03
魔法には代償が必要だ。
それは生贄や依り代が必要になる黒魔術にも言える事だし、『大魔導師の杖』に
よる魔法も同様なのだ。他の連中が具現化する道具よりも一際汎用性が高いのは、
そういう面があるからだろう。
その代償とは、体内のエネルギーだ。体力や気力に似た概念で、使うたびに疲労
が溜まっていく。ボクならば通常は数秒で快復する程度のものだが、逆に言えば魔
神であるボクを数秒疲労させる程度のエネルギーが必要という事だ。人間なんかが
使えば、一瞬でエネルギーを切らしてからからに干からびてしまう。以前無理矢理
人間に使わせた時は、骨と皮だけになったんだっけ。
「……」
今回はすぐに彼女に渡した杖を消し、エネルギーを完全に使い切る前に消費を食
い止める事が出来たため、そうはならなかった。ボクの隣でぐったりと倒れた友人
は、昏睡こそしているものの、死んではいない。
口元に手を添えてみる。うむ、呼吸は安定しているみたいだな。
ただ、目を覚ます気配は一向に見られない。肉体が睡眠による休息を求めている
のだろうか。控えめに寝息を立てている。
起こすのは簡単だ。魔法を使えばいい。エネルギーも適度に補充してやれば、ま
た起き上がるだろう。
だが、せっかくの機会だ。魔神の前で油断して眠る彼女の姿は新鮮だから、堪能
しておくとしよう。
ボクの友人……不破夢路は人間だ。
ボクよりも背が低く、百四十センチ中頃くらいだろうか。後頭部で結んだポニー
テールは、解くと多分ボクと似たようなストレートのロングヘアになるのだろう。
恰好は全体的に暗く、黒色の半袖パーカーに紺色のショートパンツと濃い目の黒タ
イツを身に着け、身軽そうなスポーツサンダルを履いている。ボクが黒色を好んで
いるのを知っているから、色合いを合わせているのだろう。夏の日差しが強い中、
健気なものだ。欲を言うと、可愛らしいスカートでも履いてきてくれればもっとよ
かったけど。衣服に反して肌は透き通るほどに白く、顔から足元に至るまでのあら
ゆる造詣が芸術的なほどに美しく、可愛らしい。
そんな彼女は、眠っているだけで絵になる。モーターボートが跳ねた水しぶきに
その容貌が映し出されるたび、世界が一つ余計に輝きを増したように見える。
ボクは可愛いものよりかっこいいものが好きだ。
そんなボクをして尚、彼女の容姿には惹かれるものがある。他の連中が彼女を傍
に置きたがる理由も、何となく頷けるというものだ。
ただし、ボクはそんな連中どもとは違う。たとえゆめじが醜悪な見た目をしてい
たとしても、ボクは彼女を相棒にしただろう。
彼女はボクの理解者だ。同じ趣味を持ち、一緒に楽しんでくれる友達だ。
人間の頃でさえ、そんな相手はいなかった。ましてアクの強い魔神どもに限定し
てしまえば尚更だ。
あるいは探せば、ゆめじのような人間は他にもいるかもしれない。だがボクの身
近にいて、かつ魔神の力を目の当たりにしても平気な人間はそうはいまい。何より
ボクは今、ゆめじを気に入っている。今更他の人間の事など、考える気はしない。
そんなのは、真夜中にドブをさらって小銭を探すようなものだ。無為で無謀で無
駄極まりない。そんな面倒はごめんだ。
ボクはゆめじがいればそれでいい。
しかしゆめじは多分、ボクがいればいいというわけじゃない。
そんな事は、今更当人に問いかけるまでもない。
かつて『テセウスの幽霊船』で彼女と合体した時に、その真意をボクは知ってい
る。彼女は立場上、ボクだけじゃなく他の魔神全員と仲良くしなければならないの
だ。そうしなければ世界が滅びるというのを本気で心配していて、それを事前に防
ごうと思っている。そのために自分を犠牲にするつもりもあるらしい。
……ばかな話だ。世界なんて、壊れたら作り直せばいいのに。他の魔神……少な
くともボクから寵愛を受けている以上、自分は助かる事くらい分かるだろうに。
ゆめじには大事にしたい人間がいない。ボクと合体した六月時点ではそうだった
はずだ。最愛の弟や母親に先立たれ、自分を窮地に追い込んだ父親を恨んでいる。
それなのにどうして、必死になって頑張るのだろうか。ボクには理解出来ない。
肩の力を抜けばいい。どうせ大抵の事はなるようになるのだ。
……まあ、ゆめじの事はいいか。
モーターボートは爽快な風切り音を鳴らしながら、海のような超カスピ海を滑走
している。この心地良さを享受しない手は他にあるまい。
相棒は眠ってしまったし、優雅に本でも読むとするか。
『大魔導師の杖』を振り、『転移魔法』で自宅の本棚とこの場所を繋げ、未読の
本を引っ張り出して読み始めた。
※
ふと顔を上げた時、太陽は西に沈みかかっていた。
湖面が橙色に染まり、幻想的な雰囲気を帯びている。
時刻を確認すると、出発してから四、五時間ほど経過していた。隣で寝息を立て
るゆめじの様子は相変わらずで、未だ目を覚ます気配は無い。
「……ここ、どの辺だ?」
『探知魔法』で地図と現在地を映し出す。どうやら湖の中心近くまで来ているみ
たいだ。随分早いな……ちょっと速度を上げすぎただろうか。
おっと、そんな事はどうでもいい。
それよりも今、遠くで誰かの声がした。だからこそ読書を切り上げて顔を上げた
のだ。
この湖は魔神の誰かによって破壊され、攻撃を受けている。それでなくともここ
は湖の中心で、岸までは何百キロも離れている。こんなところに人間が来るわけは
ない。
……魔神だな。
モーターボートを止め、耳を澄ませる。
小さな声が聞こえてきた。人間ならば聞き取る事の出来ないほど遠く、小さな声
だ。何体かいるが……そのうち一つは聞き覚えがある。ふん、あいつか。
ボクの嫌いな魔神だ。好きな魔神なんぞいないが、あいつは特に嫌いだ。
出来れば会いたくはないが……こんなところに来ている以上、あいつも件の海竜
……カッシーを狙いに来たに決まっている。
獲物を横取りされるわけにはいかない。やむなしだ。
再びボートを動かし、声の方向に走らせる。
やがて十分ほどして、水平線の向こう側から大きな漁船が現れた。ボクのモータ
ーボートとは比べるべくもない、汚らしくて無骨な姿だ。こういうところに気を遣
わないのはイメージ通りだ。ふん、反吐が出る。
向こうの漁船はボクらに気付いたらしく、接触する直前で停止した。
ボクもまたボートを止め、ゆめじを抱きかかえて漁船に乗り込んだ。
「ひっ……!」
甲板の上にはいかにもむさくるしい男が数人いて、ボクの姿を見て怯えていた。
取るに足らない連中だ。無視しよう。
甲板の向こう……ガラスで区切られた操舵室へ視線を送った。するとそこの扉が
開き、中から魔神が一体……予想通りの姿が現れた。
夏の息吹に充てられた植物のように力強い深緑の髪の男子だ。翠玉のような瞳を
不気味に細めて微笑を浮かべる様子は、信用の二文字を失くした世界から来た異邦
人のようだ。背丈は男子の平均か少し高い程度だが、女子としても小柄なボクらが
相手だと見下ろされる格好になって気に入らない。白々しくも白衣を着込み、ボク
らを見て「おやおや」などと余裕そうに振る舞うその態度もまた、癇に障る。
明智知英。胡散臭いという意味では、誰よりも会いたくない相手だった。
「私の船にようこそ、木霊木さん。こんなところでお会いするなんて奇遇ですね。
ご友人と仲良くクルージングですか? それは素晴らしい。夏休みでもクラスメイ
トと交流を深めるなんて、黄泉丘委員長が聞いたら喜びますよ」
「……ふん、白々しいな。はっきり言ったらどうなんだ? 邪魔だからどけって」
「そう言ったら素直にどいて下さいますか? 貴女こそ白々しいですよ。腹芸を試
みるのは結構ですが、生憎貴女には向いていないと思いますよ」
「喧嘩売ってるのか?」
「とんでもない。私はクラスメイトとして、貴女をリスペクトしていますよ」
まったくもって心が込められていない台詞をいけしゃあしゃあと吐き、明智はボ
クの反応を待っているようだった。ボクは何も言わず、その仮面染みた顔を睨みつ
けてやった。
「……時間の無駄のようですね」
やがて明智はこれ見よがしに肩を竦めてみせた。
「どうせ貴女も海竜の噂を耳にしてここに来たのでしょう? 海竜の調査は私が行
いますので、貴女は友人と一緒に帰っていただきたいのですが」
「……狸め。正体表しやがったな」
「どうせ貴女方はお遊びでしょう? 代わりに私の知っている怪談をいくつか教え
て差し上げますので、それで満足してください。どうせまだ、ろくに活動をしてい
ないのでしょう? 今から別の遊びを始めたとして、貴女に損は無いはずです」
「……冗談じゃない。こちとら時間を掛けてここまで来てるんだぞ」
「愚かな主張をしますね。貴女の能力ならば、瞬間移動も可能でしょうに」
「……ボクの能力の事、誰から聞いた?」
「以前、教室で能力を使っていたでしょう。唯野さんが夢路を攫う前日でしたか」
「……」
夢路と一緒に山女の捜索をした時の事か。別に隠しちゃいないが……行動を目ざ
とくチェックされているのは気分が良くない。ボクは見世物じゃないぞ。
「生憎だが、譲れないな。ゆめじにはもう海竜の事を話してあるからな。彼女が目
覚めたら、海竜を探すのを楽しみにしているだろう。オマエに邪魔されたって聞い
たらがっかりされる」
「心配はいりません。彼女は性格上、自分の楽しみよりも我々魔神達が衝突する方
が嫌がりますので。私に海竜を譲ったと知れば、ほっと胸を撫で下ろしますよ」
「……知ったような口を利くな」
「おや、これは失礼。そういえば貴女も不破夢路の友人の一人でしたね。彼女を欲
するあまり、同化した事もありましたっけ。いやはや、おぞましいまでの執念と倫
理観の欠如を感じます。そんな貴女を敵に回したくはないんですがねえ」
「……オマエに倫理観を問われたくはない」
ずけずけと言葉を並べる無法者に、うんざりだ。
ただ……コイツの言う事も一理あるかもしれない。夢路はコイツと事を構えるの
を嫌がるだろう。ボクとしては、コイツの言いなりになるのは業腹の極みなんだが
……ゆめじのためになるなら、やむを得まい。
「いいだろう。条件次第でこの場を退いてやる」
「素晴らしい。貴女は話の分かる方だと思っていましたよ」
「どの口が言いやがる……条件は一つだ。海竜を見たらすぐ帰れ」
「……何ですって?」
「今日は退いてやるが、明日も退くつもりはない。オマエに与えるのは、あくまで
優先権だ。ボクは後日、海竜を調査する」
「……それでは意味がありませんね。私は海竜を骨まで残さず調査する必要があり
ますので」
「それはボクらの後にしろ」
「承服しかねます。貴女が海竜を都合良く作り変えない保証はどこにもない」
「……なに?」
「チリに作った貴女の楽園……私が知らないと思いましたか? 貴女の能力をもっ
てすれば、海竜を悪趣味な合成獣に変える事など造作もない」
「……さあ、それはどうだろうな。何にせよ、ボクはそんな事はしない」
「生憎ですが……貴女の主張は信じられませんね」
「……」
「……」
こいつ……本当にボクに喧嘩を売っているのか?
全然退く気が無いようだ。こうなるとボクだって退く気が失せるというものだ。
「……一応訊いてやる。オマエ、海竜をどうしようっていうんだ?」
「先程から言っているでしょう。調査するのですよ」
「だから、それは何のためにだ?」
「無論、人類のためですよ」
「……はあ?」
聞き違いか? こいつ今、人類のためって言ったか?
耳を疑うような言葉を述べて、明智は壮大な調子で両腕を広げてみせた。
「元々、カスピ海に海竜などいません。明らかに魔神の誰かによって生み出された
ものでしょう」
「……そいつはどうかな。オマエにはロマンってものが無いのか?」
「ロマンですか、そいつはいい」
ボクの言葉を、明智はいかにも尊重したように引用した。
「もしも魔神由来のものでないのなら、それはそれで新たな発見です。その発見は
魔神以外の超存在の証明となるでしょうね。そうなれば、魔神の絶対性は薄らぐ事
でしょう。翻って、我々の存在基盤そのものを揺るがす銀の弾丸となる……素晴ら
しい事です」
「……オマエ、何言ってるんだ?」
「魔神由来のものならば、それはそれで構いません。私はそれを解析し、能力によ
って生まれた生物の可能性を追求するまでです。ひいてはこれも人類のため。我々
魔神の優位性の排除に繋がるかもしれません」
「……?」
よく分からない。こいつ、何がしたいんだ?
存在基盤を揺るがすとか優位性の排除とか、まるで魔神の存在を認めてないみた
いな言い分だ。この力を自ら放棄して、世界の全てを好き放題出来る現環境をひっ
くり返そうと目論んでいるのか? そんな事出来るわけないし、仮に出来たとして
そんな事をする意味があるのか? 並ぶ者が世界に両手の指の数しかいないような
圧倒的なアドバンテージを自ら放棄するメリットが、どこにある?
大富豪が有り金を捨てて回るような行為だ。狂気の沙汰としか思えない。
「……明智。ボクはオマエを支持しないぞ」
「それは残念です」
明智は全く表情を変えずに肩を竦め、周りで縮こまっている男達を振り返った。
「ですが、木霊木さん。貴女は誤解していらっしゃる。私の行いが世界にどういう
恩恵をもたらすか、分かっていない」
「……あん?」
「私が連れてきたこの人間達は、みな権威ある学者先生です。元々は海竜の調査の
ために連れてきた知恵者達ですが……丁度良い。彼らから貴女へ、私の行いの必要
性を説いていただきましょう」
「……ボクに説教するっていうのか?」
「難しく考える事はありません。これは啓蒙ではなく、単なる交渉です」
「生憎だが、その必要は無いな……『火炎魔法』」
ボクはゆめじを両腕で抱えたまま、手に『大魔導師の杖』を持って構えた。
明智が連れてきた権威ある学者先生とやらは、一人残らず一斉に炎上した。
穏やかな海面が揺らめく超カスピ海に、いくつもの火柱が立ち上る。まもなく奴
らは灰となり、それ以外の痕跡を残さずこの世から消えた。
明智はその一部始終を呆然と眺めていた。白々しい笑みが消え、翠玉が真円を描
き出す。その瞳はボクを映し、名状しがたい感情に震えているようだった。
「……なんという事を。今ここに、珠玉の頭脳がいくつも失われたのですよ」
「そんな事知るか。頭脳だろうが天才だろうが、ボクらの前には何の意味も無い。
魔神だからな。人類なんて、滅びるだけのロートルだ。そいつを重宝するオマエの
気が知れない」
「……正気の沙汰とは思えません。貴女には、道徳心が欠如していますよ」
「大きなお世話だ。それで? オマエのお仲間はいなくなったぞ。一人じゃ満足な
調査なんて出来まい。さっさと帰ったらどうだ?」
「……このまま私が引き下がるとお思いですか? 私の仲間を奪った代償を、貴女
に払っていただかなくてはなりません」
「そんなの取るに足らない事だろ」
「ほほう! ならば貴女が大事そうに抱えているそれも、取るに足らないものだか
ら私が奪っても構いませんね?」
明智の戯言が耳に届いた瞬間、身体中の血液が沸騰したのを感じた。
思わず握っていた杖に力が込められ、激しく軋みを上げる。
ボクらが乗った漁船を中心に超カスピ海の水面が激しく波立ち、時化った。
「次そんな冗談抜かしてみろ……オマエを肉片一つ残らず消してやる」
「……良い返事です。私の溜飲も下がりましたよ」
穏やかな口調とは裏腹に、ボクを見つめる視線には強い敵意が感じられる。
ボクだって、ここまでコケにされて黙っていられるものか。
「……やるか?」
「受けて立ちましょう」
ボクの挑戦を受け、明智がどこからともなく小刀を二本取り出し、それぞれ左右
の手に持って構えた。あれがあいつの武器か。ふん、上等だ。
ボクはゆめじを看板に優しく置き、杖を向けた。
「……少しの間だけ待ってろ……『防壁魔法』」
魔法を使うと、ゆめじの周りに薄い膜が張られた。これで巻き添えは食わないだ
ろう。
顔を上げ、明智と対峙する。一触即発な雰囲気が流れ、空気が張りつめる。
これだけボクの邪魔をして、あまつさえゆめじにターゲットを定めた愚行……そ
の身で味わってもらおうか。
ボクは杖を振るい、魔法を放った。




