04
深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている。
ニーチェだかサルトルだか、哲学者がそんな事を言っていたらしい。この格言の
正しい受け取り方は知らないけれど、魔神という深淵を知る私はこう解釈する。
物事を知ろうとすればするほど、相手はこちらの真意を読み易くなる。
つまり私が空々忍という魔神を知ろうと躍起になればなるほど、彼女からすれば
私のそういう下心が透けて見えるわけだ。
そしてそんな露骨な言動を、悪戯者の彼女が捨て置くはずもないわけで……
「授業お疲れ様でした。それではむーちゃんさん、今日は趣向を変えてコンサート
にでも行きませんか? 今話題の大人気アイドルグループの生ライブですよ。握手
券も付いているので、一生に一度の思い出になると思いますよ」
翌日放課後、忍さんは私にそんな誘いをかけてきた。よりにもよって、一緒に帰
ろうと照が私の腕を引き、口を開いたまさにその瞬間に。
「……」
照が動きを止め、何か言いたげに忍さんの方を見つめる。忍さんの人差し指と中
指の間、まるで煙草を吹かすようにひらひらと揺らめかせているコンサートチケッ
トが二枚。
そう、二枚。この場にいるのは三人なのに、チケットは二枚。
「……忍ちゃん、昨日はスネ夫みたいな真似はしないって言ってたじゃん」
「そんな事を言いましたっけ。でも今回ばかりはしょうがないんですよ。貴重なチ
ケットですから、二枚までしか入手出来なかったんです」
「えー……お高いの?」
「ファンクラブ限定の抽選です」
「え……忍ちゃんはどうやって手に入れたの? ファンクラブなんて入ってないで
しょ……?」
「いろいろとツテがあるものでして」
「……」
人間を見ると殺そうとする忍さんにツテなんてあるわけがない。殺した人間の所
持品を漁ったか、あるいは件のアポート能力『マーフィーの愛と希望の幸福論』と
やらで引き寄せたか……いずれにせよ、随分と小賢しい真似をするものだ。
そもそも私を誘うだけなら、今でなければならない理由はない。忍さんは私の隣
の席なのだから、授業中でも休憩時間でも、いつだってこの話を持ち掛けられたは
ずだ。それをわざわざ照が近くにいる時に始めるなんて、悪意しか感じられない。
意図的に仲間外れにされて、面白いわけがないのに。
現に照は不愉快そうに頬を膨らませている。これは、まずい……よね?
「あ、ええと……忍さん! 私はいいので、その、代わりに照を誘っては……」
「だめです」
私の起死回生の一撃を、忍さんは容赦なく叩き折った。
「私はむーちゃんさん、あなたを誘っているんです」
「で、でも……」
「断りませんよね? 用事なんてないんですから。あなたは昨日、言ってましたも
のね。『私、明日も暇なので、また忍さんの旅行に着いていきたいです』って」
「言いましたけどっ……!」
確かに言った。だって例のルールをより深く知るためには、なるべく彼女と一緒
にいた方がいいのだから。加えて、そうやって口約束をしておくことで、他の約束
を結ばなくてもよくなる。照の誘いを断る必要もなくなるし、一石二鳥だ。
……などと考えていた昨日の自分をぶん殴ってやりたい。私の甘い考えは忍さん
に見透かされ、照の機嫌を損ねる選択を強いられる結果になった。これがまた、照
の暴走を呼ばないかどうか、心配でならない。
というか、忍さんが照を巻き込んだのは予想外だった。人間である私相手には好
き放題やるのは分かっていたけれど、その累が同じ魔神である照にまで及ぶなんて
……彼女、本当に何を考えているのだろう。
とにかく、このままではまずい。こうなったら、政府の力を借りるしか……
「ちなみに、政府の協力を仰ぐのは無しですよ。世界遺産と違ってコンサートは人
間によるイベントなんですから、魔神が参加する事が明るみに出たら、パニックに
なってイベントそのものが中止になるでしょうからね」
私はまだ何のアクションも起こしていないのに、先んじて制されてしまった。ど
うやら本当に打つ手が無いらしい。
私がまごついていると、照がいかにも不承不承に一歩退いた。
「……いいよ。二人で楽しんで来ればいいじゃん」
「え……でも、あの」
「いいって言ってるでしょ! その代わりむーちゃん、今度二人きりで遊びに行く
からね! その時は、忍ちゃんは連れてってあげないから!」
捨て台詞を言い残して、照は去った。
どう楽観的に解釈しても、ものすごく怒っている。次の約束をした以上、いきな
り世界を滅ぼしたりはしないだろうけれど……本当に大丈夫かなあ。
「いやあ、むーちゃんさんは愛されてますねえ」
私の苦悩なんて知ったこっちゃないと言わんばかりににこにこ笑う忍さん。その
マイペースな態度には、物申さずにいられない。
「……忍さん、どういうつもりですか?」
「はて、何の事でしょう」
「あなた、アイドルなんか興味ないでしょう」
「それは実際に見てみないと分かりませんねえ。案外、はまるかもしれません」
「照、怒ってましたけど」
「ちょっとからかっただけですよ。照なら後で謝れば、笑って許してくれます」
「……私の事、試してます?」
「生憎、人間を試すほど悪趣味じゃありませんよ」
意味深な言葉を言い残し、忍さんが消えた。
そしてまた、私も彼女に連れられる。彼女の気まぐれに怯えながらも、人類のた
めに。
※
結論から言って、私が危惧するような事は何も起こらなかった。
忍さんは不気味なほどに大人しく、コンサート会場で大勢の人間を目にしても、
貼り付けたような笑みを絶やす事はしなかった。会場の喧騒で自分の声を掻き消さ
れても、物販の行列で並んでも、近くの人間を排除したりはしなかった。ステージ
上のアイドル達の一挙手一投足に歓喜するファン達に溶け込むようなその姿は、ま
るで普通の人間のようにさえ見えたくらいだ。
「いやあ、楽しかったですね!」
そんなだから、私は普通にコンサートを楽しんでしまった。
綺麗な衣装を身に纏い、煌びやかなステージを舞うアイドル達の姿はこの上無く
魅力的で、ついつい釘付けになってしまった。今までアイドルになんてさして興味
は無かったけれど、今日からファンになりそうだ。
人類の八割は滅び、世界は危機的状況にある。そんな中、人々の希望となり得る
のは、彼女達のような存在なのかもしれない。
「うーん……まあ、むーちゃんさんが面白かったのなら良しとしましょうか」
しかし私と同じものを見たはずの忍さんは、あまり愉快ではない様子で小さく笑
みを浮かべたまま、眉を顰めていた。
「あれ? 忍さんは面白くなかったんですか?」
「面白くなかったというか……意味が分かりませんでした。歌にせよ踊りにせよ、
ただ眺めているだけというのは退屈です。これが興行として成り立っているという
のは不思議でなりません」
「そう……ですかね。衣装も歌も踊りも素敵だったと思いませんか?」
「まあ、華美であるとは思いましたが……ああ、そういう芸術的視点が必要でした
か。例えるなら、生け花みたいなものですか。生憎私はその辺りの審美眼は無い方
でしてね……」
「あ、いや、違くて、もっと単純に……ええと、可愛かったでしょう?」
「いえ、別に。可愛いと言うのなら、あなたの方が可愛いですけど……」
「……」
どうもピントがずれている気がしてならない。言葉は通じているのに話が通じて
いないというのは、存外にもどかしいものだ。
「私は今日のコンサート、すごく感動したんですが……」
「感動……また感動ですか」
忍さんはまるで初めて聞いた言葉のように棒読みで、感動の二文字を口元で咀嚼
し続けた。しかしそれは長く続かず「まあいいでしょう」と顔を上げた。
「まだ時間はありますよね。今日はもう一つ、付き合ってもらえますか?」
「え? ええと……」
忍さんは私の返事を待たず、一瞬のうちに掻き消えた。そしてしばらく後に私の
視界がぐるりと切り替わり、広々とした薄暗い空間へと辿り着いた。
「ここは……」
大丈夫、危険な場所じゃない。遠くの壁に浮かぶ大きい案内板が並び、その下に
ある券売機とその前に並ぶ人達。他方にはポップコーンやコーラ専門の売店と、そ
の近くには近日公開予定のポップと現在公開中の作品のパンフレット。期待と歓喜
に溢れたこの空間は……映画館のロビーか。
忍さんは私の手を取ると、案内板の一つを指した。あと十五分ほどで始まる長編
映画のタイトルが案内されている。
「レイトショーですが……調べによるとなかなかの感動巨編だそうですよ」
「感動……え、えっと、忍さんはその、感動したいんですか?」
「ふふふ……してみたいですねえ、感動。人前で泣くのは初めてなので、今からち
ょっと緊張します」
言葉とは裏腹に、忍さんの表情からは何の懸念も感じ取れない。言葉の裏で何を
考えているのか、本当に分からない。
でも何となく、感動したいのは分かる。この間までの世界遺産巡りにしろ、そう
いう側面があっての事だ。それが彼女の行動原理だというのなら、理解はそれほど
難しくはないのかもしれない。いや、だからって私や照を弄ぶ理由にはなっていな
いけれど。
いずれにせよ、そういう事なら私も頑張ろう。彼女の感動の邪魔にならないよう
に、隣にいながらもさりげなく息を殺し、気配を消そう。それでいて、もしも彼女
が感動した暁には称える準備もしておこう。映画の内容もしっかり覚えておかない
といけない。
気合が入る。彼女のルールを知るという当初の目的とは少し違うけれど、これは
これで重要なミッションだ。
「むーちゃんさんは本当に分かりやすいですねえ」
忍さんが私を見て笑う。私の真意に気が付いているのなら、茶々を入れずに真剣
に感動する準備をしておいてほしいものだ。
かくして私達は上映フロアへ。今度こそ、感動を得られるように願いながら……
※
「あ、あれ……?」
ぼんやりとした意識を目覚めさせると、そこは映画館ではなかった。
多分十メートル四方くらいの、真っ白な部屋だ。壁掛け時計の一つも無いから時
刻は分からない。窓が無いから朝か夜かも分からない。家具が無いから、何の部屋
なのかさえ分からない。玄関扉以外、何も無い。他にあるのは天井に埋め込まれた
小さなシーリングライトと、何故か私の身を包むベッド。高級なマットレスを使用
しているのか、柔らかで心地良い感触が思考の邪魔になる。ええい、今は寝ている
場合じゃないっていうのに!
何があったのか、全然分からない。異様な閉塞感を抱きつつ立ち上がり、きょろ
きょろと周りを見渡す。やっぱり何も無い。一体ここは……
「ここは私の家ですよ」
「うわあっ!?」
突然背後から声がした。振り返ると、いつも通りの笑みを浮かべた忍さんが、当
たり前のようにいた。
「な、なんで私の後ろに……?」
「その方が驚くと思ったので。案の定、良いリアクションでしたよ」
「ええ……」
おそらく彼女の期待通りに呆れてみたけれど、それどころではない。とりあえず
スマホを取り出し……
「え?」
「おや、どうしましたか?」
「どうもこうも……嘘、ですよね?」
「私は嘘なんてついた事ありませんよ」
「……」
頓珍漢なセリフを聞き流し、スマホの画面を見つめる。日付は既に翌日になり、
時刻は……午前八時四十分。朝のホームルームの時間じゃないか……!
「え、えっと、忍さん……? 我々はどうしてこんな時間にこんな場所に……?」
「こんな場所とはご挨拶ですねえ。私の家だって言ったでしょう」
「え? ここ、忍さんの家なんですか……?」
もう一度周りを見渡す。家具も何も無いこの空間を部屋と称するのは、ちょっと
無理があるような……
「え、えっと……普段はどうやって生活してるんですか? その、ご飯とか……」
「おや、むーちゃんさんは知らないんですか? 魔神に食事は不要ですよ」
「え、えっと、でもお風呂とかお洗濯とか……」
「そんな面倒な事をしなくとも、能力があれば一瞬で終わります」
「じゃ、じゃあ、このベッドで寝る以外の事は……」
「ちなみにそのベッドは、むーちゃんさんのために用意したものですよ。あなた、
映画の最中に眠ってしまったんですから」
「……」
ちょっと待って。情報の整理が追いつかない。
そうか、私はあの後眠ってしまったのか。薄暗い空間の中、緊張し過ぎたのが仇
になったらしい。ここ最近気苦労で疲れているのもあったとはいえ、寝落ちしてし
まうなんて情けない。これが世界の命運を背負った人間のやる事だと思うと、未来
は暗い。
で、忍さんはそんな体たらくの私を連れて、自宅まで送ってくれたのか。
でも……これが自宅? こんな何も無い部屋が?
ミニマリストなんてレベルではない。無機質過ぎておかしくなりそうだ。
いくら食事の必要がないからって、身体を清める手段が他にあるからって、こん
な事になるわけがない。暇つぶしに本棚くらい置くし、壁紙くらい貼るし、せめて
机と椅子くらい並べるのが普通だ。
お金が無いわけじゃない。忙しいわけじゃない。それでいてこれは……あまりに
も常軌を逸している。
これが魔神の精神構造だというのなら、私は根本的に間違っていた事になる。こ
んなバケモノに歩み寄るなんて、あわよくば理解しようだなんて、絶対に無理だ。
い、いや、そんな事は問題じゃない。いや、大問題だけど……今はいい。
それより今、私と忍さんは……完全に遅刻じゃないか。
「な、なんで起こしてくれなかったんですか……?」
「なんですか、それ。むーちゃんさんは私のせいで遅刻したとでも?」
「あ、いえ、違います! ごめんなさい! そうじゃなくって……」
「冗談ですよ」
ほんの少しの怒気すら孕まず、忍さんは笑みを浮かべ続ける。
「もちろんあなたを起こさなかったのはわざとです。遅刻に付き合わせてしまってす
みません。あなたの三途璃ちゃんへの言い訳、期待しときますね」
「……そこは口利きしてくれる、とかじゃないんですね」
「まあ、あなたにも非があるわけですし」
「ぐうの音も出ません」
三途璃さんから拷問を受けずにいるには、どう立ち回るのが正解だろう。
ま、まあそれもいいや。半ば現実逃避でもあるけれど、今は当面の問題に取り掛
からないと。
「結局、忍さんは何がしたいんですか?」
漠然とし過ぎた質問だと思ったけれど、存外的を射ていたのか、忍さんは小さく
吐息しながら口元の笑みを崩さず、目を閉じた。
「知りたいのですよ」
「……私を遅刻させたらどうなるか、ですか?」
「それもあります。でも他にも、知りたい事がたくさんあるんです。その一つが、
私という魔神が幸せになる方法です」
「幸せ……?」
「幸せとは何でしょう。何者にも脅かされない事でしょうか。いいえ、違います。
それなら不死身である私は常に幸せのはずですから。でも私は満たされない。何が
足りないのでしょうか」
「……」
「人を殺して金品や尊厳を奪うのはほんの少し愉快ですが、幸せには全然足りませ
ん。感動しようと思っても、なかなか上手くはいきません。友達と遊んでも、お気
に入りのおもちゃを弄んでも、まだまだ全然足りません。ならばそもそも魔神とい
うのは、満たされない存在なのでしょうか。いいえ、これも違います。何故なら照
はよく幸せそうな顔をしますから。私は彼女が羨ましい。ほんの少し、ね」
「忍さん……」
「私は知りたい。幸せになる方法を」
再び彼女は繰り返す。
「照はあなたといる時が一番幸せそうでした。ならば彼女からあなたを取り上げた
時、どんな顔をするのでしょう。あなたから幸せを得る方法を、彼女は教えてくれ
るでしょうか。きっと教えてくれるでしょうね。私が頼まずとも、勝手に」
そうして忍さんは笑う。あくまで無機質に、何の感情も浮かべずに。
じゃらり。
不意に私の右手に、聞き覚えのある鎖の音がした。
その瞬間だけ、忍さんの表情にほんの僅かな喜色が浮かんだ気がした。