02
朝っぱらから二度目の全力疾走に寿命を縮めながらも、私は何とかホームルーム
の予鈴直前に、教室に滑り込む事が出来た。
「遅いわよ夢路。朝はもう少し余裕をもって出ないとだめじゃない」
教室の扉を開けてすぐ、一番前の席に座る三途璃さんが苦言を呈する。魔神らし
からぬ、まともなアドバイスだ。
「す、すみま、せん……今後は、気を付けますね」
「あなた、汗びっしょりよ。よっぽど必死で走ったのね。その意気は認めるけど」
「は、はあ、ど、どうも……」
「無理しない方がいいわよ。遅れたって拷問するだけなんだから」
「……」
冗談じゃない。だから寿命を縮めてまで必死に走ったのだ。魔神から拷問なんて
受けたら、生きて帰れるとは思えないし。
ふらふらになって席に着く。今すぐ机に突っ伏して寝たいところだけれど、そう
はいかない。気を抜いていたら、ホームルームでも惨劇を起こすのが魔神クオリテ
ィーなのだから。
予鈴が鳴り、すぐさま先生が教室にやってくる。今日は昨日の教師よりもベテラ
ンの落ち着いた先生だ。それでも三途璃さんが怖いから時間には厳格だし、はちき
れそうな緊張感を纏っているけれど。
「それではホームルームを始めます……おや、空々さんはお休みですか?」
「え?」
そういえば私の隣の席……忍さんがいない。学校に来るまでは私と一緒に息も切
らさず走っていたのに、いつの間にいなくなったのだろう。
……何か企んでいるのだろうか。まずいなあ。ルールに則るなら、忍さんは今、
誰を殺してもおかしくない状態にあるわけだ。いや、いつも大抵そうだけど。でも
このタイミングで席を外すのは不自然としか言いようがないわけで……
じゃらり。
「……ん?」
右手から鎖の音がした。少し重くなって右手首には、見覚えのあるアクセサリー
……『つらなりの鎖』が絡まっている。
え、なんでこのタイミングで?
驚いて照の方を見る。照は……普通に教室にいた。何食わぬ顔で鎖を手に持ち、
何を思ってか俯いている。伏した目でちらりとこちらを窺ったと思うと、すぐにま
た下を向いた。
じゃらり。
私の手首に二本目の鎖が巻き付いてきた。さらに重くなった鎖の先端はしかし、
どこにも伸びて行かないし、私を導くわけでもない。ただただ虚空から現れた鎖が
私に巻き付いているだけだ。
えーと……なに?
照は何がしたい? いつもは思った事をストレートに口にするのに、どうして今
回に限って何も言わずにこんな意味不明な真似を? 自己主張したいだけ? 何か
私に訴えたい事でもあるのかな。
あ、いや。よく考えるとあった、思い当たる事。
そういえば朝はいつも、照と待ち合わせして学校に行ってるんだっけ。
時々私の方で用事があって待ち合わせの時間に遅れる事はままあるけれど、通る
道は一緒だから、結局登校は一緒になる。
でも今日は普段の登校ルートを外れて忍さんと合流したから、照がいくらいつも
の道で待っていても、私は来ない。その気になれば『つらなりの鎖』で瞬間移動が
できる彼女の事だから、時間ぎりぎりまで待っていたかもしれない。
待ちぼうけを食わされて、しかも私は何事も無かったかのように登校している。
照からすれば故意に約束をすっぽかされたと感じてもおかしくない。
じゃらり。
私の考えに同調するように、手首の鎖が増えていく。もはや手首どころか、二の
腕くらいまで鎖まみれだ。
じゃらり、じゃらり、じゃらじゃらじゃらり。
ついに右腕が鎖で覆われてしまった。クラピカだってもうちょっと控えめなファ
ッションだぞ。
最終的に鎖は首元に巻き付き、輪に変質した。完全に首輪である。どうやら相当
お冠らしい。やれやれ、身体中が重くてしょうがないや。
でも、待ち合わせの約束を破った私が完全に悪い。人間相手でさえ非難されて当
然なのに、まして魔神。
首を飛ばされる程度なら可愛いものだ。好戦的な個体だったら、腹いせに大陸一
つ沈められてもおかしくないくらいだ。それを鎖まみれにするだけで許してくれる
照は、規格外に優しいと言っていい。
私は一体何をやっているのだろう。些細なミスさえ許されない事は、昨日で十分
身に染みたはずなのに。衝動的に動いて、結果これだ。なんて愚かな……
ホームルームが終わる頃には、私はすっかり意気消沈していた。教師が出ていく
と同時に、私の飼い主が鎖を持って私の前に仁王立ちする。
「むーちゃん」
「……ごめん」
「あれ? 随分素直だね。もうちょっと悪びれない感じで来ると思ったのに」
「照は私にどんなイメージを抱いてるの……いや、昨日の今日じゃそうだよね」
「いやいや、昨日はわたしが悪かったって結論ついたじゃん。もー、調子狂うから
元気出してよ」
「許してくれるの? こんなダブスタクソ女の私を?」
「初めからそんなに怒ってないってば」
照はけらけらと笑って私の肩を叩く。
「むーちゃんにもいろいろ事情があるんでしょ? 分かってるって。わたしは理解
ある魔神だもん。敢えて何にも訊かないであげる!」
「あ、ありがと……」
「照は大物ですねえ。私だったらもっと無意味に詰め寄っちゃいますよ」
「無意味に詰め寄るのはやめて欲しいんですけど……って、ええっ!?」
シームレスに会話に割り込んできた忍さん。い、いつのまに……
「あれえ、忍ちゃん? 今日は休みじゃなかったの?」
「いえいえ、ちょっと通学路で可愛い猫ちゃんを見つけたので、戯れていたら遅刻
しちゃいましてねえ」
「……」
嘘である。忍さんはずっと私といたから猫と会う機会なんてないし、そもそも多
分猫を愛でるような性格じゃない。
いけしゃあしゃあと嘘を吐く忍さんの言葉を、純粋な照は「いいなあ、わたしも
猫とか撫でたいなあ」などと指を咥えて羨ましがる。うん、照なら猫も愛でるだろ
うなあ。
「さて、むーちゃんさん」
ふと、忍さんが私を見やる。いつもの何を考えているのか分からない顔つきで。
「え? な、なんですか?」
「今日も楽しい一日になると良いですね」
「……どういう意図で言ってます?」
「深い意味はありませんよ。では私は、親愛なる三途璃ちゃんに怒られてきます」
そう言って忍さんはどこか嬉しそうに委員長の下へ。三途璃さんは忍さんの遅刻
を叱っていたけれど、魔神同士だからか「拷問」だのなんだのの話はしてなさそう
だ。ああ、いっそ私も魔神になれたなら、どれほど楽でいられただろうか。
「むーちゃん」
残された照が、じっとこちらを見つめてくる。
「なんだか今日はやけに忍ちゃんを気にしてない?」
「え? そ、そんな事ないよ」
「……そうかなあ」
「えっと……そう見えた?」
「……そうだね。それなりに」
「そっか……いや、私も友達として、もっと忍さんと仲良くならないといけないな
って思ってね」
「クラスメイトだから?」
「そ、そうそう……魔神だからって気後れしてたら、良くないもんね」
「うーん……確かに忍ちゃんはいいこだから、むーちゃんもきっと仲良くなれると
思うけどさあ」
「…………」
忍さんがいいこか……照の懐は広いなあ。
それにしても、照にしては珍しく歯切れの悪い態度だ。私と忍さんが仲良くする
のを快く思っていない……というわけじゃなさそうだけれど、いかにも何か言いた
げだ。
もしかして今日、照との約束をすっぽかした理由が忍さんにある事を、何となく
気付いているのだろうか。あるいは私の知らない忍さんの真意を、意外にも鋭い照
が察知しているのだろうか。
分からない。いつもは分かりやすい照なのに、分かりづらい忍さんが間に立つと
訳が分からなくなる。
まあ、分からないものは仕方がないか。どうにもならない事をどうにかしようと
しても意味が無いし、せめて照の動向には注意しておくとしよう。
忍さんと照を注意しつつ、他のクラスメイト達が暴走しないよう見張るのは骨が
折れる作業だった。けれど何とかかんとか、今日も無事に一日が終わった。
放課後を告げるチャイムとともに、私は疲労で机にぺしゃんこになった。三々五
々、教室から散っていく魔神達の動向を見ながら、一時的な達成感に酔いしれる。
けれどそれもつかの間、魔神が私ににじり寄る。
「むーちゃんもお疲れ様! って、なんかやけに疲れてない?」
「……大体いつもこんなもんだよ」
「確かにいつも疲れてるもんね。もしかしてむーちゃん、体力ない方?」
「……いや、そんな事無いけど」
誰のせいでこんなに疲れているのか……などとは口が裂けても言えないけれど、
私だって普通に学校に行くだけならこんなに疲れるもんか。
「っていうかむしろ体力には自信あるよ。前に照とかけっこした時だって、置いて
かれたりしなかったでしょ」
「あー、懐かしいね。でもあれ、二年くらい前の話でしょ。あれからわたしも成長
したし、体力もついたよ。どう、またかけっこ勝負する?」
「……絶対しない。勝てないもん」
「あはは! むーちゃんは素直で可愛いねえ!」
「……ばかにしてるな?」
「えー、そんな事ないよ。確かにむーちゃんはあれから背は伸びてないし、今じゃ
わたしの方が十センチくらい高いもんね」
「むう……ちょっとガタイが良くなったからって、好き放題言ってからに……」
ちなみに、たとえ照が二年前と同じ体格だったとしても、やっぱり勝てない。魔
神の身体能力は、人間のそれをはるかに凌駕するからだ。運動不足の女子高生じゃ
絶対に敵わない。
「じゃあ今日は、ゆっくりまったり帰ろっか」
そう言って照が私の手を掴む。けれどそのまま強引に立ち上がらせたりはせず、
あくまで私が起き上がるのを待っている様子だ。表情は晴れやかで、朝みたいな微
妙な含みは感じられない。裏表無しに、機嫌が良い証拠だ。
機嫌が良いなら大丈夫か。そう判断した私は立ち上がり、照に取られた自分の手
を無視し、さっさと教室から出て行こうとする忍さんの背に声を掛けた。
「あ、あの……!」
「ん?」
忍さんは立ち止まり、不敵な笑みを浮かべて私に視線を流した。
「どうしましたか、むーちゃんさん。私に何か用事でも?」
「あ、いえ、用事っていうか……」
慎重に言葉を選びつつ、忍さんの方へ向かう。私が一歩近づくごとに、彼女の表
情から興味の色が深くなっていったように感じたのは……気のせいだといいな。
「忍さん、今からどこかに行くんですよね……?」
「おや、何故それを?」
「……政府の人間から聞いています。最近の忍さんは、よく観光地に現れるって」
「まあ、政府の人はどこにでもいますからねえ」
忍さんは笑みを浮かべたまま、これみよがしに肩を落とした。
「とはいえ、あまり動向を探られるのは愉快じゃありません。むーちゃんさん、そ
れとなく伝えておいてくれませんか? あんまり私の目につくようであれば、対処
を考えておく……と」
「た、対処とは……?」
「具体的にはまだ決めてませんが……そうですね、見かけるたびに靴を片方だけ没
収するというのは?」
「抑止力としては弱いような……というか実際、そんな事する気ないでしょう」
「私は無意味な嘘はつきませんよ。ほら」
そう言って忍さんはどこからか、誰かの靴を取り出して見せた。サイズからして
明らかに忍さんのものではない。一体どこからそんなものを持ってきたのだろう。
そして今それを私に見せる事に、一体何の意味があるというのだろう。
「面白いでしょう?」
「意味が分からないです……」
「おや、そうですか。ではジョークについてはもう少し勉強しておくとして……そ
れで、私の外出が何でしたっけ?」
「あ、えっと、それなんですけど……」
私は必死に忍さんの表情を探る。でもやっぱりその笑顔の裏は全く読めない。
ええい、ままよ!
「忍さんの観光……差し支えなければ、えっと、私もついて行ってもいいですか?」
「……ふむ」
忍さんは値踏みするように私をねめつけ、頷いた。
「もちろん構いませんよ。照はどうします?」
忍さんは私の肩越しに照を見た。私の手を掴んだままの照は食い気味にずい、と
前に躍り出た。
「もちろん行くよ! 忍ちゃんと小旅行なんて、楽しみだなあ!」
相変わらず上機嫌の照は、私の手ごと腕を振り上げた。身長差で持ち上がった自
分の身体を必死で制しながら、私は今更ながら自分の大胆な行動を振り返る。
照も来るとは思わなかったけど、よく考えたらその可能性は普通にあるよね。
いや、それは別にいい。むしろ照がいてくれた方が、忍さんに対する抑止力とし
ては有効だし。
でもこれって、本当に大丈夫かなあ。冷静に考えると私は今から、学校の外で魔
神二人を連れ歩く事になるんだよね。
やばい、不安になってきた。
本当に大丈夫かなあ。忍さんのルール、ちゃんと機能する……よね?