01
海を見ていると、本格的に夏を感じる。
太平洋に面した丸い形の窓からは、ほんの僅かに歪曲した水平線が見える。閉じ
切った快適な室内には波風が入ってきたりはしないけれど、耳をすませば窓の向こ
うの爽やかな微風が水面の上で踊っているのが分かる。雲の無い快晴の空は、日
差しの強さにまいって水平線の狭間で海と溶けあっているようだ。
「海……綺麗だなあ」
思わずそう独りごちた。水面を見て感嘆の溜息を零すほどロマンチストではない
けれど、雄大な景色に声を漏らす程度の感性はある。こういう時、自分は確かに人
間なのだと再確認して、今度は安堵するのだ。
穏やかな時間だ。長くは続かないと分かっていても、この時間を愛おしいと思う
自分がいる。もちろんそれは、現実逃避も多分に含んでいるわけで……
「おーい、むーちゃん! 一緒に外に出ようよ! もう皆甲板に上がって波を感じ
てるみたいだよ! むーちゃんもタイタニックごっこしない?」
「……」
背後から、私を現実に引き戻す声が聞こえてきた。
解放感のある大きな客室の扉が、控えめに叩かれる。私は後ろ髪を引かれる思い
で舷窓から離れ、扉を開けた。
扉の前にはもちろん、海の青さえ霞むほどに眩い金色のツインテールを揺らす私
の友人にして不倶戴天の仇……大神照がいた。真っ白なワンピースと麦わら帽子を
身に着け、快活に微笑む。
「むーちゃん、遅いよー。お荷物整理してたの? まだ林間学校どころか、最初の
目的地までの船旅だよ。何べん確認したって、お土産なんて増えてないよ?」
「私を卑しんぼみたいに言うのやめてよ……ちょっと窓の景色を見てたんだ」
「窓から見るより、直接見た方が楽しいよ! ほら、一緒に行こ!」
そう言って照は私の手を握って、急かすように引きながら歩き始めた。
今日からついに、林間学校だ。
夢の国やら試練の異世界やら宇宙空間やら電脳空間やらで、地獄のようなトリプ
ルブッキングを果たした七月二十日から中一日を挟んで、私は海の上にいた。
体調は万全だ。終日さんから『夢枕<うつつ>』を貰ったおかげである。とはい
え、この先の事を考えると気が重い。身体や脳は健康でも、メンタルは万全とは言
い難い。それでも、体調はしっかり整えておかないといけない。
旅は長い。三途璃さんからもらったしおりによると、林間学校は二週間。そのう
ち今日と明日の朝までは、船の上で過ごす事になる。
十一体の魔神達と、逃げ場の無い中で共同生活。
それは普段の学校よりもはるかにハードな日々が予想されるわけで。
今から不安でいっぱいだ。
「今から楽しみでしょうがないね、むーちゃん!」
そんな私の心情なんて知る由も無い照は、いつにも増して上機嫌だ。握った私の
手もろとも景気よく振り回しながら、私を振り返る。
「むーちゃんと一緒も久しぶりだね! 嬉しいな!」
「そういえば照、夏休みの間は全然連絡してこなかったね」
夏休みに照と接触したのは、今日を除くと唯野さんと公園に行った時に偶然出会
ったあの時くらいか。普段の照の様子を思うと、かなりドライな態度だ。いや、別
に寂しかったわけじゃないけど……なんだか新鮮だなあ。
「だってむーちゃん、みんなと仲良くなりたいんでしょ? 私もむーちゃんと毎日
遊びたいって気持ちをぐっと抑えて、皆にむーちゃんを譲ったんだよ」
「……なんか引っかかる言い方だけど」
「ん? もしかして寂しかった? 大丈夫! 林間学校ではずっと一緒だよっ!」
「い、いや、それはちょっと……」
「照れちゃってー」
照は朗らかに笑っていた。本当に楽しそうだ。テンション、上がってるなあ……
甲板に出ると、照の言う通りクラスメイト達が風と戯れていた。
木目調の足元にビーチベッドを立てかけ、サングラスを掛けた終日さんが枕に頭
を埋めてすやすや眠っている。自分の髪色と同じ水色のアロハシャツを着て、早く
も旅行を満喫しているみたいだ。
手すりのところでは、ワイングラスをくゆらせながら城菜さんと大道さんが海の
方へと腰掛けながらのんびりと話をしている。城菜さんはオフショルダーのサマー
ニットにジーンズを履き、大道さんは短パンに赤アロハのTシャツだ。珍しい組み
合わせだけど、どっちの個体も社交性が高いらしく、会話を楽しんでいる。
その反対側では、モモさんと愛ちゃんが手すりを背にスマホで撮影会を開いてい
る。モモさんは白と水色のかりゆしウェアに桜色のフレアスカートという挑戦的な
恰好で、対する愛ちゃんは制服だ。一昨日熾烈な戦いをしたばかりの二体だけど、
反りが合うのかお互いを被写体にカメラを向け合っている。遠目からじゃよく分か
らないけれど、愛ちゃんの身体は生身に見える。
船首の方ではジュジュさんが手すりに足を掛けてポーズを取っている。夏の日差
しにそぐわないシルクハットを被りつつも、服装は黒を基調としたゴシック調で露
出の多い……パンク系とでも言えばいいのだろうか、私の辞書に無い恰好をしてい
る。私を振り返って、挑戦的な流し目を寄越してきた。なんだか分かんないけど、
満喫しているようで何よりだ。
「照、むーちゃんさん、こっちですよー」
そしてデッキの中央付近に、ビーチ風の机を囲む忍さんと三途璃さんがいた。
何やらトロピカルなジュースを飲んでいる。忍さんは何故か真っ白な死に装束を
着て、袖に手を隠している。三途璃さんは愛ちゃん同様制服だけど、きっちりした
着こなしは今が学校行事の最中だと強く思い知らされる。それでも彼女の表情はリ
ラックスしているようで、この旅程を楽しんでいるのが伝わった。
照が諸手を挙げて二人に近づく。
「あ、なんか二人とも、美味しそうの飲んでるね! それなに? オレンジ?」
「パインジュースですよ。よければお二人ともどうぞー」
「夏といえばパイナップルよね! ちなみにパインっていうのは本来松の事で、パ
イン材は松を使用した木材の事よ。それから、学校に生えているのはパインの木じ
ゃなくてソテツだから、悪しからず……こういうのも勉強よ」
「……林間学校ですものね」
場所が変わっても魔神達の様子は変わらない。
それはつまり、いつも通り暴走の危険性があるって事だ。今のところその兆候は
見られないけれど……気を張っておかないとね。
でも林間学校の期間もそれなりに長いし、気を張り過ぎてもいけない。肝心なと
ころで動けるよう、気を張り過ぎない程度に張りつめないと……うーん、難しい。
とりあえず、忍さんからもらったパインジュースでも飲もうかな……おいしい。
「旅行、二週間だっけ。えへへ……楽しいなあ」
「旅行じゃなくて林間学校よ。でも、楽しむのはいい事ね。全力で楽しみなさい」
「もっちろん! 三途璃ちゃん、夜は部屋に集まってコイバナしようねっ!」
「こ、コイバナ……だめよ! 照には刺激が強すぎるわっ!!」
「えー、何焦ってるの? もしかして三途璃ちゃん、好きな人できた?」
「うるさいわねっ! 『余計な詮索はするんじゃないわよ』!」
浮かれているのか、照が珍しく三途璃さんに詰め寄っている。三途璃さんは顔を
赤らめながら『ブリタンの憐れな子羊』まで行使して躱す。わいわいとした問答の
中、彼女が微かにこっちに視線を流してきた……うう、いたたまれないなあ。
私が肩を縮めたのを、忍さんは見逃してくれない。
「……むーちゃんさん、愛されてますねえ」
「な、何の事でしょうか」
「このままハーレムものに移行します? 私、裏ヒロイン担当してもいいですよ」
「勘弁してください……」
「ハーレムもので一番無難に丸く収める方法を知ってますか? 主人公が死んで、
全員負けヒロインになる事ですよ」
「縁起でもないんですけど……」
「それか、ヒロインが一人を除いて全員死ぬ展開ですかね。ああ、そっちの方がよ
りハッピーエンドっぽいです。そっちにしませんか?」
「……しません」
ちょっと頭の中でそういう情景を思い浮かべて、すぐに吐きそうになったのでそ
れ以上はやめた。というか忍さんがヒロインレースに参加するビジョンが浮かばな
い。どんな想像をしていても、忍さんが出てきたらサイコホラーかスプラッターに
なってしまう。ピエロみたいなものだ。アクが強すぎる。
「どうせなら、クラウンって呼んでくださいよ。そっちのがかっこいいですから」
「もはや当たり前みたいに思考を読まないでくださいよ……」
いけない、早くもメンタルが摩耗しはじめた。この調子じゃ二週間はおろか、夜
までだって保たない気がする。あんまり頭を使わない方がいいのかな。素直にこの
状態を楽しもう。
私も図太くなったもので、魔神だらけのこの状態でも、気を抜いたら海が綺麗だ
な、とか風が気持ちいいな、とかそんな事を感じてしまう。
実際、クルーズの居心地は良かった。静かに海面を裂き、進む船。波音と風切り
音はうるさすぎず、静かすぎない。会話に差し支えるほどではないけれど、無言が
気にならない程度の環境音だ。音そのものも爽やかだから、聞いていて心地良い。
頬を撫で、前髪を揺らす程度の海風は潮の香りを伴ってくすぐったい。水分を含ん
だ空気はちょっと重いけれど、頭上を煌めく太陽から降り注ぐ熱気を上手い具合に
中和してくれているみたいで、蒸し暑さは感じない。ほんのわずかに額に滲む程度
の汗が、過ごしやすさの証だ。
このまま何時間でもこうしていたいと思うのは、私が本質的に怠け者だからだろ
うか。終日さんの隣にビーチベッドを置いて寝転がると、さぞかし気持ち良いんだ
ろうな、とか考えてしまう。もちろん魔神達が暴走したらと思うと、気が気じゃな
いから眠れないけれど。
「……今ふと思ったんですけど、どうして船なんですか?」
「どうしてって……何よその抽象的な問いは」
口を衝いて出た疑問に、三途璃さんが律儀に対応してくれた。
「林間学校の行き先……きちんと見た?」
「は、はい……沖縄ですよね」
城菜さんが提案し、三途璃さんが用意した行き先は沖縄だ。国内という事でスケ
ールは小さく感じるけれど、距離で言えばちょっとした外国よりも遠い。何より海
が綺麗だから、林間学校の舞台としては真っ当かつ無難で、なるほどあの常識的な
個体が言い出しそうな事だとは思う。
「そう、行先は離島。だから船で行く。何も間違っていないでしょう?」
「え、ええと、飛行機の方が速いんじゃ……」
「急いだって意味は無いもの。道中を楽しむなら、飛行機より船の方がいいわ」
「そ、そもそも魔神の力があれば乗り物なんて必要無いと思うんですが……」
「あなた……結果ばかりを求めるのは良くないわよ」
「へ?」
「過程をおろそかにしすぎるのは、心に余裕が無い証拠よ。もう少しリラックスし
た方がいいわ。たまには肩の力を抜いて、今を楽しみなさい」
「……」
肩の力を抜けだなんて、三途璃さんだけには言われたくないんだけど……
私がよっぽど釈然としない顔をしていたのか、照と忍さんもよってたかって私の
肩に手を置いた。
「確かに瞬間移動は楽だけど、船に乗るのも楽しいよ! むーちゃんだって車より
移動が遅くても、時には自転車に乗りたくなるでしょ? それと同じだよ」
「ムダかどうかで言うなら、極論人生なんてムダの塊ですよ。むーちゃんさんも観
念して、私達と一緒にムダを楽しみましょうよ」
「は、はあ……」
理解し難い感覚ではあるけれど、誰からも文句が出ないのだから、きっと魔神達
全員で納得済みなのだろう。そういえば皆、楽しんでいるみたいだ。甲板の上の個
体達の様子を見るだけでも、それがよく分かる。
まあ、魔神達がいいんならそれでいいんだけど。
「……あれ?」
改めて甲板を見渡すと、ここにはいない個体がいるのが気になった。
唯野さんと明智さんがいない。
そういえば明智さんとは夏休み中に一度も会っていないから、随分ご無沙汰だ。
いや、出来る事なら永遠に顔を合わせたくないタイプではあるんだけど……姿が見
えないとそれはそれで不安になる。あの個体は暴走するタイプじゃないと信じたく
はあるけど……
それでもちょっと気になったので、私はそれとなく二体の魔神の所在について、
照達に訊いてみた。
「唯ちゃん? ああ、あの子なら操舵室にいるみたいだよ。あの子、人間がたくさ
んいるところの方が落ち着くんだって。ほら、あそこなら船長さんがいるでしょ。
変わってるよね……あはは!」
「……船長が気の毒だけどね」
「あと、本読むって言ってた。船酔いするかどうか試すんだって。魔神が船酔いな
んてするわけないのに、やっぱり変わってるよね!」
「……」
そういう常識的な部分が気になるのは、唯野さんらしい。同時にちょっと小心者
すぎるところも含めて、いかにも彼女の言動だ。
「……で、明智さんは?」
「知らないなあ。むーちゃん、どうして明智君の事をそんなに気にするの?」
「い、いや、そういうわけじゃ……」
「むーちゃんさん、明智さんに気があるんですか?」
「それは聞き捨てならないわよっ!」
「ち、違いますよ……! ただちょっと気になっただけです」
「本当かしら……?」
三途璃さんが変に勘繰ってくる。うう……これは彼女の前で迂闊な事は言えない
なあ。三途璃さんだって、本気で私と明智さんとの間に何かあるとは思ってないだ
ろうけど……
「まあいいわ。最初に点呼は取ったから、明智君がこの船にいるのは間違いないわ
よ。見たところ彼、そんなに破天荒なタイプじゃないし、わざわざ船を抜け出して
までどこかに行ったりはしないと思うわよ」
「そ、そうですよね……」
三途璃さんの言う通りだ。ちょっと神経質になりすぎたかな。
落ち着こう。とりあえず今はただの移動時間だ。そんなにすぐに何かが起こるわ
けがないのだ。あまり気負い過ぎるべきじゃない。
「ところで三途璃ちゃん、そろそろお昼の時間じゃありませんか?」
「あ、本当だ! お腹空いた!」
「はいはい。船内のパーティー会場に昼食を用意しているわ。いい頃合いだし、そ
ろそろ皆で向かいましょう」
そう言って三途璃さんは席を立ち、他の個体達に声を掛けに行った。私達もまた
彼女の案内に従った。
甲板に出ていた個体達は、皆船の中に戻った。そしてパーティー会場とやらに足
を運ぶ。体育館くらいの大きさの巨大なホールの中心に、真っ白いテーブルクロス
を敷いた大きなテーブルが鎮座している。それを囲むようにして、椅子が十二個置
いてあった。
私達が会場を訪れた時、その一つは既に埋まっていた。
まるで海を漂う海藻のような天然パーマの短髪を携えた男性だ。スーツ風の上着
を着た、フォーマルな恰好をしている。その顔に湛えた微笑は、見ているだけで寒
気が走る。
明智知英だ。先刻甲板にいなかった彼は、一足早くここにいたのだ。
ただし、様子がおかしい。
普段は輝くようなエメラルドの瞳と深緑の髪を揺らしている彼は、全身がピンク
色に染められている。着ているものから靴まで、余すところなくピンク色だ。それ
でいて、全身が輝いている。しかし魔神の髪のような発光ではなく、光を浴びて反
射しているようだ。さながら、全身が宝石になったように。
明智知英は真珠のように固まっていた。
「こ、これは……」
「残念ながら、作品というわけじゃなさそうだね。それにしては精巧で、しかも忠
実すぎる」
城菜さんがいち早く等身大の真珠に近づいて触れ、肩を落とした。芸術家志望の
彼女としては、これが作り物であってほしかったのかもしれない。
けれどどうやら、そういうわけじゃなさそうだ。
作り物じゃないという事は、あれは明智さん本人という事になる。
明智さんは誰かの力によって、真珠にされたのか……?
「……どうやらこれは、わたし達への挑戦状のようだね」
城菜さんが不敵に微笑んだ。その指先には、名刺くらいの大きさの台紙が挟まっ
ていた。
「明智君の懐に、これ見よがしに刺さっていたよ。夢路ちゃん、読んでごらん」
城菜さんが台紙を私に手渡した。その場にいる十体の魔神の視線が、私に集まっ
ていた。
台紙には、こう書かれていた。
「あと十一人……我々は三人」
意味深な言葉だった。
けれどその言葉だけで、深刻な事態が起こっているのが伝わった。
唯野さんや愛ちゃんが大袈裟に慌てている。大道さんが憤っていて、モモさんと
城菜さんは面白そうだ。
これは一体何のつもりだろう。
どういう目的があるんだろう。
台紙の意味はなんなんだろう。
様々な言葉が飛び交うのを、私は冷ややかな目で眺めていた。
いや、こんなの絶対魔神の仕業じゃん。
……これは一体、どういう趣向なのだろうか。
とりあえず、くだらないと思った。




