神の脅威なんて忘れたみた
いに陽気ですし」
このホテル……というか沖縄に上陸して、一番驚いたのは綺麗な景色でも静かな
空間でもなく、その空気感だった。
魔神が現れて以降、世界中を暗い雰囲気が纏っていた。今や人類の九割近くが滅
ぼされている以上、至極真っ当な反応なのだが……この場所ではその限りではない
らしい。魔神の脅威は、十二分に耳に入ってきていてもおかしくはないのに。
一体どういう事なのだろう。まさか風土的に、それくらい呑気な土地ってわけじ
ゃあるまいし。
『あー……それはですね、夢路さん。怒らないでくださいね』
黒服がさも言い辛そうに私に意見する。この男は本当に……
「また隠し事ですか」
『い、いえ、政府の方針でして……』
「はいはいはいはいはい、残らずゲロってくださいね」
『はあ……実はですね。沖縄は魔神の攻撃を一度たりとも受けていないのですよ』
「え……そうなんですか?」
私は控えめに言って仰天した。この世界にまだ、そこまで安全な場所があるなん
て思わなかったからだ。
魔神の巣窟である日本本土はもちろん、中国やロシア、アメリカといった領土の
広い国には軒並み恋心愛が攻撃を仕掛けているし、軍事国家は照の防衛で大きく衰
退、ヨーロッパ諸国は三途璃さんの選別でほぼ全滅。世界中が上を下への大騒動の
最中、この場所は全く被害を受けていないとは。
日本という魔神のテリトリー内でありつつ、本土から離れた土地であり、なおか
つ魔神の注意が向かない風土。観光地ではあるから、旅行好きの忍さんに目をつけ
られていないのは運が良かったとしか言いようがない。
まさしくこの世界に残った最後の秘境……それが今、荒らされつつある。
『当然ながらこの事実、政府は発表していません。そんな事が知れたら、世界中の
金持ちやお偉いさんがこぞってここに集まってきますからね』
「……実際、政府のお偉いさんはいるんじゃないですか?」
『いませんよ……林間学校の話が出ましたからね』
「……」
つまり、それまではここに逃げていたのか。私や黒服を最前線に送り込んでおき
ながら安全圏にいようなんて虫の良い話である。そんな卑しい人間の挙動を耳にす
るたびに、私のモチベーションが下がっていく。いや、頑張るけどさあ。
「誰がなんと言おうと、私は頑張りますとも」
『は、はあ……急になんです?』
「いえ、別に。それより、昨日仕入れた情報を共有しておきますね」
私は黒服に、大道正義の三つ目の能力についてを話しておいた。
自然現象を司る能力……『深きもの』。その気になれば、本当に世界を海に沈め
る事さえ出来ただろう、恐ろしい力だ。
けれどそれさえも、魔神の力としては取り立てて強い部類ではない。
黒服も同意見らしく、電話口の向こうから安堵の溜息が聞こえてきた。
『これで大道正義は全て能力を開示しましたね……これでまた一つ、作戦が立てや
すくなったというものです』
「そうですね。彼に関しては、どの能力もそれほど脅威ではありませんし、対策が
立てやすい方でしょう」
大道さんの神器『剣なき秤』は罪を裁く能力だ。彼が相手を罪人だと思っていな
ければ使えないだろうし、仮に使えても先制攻撃で裁きを中断させられるというの
は忍さんが実証している。
二つ目の能力『カルネアデスの大災害』は恐ろしいデスゲームを作り出す能力だ
けど、取り立てて殺傷能力は無いと思う。生き残りのためのルールが彼の胸三寸と
は思えないし、上手く立ち回ればゲームクリアは不可能ではない……私自身がそう
実感している。
そして三つ目、『深きもの』。地球そのものを敵に回すような力だけど、空間を
削り取ったり時間を止めたりする他の能力に比べると、決して太刀打ちできないと
いうほどではない。
『……感覚が麻痺していますよ、夢路さん。大道正義は百万人近い世界中の犯罪者
をあっという間に殲滅した個体です。「秤」の裁きは人間には回避不能なんじゃあ
りませんか? それに件のデスゲームだって、一度突破出来ただけでしょう。まし
て我々は地球に縋って生きている者というのをお忘れなく……』
「……そうですね」
黒服の言う通りだ。大道さんが御し易いのはあくまで相対的な話であって、ただ
の人間がまともに相手取れるわけがない。相手は魔神なのだから。
『しかし、ここ最近のあなたはすごいですね。もう半分以上の個体の能力を全て解
明しているじゃないですか。あなたの偉業を褒め称える言葉が私の語彙では見つか
りませんよ』
「……おべっかは無用です」
私を持ち上げようとする黒服に釘を刺す。もちろん、褒められて嬉しい気はしな
いし、それくらいの事はしていると思う。
今現在、七体の魔神の能力が全て判明している。
大神照、黄泉丘三途璃、木霊木珠樹、唯野唯、大道正義、終日寝太郎、恋心愛。
つまり残るは四体。
すなわち空々忍、白瀬城菜、桃井最萌華、明智知英。
「……」
あと一息……なんて口が裂けても言えない。情報を得るのが難しい個体ばかりが
残ってしまっている。当たり前といえば当たり前ではあるけれど、先が長い。
そしてもっと厄介な事に、もう一つの活動……つまり神器の取得が思うように進
んでいない。まあ元々こっちの方は、かなり難しいと思っていたけれど。
『この間、「夢枕<うつつ>」の入手に成功したと言っていましたね。その後どう
です?』
「ええ……おかげで毎日ばっちり快眠できていますよ」
『そ、そうですか……』
黒服は落胆の声を上げた。こっちの成果が上がっていない事にがっかりしている
みたいだ。
「神器を借りる交渉はもちろんですけど、個体によっては私に貸すほどの持続力を
持っていないようですね。唯野さんは典型的ですし、ジュジュ……木霊木さんの神
器に至っては、人間には使用できないみたいです」
『しかし……諦めるには勿体ないアイデアです。なんとかなりませんか? 私にで
きる事があれば、協力しますが……』
「……言いましたね?」
『き、極力ですが……』
「頼りにならない返事ですね……」
これ見よがしに溜息を零すと、黒服は困っていた。
まあ、逆の立場なら私だって躊躇ったと思う。当たり前の反応だ。
それに、黒服に協力を要請する機会も今のところ無い。必要ならいつでも呼び出
すつもりだったけど、そもそも魔神相手に出来る事が少なすぎる。少なくとも私が
持っている二つの神器より、彼が役立つとは到底思えない。せめてこうして状況確
認に付き合ってもらうくらいか。
結局のところ、自分で頑張るしかないみたいだ。
「とりあえず、また連絡しますね」
『はい……今後の予定はどうなっています?』
「午後はバーベキューです。夜になったらホテル前のビーチで星空を観察するカリ
キュラムがあるみたいです」
『それは……なんとも楽しそうですね』
「……皮肉で言ってるのなら怒りますよ」
『……失言でした。すみません』
「分かればいいんですよ……それでは」
電話を切る。部屋の中に、再び静寂が戻ってきた。
この空間に一人でいるだけなら、贅沢なバカンスだ。この後バーベキューをして
星を眺めるというのも楽しい事だ。
魔神さえいなければ、ね。
溜息をつく。もちろん無意味だ。
でも、悲しんでばかりはいられない。
今の電話で、ある程度今後の方針を決めた。
能力を探らなければいけない相手が四体。
神器の借り受けをしたい相手はそのうち二体。
彼女達の神器が持続力に優れているのは、過去の挙動からもう分かっている。人
間が使えればものすごく有用だし、心強い。
懸念点はただ一つ。難易度が高いという事だけ。
それでも、やらなければならない。
林間学校というこの状況下は、ある意味チャンスなのだ。
この状況で奮い立てないのなら、私がここにいる意味は無い。
頑張ろう。
そう意気込んだ瞬間、部屋の扉を叩く音が聞こえた。
上品で控えめで、それでいて聞こえやすいノック音だ。これが照ならもっと無雑
作だし、忍さんやジュジュさんならノックなんてしないで部屋に入ってくる。三途
璃さんはもう少し規則的だろうし、唯野さんが私を訪ねてくるとは思えない。
必然的に選択肢は、奇しくもタイムリーなものに絞られた。
私にとっては好都合だ。両手で頬を叩いて自分を鼓舞して、扉を開けた。
目の前に、背の高い白無垢な個体が立っていた。
白瀬城菜は私の手を取ると、いつものように人好きのする笑みを浮かべた。
「やあ、夢路ちゃん。これからちょっとだけわたしに付き合ってもらえるかい?」
「……もちろんです。どこまでもお供いたしましょう」
まるでエスコートを受けた姫のように、私は彼女に導かれた。
林間学校……二日目。旅はようやくオープニングを奏で始めていた。




